この「何の為に生きるか」は、もちろん人それぞれだろうし、いろいろな価値観があっていいと思うけれど、たとえばクリスチャンであれば、信仰を切り離して考えることはおそらくできない。何かを信仰するということは、その教えに従って生きることだからだ。
だからクリスチャンである人の生きる目的は、本質的に「クリスチャンの目的」と合致しているのではないかと思う。そしてそれはキリスト教の目的とか、聖書の目的とかと言い換えることもできるだろう。今回はこの「クリスチャンの(生きる)目的」について、少し考えてみたい。
けれどこれは、たとえば『ウェストミンスター小教理問答』なんかを開くと単純明快に答えられている。すなわち第一問、人間の第一の目的は、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」である。「神を礼拝すること」と言ってもいいかもしれない。それがクリスチャンの第一の、そして絶対これだけは外せないという目的なのであろう。なるほどわかりやすい。
けれどこれは広義な定義であり、もちろん納得できるけれど、今一つピンとこない。具体的でないからだ。そして「神に栄光を帰し、神を喜ぶ」ことが具体的に何なのかというと、これまた人それぞれではないかと思う。すると話が振り出しに戻ってしまう気がする。
だからここは消去法で考えることで、そのヒントを探ってみたい。つまり今日のクリスチャンや教会がやっていることで、「それは違うんじゃないか」ということを挙げてみたい。「基本的に正しそうだけれど、何かズレている」という活動が、失礼ながら時々見受けられるからだ。
・未信者が(ほとんど)来ない伝道集会
伝道集会とは文字通り「未信者に伝道する」ための集会のはずで、教会はポスターを作ったりチラシを配ったりして頑張るのだけれど、結局内容が「クリスチャン向けの特別賛美・ダンス・その他諸々のお披露目会」になってしまっている。そのせいか真っ新の未信者は来ない。信徒の親族とか知り合いとかが、義理で来るくらいだ。まったく伝道にならない。しかもそういう状況に対して何の反省も改善もなく、同じようなことを毎回繰り返している。
伝道はクリスチャンの目的の一つだろうけれど、このやり方ではないと私は思う。
・事業でカネ儲け
教会が福祉とか飲食とかの事業を立ち上げることがある。最近増えている。これには、
①教会会計を潤し、
②「働き人」を経済的に支え、
③地域の雇用を促進し、
④従業員、顧客への伝道のチャンスとする、
という目的がある。良いことづくめに思える。これだけ見たら、事業をしない手はない、となるかもしれない。
けれど実際には、経営難に陥って奔走することになるケースが多い。ある教会など、毎週の礼拝が「事業運営の為のミーティング」みたいになってしまっている(それだけ切迫しているのだ)。そうなると教会会計も「働き人」も経済的に支えられず、逆にバイトなどして事業を支えなければならなくなる。本末転倒である。
またそうならない為に、従業員に長時間労働や無理な営業を強いることがある。それで運営がうまく行ったとしても、それは従業員の労働過多に支えられた事業でしかない。ほとんどブラック企業の域で、証にならない。従業員への伝道などまったく不可能だ。
中には従業員に無理がかかっておらず、経営も順調な事業もある。けれど、じゃあ従業員や顧客に本当に伝道できているかと言うと、ほとんどできていない。なぜなら宗教色を出すことで不審に思われ、顧客が離れていくのではないか、という恐れがあるからだ。
こういう事業は基本的に悪くはないのだろうけれど、実際には多くの場合、クリスチャンの目的から離れていく原因になると私は思う。
・異性を侍らす人事
上記の伝道集会とか事業とかで「忙しい」男性牧師が、「秘書が必要だ」とか言い出して、なぜか若い女性信徒を指名することがある。理由は、「女性ならではの気遣いでサポートしてほしい」「女性の方がしっかりしている」とかだ。「忙しすぎて自分のスケジュールが把握できない。だから仕方ないだろう」みたいなことをしきりにアピールする。聞いてもいないのに。
それで、秘書と二人の時間を多く過ごすようになる。けど、結局それが目的だったんじゃね? という疑念が拭えない。けれどそういう牧師に限って、「異性関係には注意しなさい。誤解されないように」などと信徒に注意している。
