神の「召し」を誰がどうやって確認するのか、という話

2014年9月2日火曜日

「召し」に関する問題

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 神の「召し」というのがある。

 簡単に言うと「神の招き」となる。手持ちの聖書辞典で見てみると、2種類の召し(召命)があるようだ。

①キリストが全人類に向けた救いへの召し(外的召命)
②個人レベルの召し(有効召命など)

 ①はわかりやすい。誰でもイエス・キリストを神として信じるなら救われる、ということで、一般的にもよく知られている。
 ②は特定の個人に向けられたもので、「選び」という要素が含まれてくる。たとえば新約で言えば「使徒職の召し」というのがあって、ペテロやパウロはこれを受けていたと思われる。今日で言うと、「神に召されて牧師になりました」という牧師は多いのではないかと思う。つまり、神に選ばれて牧師になった、ということである。

 以上の原理原則は聖書に由来しており、何も否定するところはない。けれど「召し」の問題は、そういう定義云々ではない。私が思う「召し」の問題は、特に②の方で、ある人が言う「召し」が間違いなく神からの召しだと、どうやって決めるのか、誰が決めるのか、という点にある。

 現在、多くのクリスチャンが、「私は神に召されて(導かれて)〇〇をしています」と言っている。牧師や宣教師といった職業人から、キリスト教系事業や企業で働く人、教会学校の先生や礼拝奉仕者に至るまで、おそらくほとんどの人がそうだろう。「召し」という根拠がなければ、基本的にそういうことはできないからだ(もちろん中には、よくわからないけどやってます的な人もいるだろうけれど)。

 それで、その人が確かに神に「召されている」と決めるのは誰だろうか。
 これは教団教派によっていろいろな手続きがあると思う。一例を挙げると、ある教会では、教会員全員による選挙で、任期制の長老を選んでいる。つまり多数の信徒からふさわしいと認められた人が、「(一定期間)長老職として召されている」と認定される訳である。

 選挙は、細かいことを言うと、やり方次第で少数派の意見が通ってしまうという危険性がある。けれどそこまで策を弄する人がいるとも思えなし、だいいち「神の声が全員に聞こえた」みたいな現象をもって「召し」を確認できる訳でもないから、「多数派の意見を通す」というやり方は、まあ無難だろうと思う。公正な選挙が行われたのであれば、不公平感もないし、少数派も結果を見て(普通なら)納得するだろう。

 けれどそういう選挙を、「ただの民主主義だ。神の声を聞いていない」と主張する人たちがいる。彼らは、明確に「神の声を聞いた」「確かに神に導かれた」という体験がなければ、召されたとは言えない、とする。

 確かに、パウロはダマスコに行く途中で神に語られ、明確な指示を受けた(使徒9章)。同行者たちもその声を聞いたと書いてある。だからそういう召された方もあるのだと思う。
 けれど、じゃあ上記の彼らがどんな風に「神の声」を聞いたかと言うと、「祈っている時に強く示された」とか「神の声が確かに聞こえた」とかいうことだ。けれどそれらに共通するのは、失礼ながら、本人がそう言っているだけで、それを証明する第三者がいない、という点だ。複数の同行者が一緒に聞いたというパウロのケースとは、根本的に違う。
 だからその「召し」を認めるには、無条件に信じる以外にないのである。

 こういうことを書くと、「信仰とは無条件に信じることです」などと寝言を言う人がいるけれど、私たちが無条件に信じるのは聖書の真実性であって、一人間である牧師の言葉ではない。もし無条件に相手の言うことを受け入れるのであれば、たとえばパウロとバルナバが激しく対立した理由が見つからなくなる。使徒たちが異邦人の扱いを巡って激しく議論した理由も見つからなくなる。

 神の「召し」を確認する方法として、たとえば選挙制度が完全かというと、そうでもない。そこにはきっと人の思惑も絡んでくる。では、一牧師が言う「召し」を全面的に信じた方がいいのだろうか。私はそっちの方が確実に危険だと思うけれど。

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