2014年9月17日水曜日

カルト化教会を対岸から眺めるコメンテーターについて

「教会 カルト化」で検索すると、カルト化教会について警鐘を鳴らしておられる個人やグループのサイトがわずかながら見つかる。皆さん長く活動しておられるようだ。私はその方々と面識はないけれど、非常に大切な活動だと思うので、陰ながら応援させていただいている。と言っても本当に心の中で応援しているだけで、彼らにとっては何の足しにもならないけれど。

 ところでそれに混じって、教会の牧師さんがカルト化教会について言及している記事も見つかる。彼らの教派とか神学的背景とか、どんな人なのかとか知らないけれど、皆さん「カルト化教会にならないように注意したい」というようなことを書いている。
 その姿勢は必要だし、この問題に関心を寄せること自体は大切なことだ。「教会のカルト化」が認知されつつあるのも良いことだと思う。

 けれどそういう記事を見ていると、たとえば「ディボーションを欠かすからいけないんだ」とか、「神を恐れる心を持っていれば大丈夫だ」とか、何だか殺人事件を取り上げるワイドショーのコメンテーターの話みたいに聞こえる。

 ああいう番組のコメンテーターは(べつに悪く書くつもりはないけれど)、大抵犯罪の専門家などではない。にもかかわらず、たとえば「この犯人には実は〇〇という性質があって、だから××をしてしまったんですよ」などと知ったかぶって言う。
 けれどそれは、後付けでしかない。「〇〇な人だから××をしたんだ」と分析できたのでなく、「××をしたこの人はきっと〇〇なのだ」と当て推量したに過ぎない。

 上記の記事にも、同じような当て推量の匂いがする。カルト化教会に関する記事や話に触れて、「きっとこういうことだろう」と、想像でモノを言っている気がする。
 その証拠に、彼らが言う「ディボーションが大切」とか「神への恐れが大切」とかいう助言は、本当のカルト被害者らに対しては何の役にも立たない。それにそんな小手先の方法論とか努力目標とかで教会がカルト化しないなら、誰も苦しまない。
 逆に言うと被害者のことを考えられないから、そういうことが言えるのではないだろうか。そしてそれは、カルト化教会について本当は何も知らないという事実を露見している。
 対岸の火事を眺めながら好き勝手なことを言っている、と評したら言い過ぎだろうか。

(余談)
 もう一つ、そういう牧師さんが言うには、「牧師は攻撃を受けやすい立場だから、信徒の皆さんに祈ってもらう必要がある」とのこと。それ自体べつに間違っていないと思うし、まあ謙遜な姿勢を見せているのではないかと思う。けれど、そういう祈りでカルト化を防ぎたいのだとしたら、優先順位が甘いと言わざるを得ない。カルト化を防ぐには、もっと実際的で実現可能性の高い、組織的で第三者も巻き込んだ具体的な何かが必要だからだ。ただ祈って「神様お願いします」では、決して防げない事柄だと私は考えている。

1 件のコメント:

  1. これを読んでいて思い出したことがあります。ダビデの幕屋の回復とか携挙とかチャーチスクールとか、いろいろやっていて大いに問題があるといいたくなるような某新興宗教系プロテスタントの教会の話です。
    その教会では教会のカルト化の問題については知っていることは知っています。で、その新興宗教の教会でカルト化した教会とはどのようなものかを定義してはいます。その定義というのは「カルトというのは神を賛美しない教会のことである。」と・・・・
    このような定義でごまかしてお茶を濁そうとしている姑息さに呆れて開いた口がふさがりませんでした。神を賛美してさえいればその教会はカルト化することは絶対にないし、またカルトといわれることも100%ないと考えているようなのです。この稚拙さはまさしく新興宗教につきものの反知性主義からくるものなのでしょうか?

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