沈没するまで「待機していなさい」と言われる理不尽について

2014年9月22日月曜日

カルト問題 時事問題

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 今年4月16日、韓国でセウォル号沈没事故が起きた。犠牲者約300人という近年稀に見る大事故となった。その犠牲者の多くは修学旅行中の高校生で、船長や航海士らの緊急対応のずさんさも含め、大々的に報道された。
 
 的確な避難誘導があれば助かる命も多かったと聞く。多くの犠牲者は、船長らの指示に従って船内に留まった結果、命を落とすことになってしまった。まさに人為的な悲劇である。
 
 生存者の証言によると、最初はそんな大事だとは思わなかったとのこと。
 船に何かの衝撃があったけれど、多くの乗客は指示通り、客室で待機していた。次第に船が傾きはじめたけれど、指示はやはり待機。しかし船はさらに傾き、ある時点で浸水しだした。水は見る見るうちに溢れ、その時になって、やっと沈没しかかっているのに気づいた。けれど避難する時間は、ほとんど残されていなかった。
 
 船長らの責任が大きいのは言うまでもない。遺族の無念やいかに。責任の所在がしっかり調査され、裁かれるべきが裁かれることを願うばかりである。
 
 この事故についていろいろ思いを巡らせていると、カルト化教会にも、この事故と似たような構造があるのに気づいた。
 
 ところで「カルト化教会」と言っても、定義を言い出したらいろいろあるだろうから、ここでは「信徒が信仰の名の下に不当に苦しめられている状態」にある教会を指すことにする。
 
 カルト化教会の信徒は、自分がカルト化教会にいるとは認識していない。苦しんでいるとしても、信仰の訓練を受けているのだから仕方がないと思っている。それはある意味で、沈没しかかっている船に乗っているようなものだ。
 次々と提示され暗に要求される献金とか、終わりのない奉仕とか、学歴もキャリアも捨てさせられる献身とか、ずさんで牧師勝手な会計管理とか、そういう「非常識」がすべて「信仰」に見えて、「神の御心」に見える。いつの間にか自分が苦境に立たされていることに気づかない。苦しくても、「置かれた場所で耐えるのが信仰だ」とか言われる。
 それは、沈没しかかっているのに「その場で待機していなさい」と言われて律儀に従っているようなものだ。

 そしてふと気づくと、財布が空になっており、家族を養えなくなっている。二進も三進もいかなくなっている。客室が水でいっぱいになり、どこにも逃げ場がないのと同じだ。
 その時になってようやく、正気に返る人がいる。「これは間違いだったんじゃないか」と考える人がいる。しかし、気づいて取り戻せる人はまだいいけれど、多くを取り戻せない人もいる。

 セウォル号沈没はどう見ても悲劇であり、本来あってはならないことだ。死んだ人は帰ってこない。遺族の方々には、かける言葉もない。
 けれどあえて言わせてもらうとすると、そこには教訓が残されている。その教訓をどうするかは、残された者にかかっている。
 

 カルト化教会の被害者にも同じことが言えると思う。大変な目に遭ったし、まだその痛みがあると思うけれど、そこには教訓もある。もちろん痛んでいるうちは何もできない。けれどいつか回復した時、その教訓を何らかの形で生かすことができるなら、その被害も無駄ではなかった、とはじめて言えるのではないだろうか。

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