人類にはユートピアよりディストピアの方がふさわしいのか

2014年9月25日木曜日

生き方について思うこと

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 アメリカのテレビ番組に "Utopia" というのがある。ユートピア、すなわち楽園を意味するタイトルだと思われる。「持続可能な楽園をつくる社会実験」というフレーズが、たいへん興味深い。

 紹介記事はこちらから。

 アメリカで無作為に選ばれた15人が、持ち物も地位も社会背景も取り去られて、人里離れた山中に造られた「楽園」に入る。そして自分たちだけでそこを維持していく。食糧を自給し、ゴミの処理方法を考え、役割分担し、その他諸々の課題に取り組んでいく。その一部始終を監視カメラが見張る。果たして彼らは、地上の楽園を作り上げていけるのか。
 という過程を追う、いわゆる社会実験ドキュメンタリーだ。お金も時間もかかる試みだと思うけれど、さすがアメリカと言うべきか。

 ただ制作側としては、初めからユートピアができるとは思っていないようだ。紹介記事にもある通り、むしろ逆のことが起こると確信している。つまり、ユートピアはディストピアに変わり果てると。

 確かに、そうでなければ番組としては成立しない。幸せに暮らす楽園の様子を延々と見せられてもきっと退屈なだけだ。それよりトラブルが起き、人々が絶えずぶつかり合い、次はどうなるのかとハラハラさせられる方が、テレビ番組にはふさわしい。

 既に番組は始まっていて、ある程度、制作側の思惑通りに進んでいるようだ。が、まださほど「面白い」展開にはなっていないという。日本で観られるなら観てみたいけれど、どうなのだろう。

 ところで、制作側が言う「交流は対立を生む」は、なかなか的を射ていると思う。人が集まるところに対立が生まるれる。としたら、人が集まるところにユートピアは実現しないということだ。するとこの番組は、ユートピア実現を目指すと言いながら、実はそれが存在しないことを証明しようとしているのかもしれない。

「対立を生まない為には孤立するしかない」とうようなことも言っている。他者とぶつからず、平和を実現するには、部屋に閉じこもってゲームやテレビに熱中しているしかない、と。もし誰とも関わらず、閉じこもったままでいられるなら、それは確かにユートピアかもしれない。しかしある人にとっては、それこそまさにディストピアとも言える。

 私がその番組を仕切れるとしたら、同じ教会のクリスチャンだけを何人か集めて実験してみたい。同じ神を信じ、聖書に従う人々であれば、一致してユートピアを実現できるのだろうか。あるいはやはりどこかに対立が生まれ、ディストピアの様相を呈してしまうのだろうか。

 しかし考えてみれば、私たちの先祖はエデンの園というユートピアにいた。そこを永遠に管理するはずだった。けれど罪を犯してしまったので、閉め出されてしまった。その末裔が私たちなので、やはり根本的にユートピアを実現するのは無理なのかもしれない。
 そういう意味で、この番組が証明しようとしていることは、人間の本質を突いているように思える。

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