これはクリスチャンの目的でなく、何かべつの目的であろうと私は思う。
・終末予想
これは当ブログでも何度か取り上げているけれど、あるクリスチャンは携挙がいつだとか、主からの特別な啓示だとか、準備がどうとか、そういうことばかりに躍起になっている。けれどそのメッセージは、「終末だ」の一言に尽きる。他のメッセージが何もない。いつ来るともしれない終末という「噂話」に興じているだけだ。
それはクリスチャンの目的とは全然違うと私は思う。
以上、クリスチャンの目的として「違う」と思うものを挙げたけれど、あまりに違い過ぎて、ヒントにならなかったかもしれない。
けれどこれは、たとえば『ウェストミンスター小教理問答』なんかを開くと単純明快に答えられている。すなわち第一問、人間の第一の目的は、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」である。「神を礼拝すること」と言ってもいいかもしれない。それがクリスチャンの第一の、そして絶対これだけは外せないという目的なのであろう。なるほどわかりやすい。
けれどこれは広義な定義であり、もちろん納得できるけれど、今一つピンとこない。具体的でないからだ。そして「神に栄光を帰し、神を喜ぶ」ことが具体的に何なのかというと、これまた人それぞれではないかと思う。すると話が振り出しに戻ってしまう気がする。
だからここは消去法で考えることで、そのヒントを探ってみたい。つまり今日のクリスチャンや教会がやっていることで、「それは違うんじゃないか」ということを挙げてみたい。「基本的に正しそうだけれど、何かズレている」という活動が、失礼ながら時々見受けられるからだ。
・未信者が(ほとんど)来ない伝道集会
伝道集会とは文字通り「未信者に伝道する」ための集会のはずで、教会はポスターを作ったりチラシを配ったりして頑張るのだけれど、結局内容が「クリスチャン向けの特別賛美・ダンス・その他諸々のお披露目会」になってしまっている。そのせいか真っ新の未信者は来ない。信徒の親族とか知り合いとかが、義理で来るくらいだ。まったく伝道にならない。しかもそういう状況に対して何の反省も改善もなく、同じようなことを毎回繰り返している。
伝道はクリスチャンの目的の一つだろうけれど、このやり方ではないと私は思う。
・事業でカネ儲け
教会が福祉とか飲食とかの事業を立ち上げることがある。最近増えている。これには、
①教会会計を潤し、
②「働き人」を経済的に支え、
③地域の雇用を促進し、
④従業員、顧客への伝道のチャンスとする、
という目的がある。良いことづくめに思える。これだけ見たら、事業をしない手はない、となるかもしれない。
けれど実際には、経営難に陥って奔走することになるケースが多い。ある教会など、毎週の礼拝が「事業運営の為のミーティング」みたいになってしまっている(それだけ切迫しているのだ)。そうなると教会会計も「働き人」も経済的に支えられず、逆にバイトなどして事業を支えなければならなくなる。本末転倒である。
またそうならない為に、従業員に長時間労働や無理な営業を強いることがある。それで運営がうまく行ったとしても、それは従業員の労働過多に支えられた事業でしかない。ほとんどブラック企業の域で、証にならない。従業員への伝道などまったく不可能だ。
中には従業員に無理がかかっておらず、経営も順調な事業もある。けれど、じゃあ従業員や顧客に本当に伝道できているかと言うと、ほとんどできていない。なぜなら宗教色を出すことで不審に思われ、顧客が離れていくのではないか、という恐れがあるからだ。
こういう事業は基本的に悪くはないのだろうけれど、実際には多くの場合、クリスチャンの目的から離れていく原因になると私は思う。
・異性を侍らす人事
上記の伝道集会とか事業とかで「忙しい」男性牧師が、「秘書が必要だ」とか言い出して、なぜか若い女性信徒を指名することがある。理由は、「女性ならではの気遣いでサポートしてほしい」「女性の方がしっかりしている」とかだ。「忙しすぎて自分のスケジュールが把握できない。だから仕方ないだろう」みたいなことをしきりにアピールする。聞いてもいないのに。
