クリスチャンの目的って何だろう

2014年9月24日水曜日

キリスト教信仰

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 前回「人間の尊厳」について書いていたら、ふと、人は何の為に生きるのだろうか、と考えさせられた。ちょっと中二病っぽいなと自分でも思うけれど。

 この「何の為に生きるか」は、もちろん人それぞれだろうし、いろいろな価値観があっていいと思うけれど、たとえばクリスチャンであれば、信仰を切り離して考えることはおそらくできない。何かを信仰するということは、その教えに従って生きることだからだ。
 だからクリスチャンである人の生きる目的は、本質的に「クリスチャンの目的」と合致しているのではないかと思う。そしてそれはキリスト教の目的とか、聖書の目的とかと言い換えることもできるだろう。今回はこの「クリスチャンの(生きる)目的」について、少し考えてみたい。

 けれどこれは、たとえば『ウェストミンスター小教理問答』なんかを開くと単純明快に答えられている。すなわち第一問、人間の第一の目的は、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」である。「神を礼拝すること」と言ってもいいかもしれない。それがクリスチャンの第一の、そして絶対これだけは外せないという目的なのであろう。なるほどわかりやすい。

 けれどこれは広義な定義であり、もちろん納得できるけれど、今一つピンとこない。具体的でないからだ。そして「神に栄光を帰し、神を喜ぶ」ことが具体的に何なのかというと、これまた人それぞれではないかと思う。すると話が振り出しに戻ってしまう気がする。

 だからここは消去法で考えることで、そのヒントを探ってみたい。つまり今日のクリスチャンや教会がやっていることで、「それは違うんじゃないか」ということを挙げてみたい。「基本的に正しそうだけれど、何かズレている」という活動が、失礼ながら時々見受けられるからだ。

・未信者が(ほとんど)来ない伝道集会

 伝道集会とは文字通り「未信者に伝道する」ための集会のはずで、教会はポスターを作ったりチラシを配ったりして頑張るのだけれど、結局内容が「クリスチャン向けの特別賛美・ダンス・その他諸々のお披露目会」になってしまっている。そのせいか真っ新の未信者は来ない。信徒の親族とか知り合いとかが、義理で来るくらいだ。まったく伝道にならない。しかもそういう状況に対して何の反省も改善もなく、同じようなことを毎回繰り返している。
 伝道はクリスチャンの目的の一つだろうけれど、このやり方ではないと私は思う。

・事業でカネ儲け

 教会が福祉とか飲食とかの事業を立ち上げることがある。最近増えている。これには、
①教会会計を潤し、
②「働き人」を経済的に支え、
③地域の雇用を促進し、
④従業員、顧客への伝道のチャンスとする、
 という目的がある。良いことづくめに思える。これだけ見たら、事業をしない手はない、となるかもしれない。
 けれど実際には、経営難に陥って奔走することになるケースが多い。ある教会など、毎週の礼拝が「事業運営の為のミーティング」みたいになってしまっている(それだけ切迫しているのだ)。そうなると教会会計も「働き人」も経済的に支えられず、逆にバイトなどして事業を支えなければならなくなる。本末転倒である。
 またそうならない為に、従業員に長時間労働や無理な営業を強いることがある。それで運営がうまく行ったとしても、それは従業員の労働過多に支えられた事業でしかない。ほとんどブラック企業の域で、証にならない。従業員への伝道などまったく不可能だ。
 中には従業員に無理がかかっておらず、経営も順調な事業もある。けれど、じゃあ従業員や顧客に本当に伝道できているかと言うと、ほとんどできていない。なぜなら宗教色を出すことで不審に思われ、顧客が離れていくのではないか、という恐れがあるからだ。
 こういう事業は基本的に悪くはないのだろうけれど、実際には多くの場合、クリスチャンの目的から離れていく原因になると私は思う。

・異性を侍らす人事

 上記の伝道集会とか事業とかで「忙しい」男性牧師が、「秘書が必要だ」とか言い出して、なぜか若い女性信徒を指名することがある。理由は、「女性ならではの気遣いでサポートしてほしい」「女性の方がしっかりしている」とかだ。「忙しすぎて自分のスケジュールが把握できない。だから仕方ないだろう」みたいなことをしきりにアピールする。聞いてもいないのに。
 それで、秘書と二人の時間を多く過ごすようになる。けど、結局それが目的だったんじゃね? という疑念が拭えない。けれどそういう牧師に限って、「異性関係には注意しなさい。誤解されないように」などと信徒に注意している。
 これはクリスチャンの目的でなく、何かべつの目的であろうと私は思う。

・終末予想

 これは当ブログでも何度か取り上げているけれど、あるクリスチャンは携挙がいつだとか、主からの特別な啓示だとか、準備がどうとか、そういうことばかりに躍起になっている。けれどそのメッセージは、「終末だ」の一言に尽きる。他のメッセージが何もない。いつ来るともしれない終末という「噂話」に興じているだけだ。
 それはクリスチャンの目的とは全然違うと私は思う。

 以上、クリスチャンの目的として「違う」と思うものを挙げたけれど、あまりに違い過ぎて、ヒントにならなかったかもしれない。

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