一方的で勝手な「和解」の決めつけ・その2

2014年9月28日日曜日

「和解の務め」に関する問題

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 前回は、一部のクリスチャンによる「和解の務め」という主張について書いた。

 その「和解」は聖書に基づいたものでなく、常識的に見ても失礼なものだ。勝手に来て勝手に祈り、「じゃ、和解したから!」と言って去っていくようなものだからだ。とても和解とは呼べない。
 今回はこの「和解の務め」について、べつの視点から書いてみたい。

「和解の務め」の具体例は、前回挙げた通り、太平洋戦争とか関ヶ原の戦いとか、明治維新とかがある。基本的に歴史的な出来事だ。それは、既に当事者がおらず、よって当事者どうしで和解することがもはや不可能で、しかし禍根だけが現在まで残っている、という状態でなければ、「和解の務め」にならないからだ。現在進行形の問題なら、当事者どうしの和解で済む。済まないから「和解の務め」が必要なのだ、という理屈だ。
 それで、主がその禍根の解決を願っているからと言って、彼らは「和解の務め」を推進する。すでに当事者間で解決できなくなっている事柄を、「霊的に」「主の御名によって」解決しようとする。

 しかしこの考え方は、少なくとも2つの点で検討が必要だ。

 まず第一に、先祖の罪を子孫が負う必要があるのか、という点だ。
 これは、世界中で議論されてきた。たとえば、ナチス・ドイツの所業を現ドイツが負うべきなのか。世界中を植民地にしたイギリスは現在もその責めを負っているのか。あるいは先住民を追い払った過去を持つアメリカやオーストラリアは、現在マイノリティとなった先住民たちに、何らかの補償をすべきなのか、等。挙げたらキリがないし、その議論も終わることがない。

 人道的に考えれば、先祖のせいで被害を受けた相手がいるなら、その子孫が何らかの補償をするのは自然なことに思える。ドイツも第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国に謝罪と補償をしたと聞いている。もっと身近な例で言えば、たとえば自分の親が殺人を犯してしまったら、子どもも後ろめたい気持ちになるし、被害者遺族に合わす顔がないと感じる。そういう意味で、「先祖の罪は私の罪です」と言うのは人道的なことに思える。

 しかしまったく同じ状況で、「自分がそれをした訳ではない。望んだ訳でもいない。だいいち、その場に私はいなかった」という言い方もできる。これももっともな意見だ。先祖の罪が私の罪であるならば、自分がやってもいない罪で裁かれることになってしまうからだ。

 という訳で、これは難解なテーマだ。眠れない夜には、こういうことを考えたら暇つぶしになるかもしれない。けれど上記の「和解の務め」推進教会は、問答無用で前者を正しいとしている。すなわち、「先祖の罪は私の罪、だから私が和解の務めをするのです」という訳だ。

 しかし聖書は、この問題について、非常に明快に答えている。
「親の罪で子は裁かれない」
「人は自分自身の罪によって裁かれる」
 だから先祖の罪は先祖の罪、私の罪は私の罪であって、両者は何の関係もない、ということだ。だから先祖がしでかした罪は先祖の問題であって、子孫はそれに縛られない。だから「和解の務め」とか言って子孫が祈っても、それで先祖の罪が許される訳ではない

 もちろん、これは聖書に見る「罪」の責任の所在であって、たとえばナチス・ドイツの所業の責任を新政権が全く無視していい、という話ではない。それは国家としての責任の問題だ。

 第二は、先祖の罪が禍根となって地上に残っていて、それが悪影響を及ぼしている、という考え方についてだ。
 ある地域が祝福されないのは、そこで多くの血が流されたり、多くの罪があったり、過去の人々の叫びが眠っていたりするからだ、と彼らは言う。
 確かに、旧約聖書を見ると、ダビデが神殿建設を許されなかったのは「血を流し過ぎたから」とされている。
 けれどそれは旧約の話であって、新約とは違う。新約は、キリストの十字架によって全ての罪が贖われた、と言っている。ゆえにクリスチャンが何かに「呪われる」ことはないし、過去の罪に縛られることもない。先祖の誰かの罪を代わりに負う必要はないし、負うこともできない。もちろん歴史は大切にすべきだけれど、それに縛られ、何かをしなければ解放されない、というのは間違っている。そういうのはオカルトであり、映画や漫画の世界だ。

 という訳で、やはり「和解の務め」は間違っているし、とんだ見当違いをしている。そういうことをしているクリスチャンや教会があるなら、ぜひその間違いに気づいてほしいと思う。

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