「和解の務め」を言うクリスチャンがいる。
キリストが十字架で、神と人との和解を成し遂げた。そのキリストの弟子である私たちクリスチャンにも、同じ務めがある。すなわち「和解」のために行動しなければならない、という。
その文脈で言うと、未信者に福音を伝えて信仰に導き入れることが、私たちの「和解の務め」だと考えられる。神と未信者との和解になるからだ。それならすんなり理解できる。けれどそれは、「和解の務め」なんてややこしい言葉でなく、単に「伝道」と言えば済む。
けれど彼らの言う「和解の務め」はちょっと違う。
たとえば国と国、地域と地域、集団と集団のいろいろな対立を取り上げては、「私たちが主にあって和解の務めをしなければならない」と言う。
たとえば国と国、地域と地域、集団と集団のいろいろな対立を取り上げては、「私たちが主にあって和解の務めをしなければならない」と言う。
一例を挙げると太平洋戦争時代、日本はアジア諸国を統治したけれど、その謝罪が十分でなく、今も各国と「霊的に」わだかまっている、という。だから現代の私たちが、祖父らに代わって謝罪しなければならいそうだ。
他にも、関ヶ原の合戦以来、日本は東西が「霊的に」いがみ合っているから「和解」しなければならないとか、会津藩は幕府に恨みがあるから「和解」しなければならないとか、まあそういう歴史をいろいろ調べてきては、祈りの場に持ち寄るのである。
それで彼らがどんな「和解」をするかと言うと、簡単に言えば、現地に行って祈る。
まず現地に入ったらプレイヤーウォークなどして、「霊的に重要な地点」を(感覚頼みで)探し出す。そしてその地点に行ったら、どんな種類のわだかまりがあるのか、争いがあるのか、どんな悪霊が働いているのか等、祈りによって(感覚頼みで)知る。それで戦う対象がわかったら、今度は「霊の戦い」である。叱ったり怒鳴ったりして、悪霊を(感覚頼みで)退ける。そして決め台詞はこうだ。
「主にあって和解の務めを果たします」
その一連の活動が終わると、ハレルヤ、主の勝利、歌えや踊れや、となる。
それでその地の「和解」が成立して、何か良いことが起こっていくなら、こんな簡単な話はない。
しかし実際のところ、それでアジア諸国がいつの間にか納得している、なんてことは起こらない。巨人ファンと阪神ファンが全員仲良くなるなんてこともない。会津の人たちが急に感動して泣き出すこともない。
結局のところ、それは彼ら自身の「内輪受け」、あるいは独り善がりならぬ「教会善がり」なのだ。勝手に「わだかまりがある」と決めつけ、勝手に戦い、勝手に祈って「和解させた」と言い張っているだけだ。
なぜなら、聖書はそういう種類の和解を仲介しろなんて言っていないからだ。
それに聖書を持ち出すまでもなく、それが本当の「謝罪」とか「和解」とかでないのは一目瞭然だ。なぜなら謝罪とは、当事者が当事者に謝ることだからだ。和解も、当事者どうしがするものだ。彼らのように勝手に行って勝手に祈ったから成立するものではない。それでも彼らは「霊的に・・・」とか言うかもしれないけれど、そんなの現実世界では何の役にも立たない。
一万歩ほど譲って、仮にそれで謝罪や和解が成立すると言うなら、次のケースについてどう考えるだろうか。
アメリカは日本に2度も原爆を落としたけれど、公式な謝罪はない。むしろ「戦争を早期終結させてやった」とか言っている。けれど多くの日本人はそれを納得していないし、どこかで怒りや憎しみをい抱いている(と思う)。
これは、彼ら風に言えば「霊的にわだかまっている」状況であろう。
ここで、アメリカのクリスチャンらが、「和解の務め」をしようと来日する。そして広島や長崎を巡り、プレイヤーウォークをして「重要地点」を探り、そこで「霊の戦い」をし、悔い改めの祈りをして、「和解成立」と宣言したとする。
日本人はそれを知ったら、本当に「和解」として受け入れるだろうか。
少なくとも私はそういう形の「和解」は受け入れない。アメリカに対する個人的恨みはないけれど、そういう問題ではない。全然関係ない奴らが何も言わずに勝手にやって来て、勝手にやって勝手に宣言しただけで、自分とは何の関係もないからだ。むしろ、それで「和解した」とか言われても困る。
だからそれは謝罪や和解でないどころか、何の意味もないパフォーマンスでしかない。
同じようなことをしていると思い当たった方がいたら、是非とも考え直すことをお勧めする。
関東の保守バプテストの宣教師が、ニールアンダーソンの霊的戦いを持ち出して、
