「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感・その2

2014年9月6日土曜日

「ダビデの幕屋の回復」に関する問題

t f B! P L
 前回は「ダビデの幕屋の回復」運動に対する違和感について書いた。今回は、その運動がもたらす結果について、事例を交えて書きたい。
 なお、以下の事例はあくまで個々の状況であって、「ダビデの幕屋の回復」運動全般に言えるかどうかはわからない(が、少なからず似たような傾向をどこも抱えているだろうと思う)。

・社会常識を無視する

「ダビデの幕屋を入ると、まず大庭がある。大庭では喜びの賛美が高らかに歌われる。だから私たちもそうしなければならない」
 そういうリーダーの主張のため、個々の礼拝の冒頭は非常にノイジーである。ちょっと信じられないかもしれないけれど、彼らは夜中にも関わらず、大音響で賛美をする。それで近隣住民から苦情が入る(当然だ)。するとリーダーは逆ギレして、住民に言う。
「これは宗教行為だ。教会が宗教行為をするのは当然だ。それをやめろと言うのは営業妨害だ。こっちが訴えるぞ」

 これは明らかに社会常識に逆らっている。社会常識に逆らっていいのは、禁教や迫害といった状況があってのことだけだ。何の罪もない、ただ安眠したいだけの住民に毎晩多大な迷惑をかけておきながら、「邪魔するなら訴えるぞ」などと脅すことは、ヤクザでもしない。いや、これならヤクザの方がはるかに礼節がある

 また、信徒の拘束時間が異様に長いという問題もある。
 たとえばある教会でその運動に参加すると、最低週3回の礼拝(1回2時間以上)に出席することになる。礼拝前後で準備と反省会もあるから、ざっと見積もっても週に10時間以上拘束されることになる。当然ながら無償でだ。
 会社で働く人が週10時間以上ボランティア活動をすると考えたら、その異様さを実感できるかもしれない。彼は家族との時間、友人との時間、自分だけの時間の多くを捨てることになる。これも社会常識から逸脱していると言える。

 もちろん拘束時間だけで言えば、それを専業としている人であれば、週10時間以上など問題にはならない。というか、もっと働け。

・聖書教理からズレていく

 傍から聞くと「?」なことを言い出すのも、この運動の特徴だ。たとえばこんなのがある。

「東京は悪魔に縛られている。江戸時代の某僧侶が結界を張ったからだ。それらの結界を探して、主の御名によって打ち破らなければならない」
「自由の女神はニューヨークを見張る偶像の象徴だ。霊の戦いをして倒さなければならない」
「この場所(教会)は主の守りの中にあるから安全だが、外に出ると悪魔の攻撃にさらされる」
「〇〇がうまくいかないのは、背後でフリーメーソンが暗躍しているからだ」

「陰陽師」とか「エクソシスト」とか、その手のホラー・オカルト系映画の影響をモロに受けたような話だ。キリストの十字架による贖いを、完全に無効にしている。神を信じても、霊的戦いなどの「行為」をしなければ「呪い」から解放されない、救われないと主張しているからだ。

 それらの「?」な主張が生まれるのは、「ダビデの幕屋の回復」で長時間祈った結果だ。2時間にも3時間にも及ぶ賛美と祈りの中で、頭に浮かんだものを言語化している。「だから主からのものだ」と彼らは自信をもって言う。

 そういう「?」な主張が起こる一つの原因は、その「祈り方」にある。

 I.H.O.P.を見たことがある人はわかると思うけれど、礼拝の最中、何人かの奉仕者(Intercessorと呼ばれる人たち)が聖書の御言葉を読み上げたり祈ったりする場面がある。日本の教会でもそれを真似して、「示された箇所を宣言したり祈ったりする」時間を持つところがある。
 その場合、信徒らは少なからず、とにかく何か読まなければ、祈らなければ、みたいな思いがあって聖書をめくる。それでたとえば(あくまで一例だが)、「縛られた人を解放する」みたいな箇所が何となく「示された」気がして、宣言してみる。すると、「アーメン」が連発されて盛り上がったりする。盛り上がると、他の信徒らも同じような意味の箇所を探して宣言するようになり、結局のところ、全体的に「縛られた人を解放する」みたいなテーマになっていく。
 すると、「今、神様が縛られた人の解放を願っておられるんだ」という話になって、
「じゃあ縛られた人とはどこの誰のことだ?」
「この町の人々じゃないか?」
「じゃあ何に縛られているんだ?」
「そりゃ悪魔だろう」
「悪魔はどうやって縛っているんだ?」
「うーん、そこはよくわからないから、もっと祈ってみよう」
 みたいな流れになる。そして、「何らかの方法で」「悪魔によって縛られた」「この地域」というのがキーワードになる。そして住民を「解放」するにはその「縛っている方法」がわからなけばならないから、その方法だけを一生懸命祈る。すると、やはり何となく、「結界」とか「お寺」とか「神社」とか、そういうものが思い出されて、「わかった、結界だ!」とかなる。

 そういうことの繰り返しがあって、前述の「?」な主張が、彼らの中で現実味を帯びていく。

 この一連の流れを見ればわかる通り、そのプロセスは非常に安直で短絡的だ。また手に持っている聖書を完全無視している。けれど彼ら自身には、「長い時間祈っている」「主にお仕えしている」という自負があるから、そうは認められない。むしろ否定されればされるほど、「これは秘密の真理だから他人にはわからないんだ」みたいなことを言って態度を硬化させていく。

 まだまだいろいろな事例があると思うけれど、特に問題だと思うものを挙げてみた。
 何か事例を知っている方がおられたら、是非教えていただきたいと思う。

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