それで、秘書と二人の時間を多く過ごすようになる。けど、結局それが目的だったんじゃね? という疑念が拭えない。けれどそういう牧師に限って、「異性関係には注意しなさい。誤解されないように」などと信徒に注意している。
これはクリスチャンの目的でなく、何かべつの目的であろうと私は思う。
・終末予想
これは当ブログでも何度か取り上げているけれど、あるクリスチャンは携挙がいつだとか、主からの特別な啓示だとか、準備がどうとか、そういうことばかりに躍起になっている。けれどそのメッセージは、「終末だ」の一言に尽きる。他のメッセージが何もない。いつ来るともしれない終末という「噂話」に興じているだけだ。
それはクリスチャンの目的とは全然違うと私は思う。
以上、クリスチャンの目的として「違う」と思うものを挙げたけれど、あまりに違い過ぎて、ヒントにならなかったかもしれない。
終末が来るという話ですが、いつ来るともしれない終末という「噂話」に興じているだけですんでいるなら、それはまだましほうではないかと思いますよ。
返信削除こういった終末の話で一番問題になるのが終末詐欺なのです。このあたりの事情はものみの塔聖書冊子協会とそっくりなのですが、終末が近いからといって財産を宗教団体に献納したり、会社や学校をやめて宗教を第一とした生活を送るようにという指導がなされるがために、多くの人たちが人生を棒に振ってしまうことなのです。
今こういった宗教団体の中に残っている人の中には、「しまった!変な新興宗教にだまされてすべてを失ってしまった・・・」と本当はわかっていても、宗教の世界の中でしかもう生きることができなくなってしまっているので、毎日泣きの涙でいる人も決して少なくはありません。
単純に考えまして、教会と言う所は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげます」と言う、イエスキリストの言葉にすがって来るハズです。
返信削除クリスチャンであろうが無かろうが、全く同じではないでしょうか?
それが、日曜日の朝早くから奉仕だ何だと、お掃除にお交わりにと終日教会に入り浸り状態。
更には、人寄せパンダではないですが、あの集会この集会で地域にチラシを撒きましょう。お願いします。この地区は何方が?地図でここを撒きます等など・・・・・。確かに「健康」のためであれば、良いかと存じます。とにかく歩きますからね。
日曜日って、クリスチャン、特に献身的な人にとっては平日の勤務日よりも濃厚ですね。
人に気を使い、ある時はお金も使い。本来であれば「ジョー談じゃねーよ!俺の休みに家でごろごろしようが、釣りに行こうが、山に登ろうが、海で泳ごうが、ショッピングしようが、スポーツに打ち込もうが、干渉される謂れはないぜ!」ってふっと、思いますね。
本来、日曜日に教会に行くのって、「受ける」ためにではないのですか?
いや違う!「捧げるためだ!自分を神の御心に合わせるようにしないと!」等と、講壇からのたまいますけれど。違うでしょう?何のために「教会」があるのですか?「休ませてあげます」とイエス様は仰られた。そうであるならば、全て「受ける」ためでしょう?!
教会の一切の働きは、牧師さんとご家族でなさっては如何でしょうか?
いい加減に聖書を悪用すんなよ!馬鹿牧師ども!
そう、身をもって宣言しています。
そこで、もしもカルト的な教会と言う所に加わっていたら・・・・・・。考えるだけでゾッとしますね。
単純に割り切り過ぎかなと思いました。ご指摘の聖書の言葉は、イエスキリストの関係を結ぶということに主眼があって、それをもってこの世の見える教会に来る目的の中心は「休むため」と結論するのは、他の聖書箇所とは折り合わないと思うのです。教会に行くのは「受けるため」と断じてしまうのも同様に思います。
削除また、使徒行伝やパウロ書簡等の記述を確認いたしますと、教会の一切の働きを牧師と家族がするという結論にもいたりません。
聖書を悪用する牧師どもは確かに責めを負うべきです。
私の師匠達は、教会員は「人材」ではなく「人格」であると繰り返し言っていました。
まして金蔓であっていいはずがありません。金銭的に必要があれば別に働けばよいのです。牧師が副業を持つことを問題視する役員会の問題はまた別の議論が必要になると思います。