2014年9月3日水曜日

神の「召し」を誰がどうやって確認するか、という話・その2

 前回のまとめ。
 神の「召し」の決め方は教団教派によっていろいろで、たとえば選挙などがある。けれど一部の、特に単立教会では、牧師一人の「これは神の召しだ」がノーチェックで認められている。そしてそれは危険なことだ。
 
 という話だった。今回は、それがどう危険なのか、事例を交えて書きたい。
 題して、一方的な「召し」の主張の危険性。
 
①牧師の立場に関する危険性
 
 ある単立教会の牧師が、いつも信徒に対して権威的に振る舞っていた。あれをしろ、これをしろ、早くしろ、それじゃダメだ、全然ダメだ、等々。そんな調子が長く続き、信徒は疲弊していた。特に十代後半から二十代の若者たちは信仰半分、疑念半分という葛藤状態にあった。
 そんなある時、牧師に理不尽に叱られたのをキッカケに、とうとう若者たちが牧師に楯突いた。「先生の言い方は酷すぎます」
 それに対する牧師の答えはこうだ。「自分が人格的に足りないとしも、こんな自分を神が選んでリーダーにしたんだから、仕方ないだろう
 つまり、自分は神に召されたんだから誰が何と言おうとリーダーなんだ、黙って従え、ということだ。
 この主張に従うと、人格的に全然ダメでも、どんな人間でも、「召された」と言えば教会のリーダーになって人をこき使えることになる。

 是非その牧師を、全信徒による選挙にかけてみたいものだ。どういう結果になるのか非常に楽しみだ(そういう牧師に限って選挙制を否定するのだけれど)。
 
②「召し」は全てに優先する、という危険性
 
 非常に活動好き、事業好きな牧師がいる。「神がこれを願っておられる」「あれを願っておられる」ということで、次々と新たな活動を始める。「これは自分に与えられた召しだ」と言う。
 信徒はいつもそれに振り回され、日常的に、キャパを越えた仕事をさせられている。ついに音をあげて、「無理です」とか言った日には、烈火のごとく怒られる。「神の御心に従わないのか」「これをしないがために、救われるはずの魂が滅びてもいいのか」などと責められる。
 そういう教会は、事業に必要な書類を揃えていないことが多い。たとえば会計管理がずさんで、年度が過ぎても収支報告できないことがある。信徒が忙しすぎてできないのだ。それに牧師による使途不明金やら何やらで、把握しきれないのだ。
 そういうことで必要書類が揃っていなくても、「神の召しに精一杯応えているのだから、仕方がない。十二弟子たちも、忙しくて休む暇がなかったと書いてあるだろう」とか言って済ませる。
 
 つまり、「召し」をかざせば何をしても許される、社会のルールに従わなくていい、ということだ。
 
③「召し」を擁護したくなる人間心理の危険性

 上記のような状況があり、信徒らは本当に大変なのだけれど、それでも牧師を擁護してしまうという現状がある。
 何故かというと、そういう牧師はいつも厳しい訳ではないからだ。時々弱い姿を見せて、泣き言を言うことがある。「もう無理だ。神の要求はあまりに高い。今までずっとこの召しに忠実にやってきたし、これからも忠実でありたいけれど、もうそれも難しい」
 祈り会などでそう言って泣き崩れられると、やさしい信徒らは、「先生、がんばって!」「私たちがいますから!」などと励ますことになる。そこで感動劇場が始まって、さらに結束が増すことになる。
 
 依然として信徒らは大変な思いで働き、必要書類の不備やいろいろな規範の無視を看過しなければならないのだけれど、そういう「あくまで召しに忠実な牧師」の健気な姿を見せられると、結局我慢してしまうことになる。
 つまるところ、それが「神の召し」だと突き付けられる限り、「じゃあ仕方がない」ということになってしまうのだ。
 
 上記の3つ以外にもいろいろな事例があると思うけれど、いずれにせよ「神の召し」がノーチェックで受け入れられることに問題がある。それが本当に神からのものなのか、まず吟味しなければならない。また神からのものかどうかの他に、今この教会がそれをするのに耐えられるか、どこかに無理が出ないか、という実際面も同じく話し合われなければならない。

 神が一人の人にしか語られないというのは、旧約聖書に見られる特徴だ。新約聖書ではむしろ、集団による議論が物事の決定に使われている。だから吟味や話し合いをスキップしようとしたり、排除しようとしたりするリーダーは、今日においては危険である。
 
 という訳で、上記のようなケースに思い当たる人は、よくよく考えて対処することを私は強く勧める。

3 件のコメント:

  1. プロテスタントで「召し」を強調するのは危険であるという認識を持たない人が多すぎるように思います。カトリックですら「私は召し出された存在である」と強調する神父はいません。
    カトリックの場合は、周囲の人が「この子はなんとなくちょっと他の子とは違うなあ。ひょっとすると・・・」と胸の中に秘めつつ感じている不思議な感覚があったりするのだそうです。そして神父に叙階される場面に立ち会って「ああ、やっぱり。私たちがなんとなく感じていた、あの不思議な感覚は間違いではなかった。この子はやはり神父として神に召し出されるために生まれてきた子だったんだなあ・・・」となるのだそうです。
    もちろんこれはこの人を赤ん坊のころからみてきた人たちがなんとなく感じとっていたという話であって、神父になった人自身が「私は神から召し出された特別な存在で、聖霊の油注がれた人であるから、私には何があっても従わなくてはならない」ということはまずないといってもいいと思います。
    赤ん坊のころからなんとなくこの子は違う・・・といわれてきた子が神父になるカトリックですら、神父が「召し」を強調して威張り散らすことはないというのに、なぜプロテスタントではこのようなことになってしまうのでしょうか?

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  2. イースタン・ブルー2014年9月3日 22:51

    人格的に足りないなら、聖書的にはリーダーの資格が無いことは牧会書簡から明白ですから、「召された」という主張は崩壊します。そういうリーダーはそんな聖書を根拠とした発言ができない程度にしか育てられていないと思います。

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  3. 匿名様
    コメントありがとうございます。
    カトリックのことはよく存じませんが、そういうことがあるのですね。

    プロテスタントも多種多様ありますから、私がここで取り上げている問題も、ごく一部のことと思います。それ以外の多くのプロテスタントが、より良心的、聖書的であると願ってやみません。

    イースタン・ブルー様
    いつもコメントありがとうございます。
    端的でわかりやすいご指摘で、確かにその通りだと思います。ただ、当人らにそういう理屈が通らないのが問題ですが・・・。

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