返信削除日本を勝ち取るためとしょうして、プレイヤーワークをしているのです。
結局アメリカ人の宣教師が日本にきて長いですが、なかなか日本で救われる人が起こされないのは、彼らの日本に対する社会への無理解(日本の社会の中に日本人として生きていないため、現実として大変さがわからない)と言語の壁が多いにあるとおもいます。
彼らはそういうことがわからないまま、長期的に日本に滞在はしますが、あまりにも日本人が救われないので
prayer walkにいってしまうのだろうとおもいます。
ですが、宣教師も、少し高慢で彼らは本当に救いを求めている日本人のところへは身を低くして出向いていないとおもうのです。
ニールアンダーソンの書物は日本では「悪用」されていると思います。北米では彼のポジションは聖書的福音派的とされ、その手法も力の対決ではなく、み言葉の対決となっていて、悪霊への直接的な働きよりは自分の心の中のメッセージが何であるかに重点があると理解されています。
削除師匠の一人に私が彼の本をペンテコステ派の本だと思っていたと告白しましたら、いや違うのだということで苦笑いをしていました。
結局、外人宣教師の多くは、上から目線でしかものを言わない。
返信削除そんな気がしています。
日本人に対する敬意が足りない、もしくは的外れ。
日本人を対等に見ていない人も多い。
良い日本人とは、自分になつき、従う可愛いポチ。
自分よりいくらか劣ったものとしての日本人を愛しているのだろう。
その「可愛いポチ」になった日本人が困りものなのですよ。彼らは完全にあちらにとりこまれてしまっています。
削除キリスト教を信じたからといってなにかにつけて名誉白人気取りで、日本や日本人や日本の文化といったものをすべて否定し、「これだから日本はだめなんだ・・・」とやるので、「あなたはいったいどこの国の人なのですか?」と問い詰めたくなってしまいます。
キリスト教を信じたところで日本人は日本人でしかありませんし、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。キリスト教を信じるということは日本人をやめることだと彼らは勘違いしているような気がしますね。
良い日本人とは、自分になつき、従う可愛いポチ>これはその通りだとおもいますね。
返信削除なぜなら大きな集会などには、必ず普段ならあまり目立たない男の子や女の子をわざとほめて、うまく使っているのが目につくからです。
どんなことがあっても掃除や、下準備のようなサーバント的なことには見向きもしません。おおきな体の外人が「このお皿ラップができてないよ〜」とみんなが一生懸命掃除している横で、たったままこのようなことをいうのです。
どうしてラップくらい気づいた本人がしないのでしょうか?
総体的に見れば、白人至上主義の思想が背景にありますから、仰るとおりでしょう。
返信削除上から目線。
しかしながら、そう言うある意思の下に戦略的に送り込まれた宣教師を別とすれば、個人としてキリストに出会い、日本人の救いを情熱的に信仰で受け取ったであろう方であれば、別と思います。あくまで「純粋に」と言う意味です。それが、どのくらいの比率なのか、見当もつきませんが。要するに、自分たちが教えられた教義を、ただ「純粋に」実行に移しているのだと思います。
そうとは言え、自分たちが生まれ育ってきた国とその文化が(キリスト教文化が)優れており、特に日本は「祖先崇拝と偶像礼拝」の全時代的な文化である、と決め付けているので、「真の神様を早く信じましょう。救われて天国へ行きましょう。信じないと地獄に落ちます」と、学校等の前でおどろおどろしい挿絵のトラクトを配り、子供たちを恐怖に陥れています。
あれっ!?そうなると、教会が宣べ伝えている「福音」は、欧米文化の優位性の下に成立した、他国の文化を卑下・否定・抹殺するべくして(植民地支配の道具?)進出して来たものではないのでしょうか?
「真理」であるから、目を覚まさなければ、隣人を「救い」に導かなければ・・・・・・と言う「クリスチャン」の信仰って?え?
二人の白人宣教師が路傍の地蔵をみてこういいました。
返信削除A「これは悪魔だ。こんなものを拝んでいるから日本人はだめなんだ。」
B「この仏像が今まで日本人の心をいやしてくれたのだなあ。キリスト教もこんな存在でいられたらいいなあ。」
日本人の私はBの話なら聞いてやってもいいと思いますが、Aの話はお金をあげるといわれても聞いてやろうとは思いません。