教会に疲れた時に

2014年9月9日火曜日

キリスト教信仰

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 教会に疲れた、という話を少なからず聞く。
 
 そう言う人の多くは、神様を信じているし、信仰に生きたいと願っているのだけれど、教会に集うことに何らかの負担感がある、という状態なのだと思う。信仰を捨てたいとか、そういうことではない。けれど「教会に疲れた」とその教会の人に言ったら、たちまち不信仰扱いされそうだから、言うに言えない。そしてそれが更に疲れを増す。
 悲しい悪循環である。
 
 その解決になるかならないかは別として、教会の何に対して疲れたかは明確にしておいた方がいいかもしれない。問題点がハッキリすることで、進むこともある。

 疲れの原因は人それぞれであろう。教会内の人間関係かもしれないし、奉仕かもしれない。そういうのを含めた教会の体制そのものかもしれない。
 いずれにせよ、疲れのピークにある時は、とにかくゆっくり休んだらいい。そしてある程度回復し、落ち着いたところで、そういうことにじっくり取り組んでみたらいいのではないだろうか。冷静になってみれば、自分が何に一番ストレスを感じているか、おのずとわかってくると思う。
 
 そういうスタンスに対して、教会のリーダーや役員がどういう反応を示すかは興味深い。単に不信仰と決めつけるだろうか。あるいは怒るだろうか。あるいは寛容をもって受け入れるだろうか。そのあたりに、教会の懐の深さが現れる。
 
 私の知っているケースで言うと、こんなことを言うリーダーがいた。

「(私が)これだけ一生懸命やっているのに、そんなこと(疲れたとか)言うなんて失礼だ」
 その言い分もわからないではない。けれど、そう返されて癒される信徒はいない。
 一生懸命なのはご苦労様だけれど、一生懸命だから良いということはない。たとえば一生懸命作ったケーキだから飛ぶように売れる、なんてことはない。ケーキはおいしいから売れるのだ。一生懸命だろうが何だろうが、まずいものはまずい
 
 それと同じで、「教会に疲れた」というのもちゃんと理由があるはずだ。もちろん信徒の側の忍耐も必要だし、人格的に成長する必要もあるけれど、だからと言って信徒の側だけの責任にされても困る
 あるいは多くの信徒がうまくやっているから、そうできない小数の信徒がダメなんだ、とか決めつけられても困る。
 教会に関わることで誰かが疲れているのなら、教会にも考えるべきことがあるのだ。
 
 すべて疲れた者、重荷を負った者に休みを与えると言うキリストの言葉に、もう一度耳を傾けるべきだろう。休みを受けるべきところで疲れさせているとしたら、何かが間違っている。
 
 もし仮に、教会の側に何の落ち度もなく、すべてを完璧にこなし、万人に満足を与える仕組みが整っていたとする。それでも信徒が「疲れた」と言ったら、それは確かに信徒の側の責任かもしれない。けれどそれでも、「疲れさせてしまってごめんなさい」と真心から言えるとしたら、そこは本当にキリストの愛を実践する教会だと私は思う。

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