2014年9月12日金曜日

エキサイティングというより、単に節操のない信仰生活

 海外からの「神の器」、あるいはゲストスピーカー、あるいはゲスト講師などと呼ばれる人たちが、ほとんど定期的に来日している。そして超教派の大会や、個々の馴染みの教会を巡回して、それぞれお得意のメッセージを語っていく。聞いた日本人クリスチャンは「恵まれました」とありがたそうに言う。

 実にいろいろなゲストが、いろいろなトピックを語る。「天のお父さんの愛」とか、「癒しと奇跡」とか、「死人のよみがえり」とか、親イスラエル主義とか、「聖霊体験」とか、「五役者の回復」とか、挙げたらキリがない。
 それら個々のトピックについて思うところもあるけれど、そういうトピックがほとんど数か月毎に語られる教会の現状について考えてみたい。

 ある教会に属すると、かなり頻繁に海外からのゲストに遭遇する。毎月一人と言ってもいいくらい、入れ替わり立ち替わりゲストがやってくる。そして信徒は夏や秋の超教派大会にも参加する(させられる)から、年中そういうのを聞くことになる。だからたとえば、
4月は「天のお父さんの愛を受けよ」と祈られ、
5月は「癒しを行うように」と祈られ、
6月は「聖霊に浸されよ」と祈られ、
7月は「霊的イスラエルとなれ」と祈られ、
8月は「よみがえりの力を受けよ」と祈られることになる。

 そういう教会は、牧師の顔が広くていろいろな交流があり、年中イベント的な集会があって「楽しい」かもしれない。いわく「エキサイティングな信仰生活」を送れるかもしれない。

 けれどそういう教会に限って、「うちの教会は生きた神様が毎日働かれている」などと自負し、言外に、そういうイベント事の少ない教会を見下すニュアンスを含んでいる。あるいはハッキリそう表明する。「自分たちの方が正しい」という訳だ。

 けれど毎月毎月メッセージが変わり、方向性がどんどん変わっていく教会を「生き生きしている」と表現するのも疑問がある。魚や鮨ネタなら鮮度がいのちだろうけれど、教会のメッセージに鮮度が関係するのだろうか。結局のところ、一つのメッセージをしっかり消化できないまま次のメッセージを食わせられることになるのではないだろうか。

 そういう教会はその鮮度を「レーマ」とか「今主が語られてること」とかと表現し、重視するだろう。「主は生きておられるから次々と語られるのです。私たちは(大変でも)それに従っていかなければなりません」となる。

「語られたことに従う」という姿勢は理解できる。
 けれど、たとえば「家族の和解」が語られて、「では長年積もってきた家族内のわだかまりを、時間がかかるかもしれないけれど一つ一つ紐解いて、和解していこう」と決心したとする。しばらくは、甲斐甲斐しく家族との時間を持つだろう。けれど翌月、「この地域を勝ち取れ」とか語られて、今度は「霊の戦い」に励むようになり、結局家族のことがなおざりになる、ということがある(そして翌月また別のことが語られ、「霊の戦い」さえもどこかに行ってしまうのだが)。

 その場合、語られたことに従っているとは言えない。何でも新しいことにすぐ飛びついて、前のことを投げ出してしまったのだ。それは「エキサイティングな信仰生活」などでなく、単に「節操のない信仰生活」だ。そういうものを神様が願っているとは思えない。

 海外からのゲストもけっこうだけれど、そういうエキサイティングさより、ちゃんと落ち着いて聖書を教えられ、系統的に学べる信仰生活の方がよっぽど重要だろうと私は思う。

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