「ありのまま」を強要されても困る、という話

2014年9月15日月曜日

教育

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 ちょっと古い話になるけれど、ディズニー映画「アナと雪の女王」が日本でも大ヒットした。
「ありの~ままの~」の主題歌は巷に溢れ、レンタルDVD店でもそうでない店舗でもこればかりが流れた。映像もいろいろなところで露出して、未見の私も何だか本編を観たような気分になった。

 映画そのものに特にコメントはないけれど、この「ありのままの」の歌詞に、最近よくチャーチスクールのことを思い出していた。「ありのままでいいんだ」みたいな言葉が、チャーチスクールのスローガンだったからだ。

 公立学校で傷ついた子が、チャーチスクールで本来の自分を取り戻した、みたいな記事がキリスト教系の新聞や雑誌に掲載されたことがある。公立学校で「ありのまま」を否定された子が、チャーチスクールで「ありのまま」を取り戻した、めでたしめでたし、子どもはやっぱり自然な姿でなくちゃね、という訳だ。チャーチスクールは日本の教育界に革命をもたらすか、とまで書かれた。

 一つ事実を言うと、そういう事例も確かにあった。公立学校に行けなくなってしまった子が、チャーチスクールで通学意欲や学習意欲を取り戻した、というケースはわずかながらあった。その子たちにとって、チャーチスクールは少なからず救いとなった。
 
 しかしそれはチャーチスクール全体から見ると、ごく一部でしかない。その後チャーチスクールに入学してきたのは、大部分が一般的なクリスチャン子弟だ。中には親の意向で一方的に入学させられた子もいた。彼らはべつに「ありのまま」を否定された訳ではない。そもそも公立学校を知らないという子も大勢いた。

 なのにチャーチスクールは、黎明期のごく一部の「ありのままを取り戻した子たち」を、宣伝文句として大いに利用した。公立学校にお子さんを行かせると自分を見失うことになりますよ、お子さんを立派なクリスチャンに育てられるのは当校だけですよ、みたいな主張を、明に暗にしたのだ。

 だからチャーチスクールで子どもたちが最初に言われるのは、「ありのままでいいんだ」「そのままで素晴らしいんだ」というようなことだ。自分にウソをつかず、正直に、ありのままを表現しなさい、そのままのあなたが大切なのです、と。
 けれど前述の通り、一般のクリスチャン子弟は特に「ありのまま」を否定された経験もないから、そう言われても戸惑ってしまう。何が自分の「ありのまま」なのかもよくわからない。

 また、そのメッセージ自体は一見素晴らしいけれど、大きな落とし穴がある。何故なら人には、「ありのまま」でいいことと、いけないこととがあるからだ。

 ありのままでいいのは、たとえばその子の資質とか性向とか、嗜好とか傾向とか、そういう生まれながらに持っているものに関してだ。変更不能な資質を否定されるのは辛い。たとえばここでも何度か取り上げたことがある同性愛嗜好もそうだ。それを「罪だ」とか「過去の傷の結果」だとか簡単に言われて一生懸命祈られても辛い。そういう場合は、「ありのままでいいんだ」と言ってもらう必要がある。

 けれど、ありのままではいけないこともある。たとえば学校の場面で言うなら、宿題をやってこない子に対して「そのままでいいんだよ」とは言えない。ルールを守らない子を容認するのも問題がある。
 もちろん、そこがルール無用・完全自由の学校ならば話は別だ。けれどそれだと、「立派なクリスチャン子弟に育てます」とは言えない。

 そういうありのままでいいこと・いけないことをゴッチャにしたまま「ありのままでいいんだ」を前面に出すと、子どもたちは混乱する。自分が思う通り、望む通りをして受け入れられる場合と、叱られる場合とがあるからだ。何をしたらいいかわからなくなる。そして結果的に子どもたちは、牧師や教師や教会やスクールが望むであろう「ありのまま像」をイメージし、それに近づこうとする。

 しかし、それはもはや「ありのまま」ではない。強要された「ありのまま」である。

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