2014年7月31日木曜日

イスラエルのガザ地区侵攻を見て「終末だ」と言うクリスチャンの浅はかさ。

 イスラエル軍のガザ地区侵攻によるパレスチナ人の犠牲者が、1000人を越えた。その大部分が一般市民だという。
 26日、イスラエル軍とハマスとで12時間の停戦合意がなされた。けれど、停戦延長はされなかった。その理由を、イスラエル側はハマスが停戦案に合意しなかったからだと主張し、ハマス側は不利な停戦案を一方的に突き付けられたからだと主張している。真相はよくわからないけれど、結果的にイスラエルによる空爆は続行され、ガザ地区の被害は拡大している。

"I might die tonight"(今夜死ぬかもしれない)とツィートしたガザ地区の少女がメディアで取り上げられている(記事はこちらから)。イスラエル贔屓の人に言わせれば「ヤラセじゃないか」となるのかもしれない。けれどこれまでの文脈から考えると、現実味がある。仮にこのツィート自体がヤラセだとしても、「いつ死ぬかわからない」という状況のパレスチナ人は、決して少なくないように思う。

 ひるがえって日本のクリスチャンを見てみると、こんなことを言う輩がいる。

「(イスラエルを取り巻く状況を見て)ついに引き金は引かれた。誰かがイスラエルに手をかける

 終末の到来だ、ということだ。正直、あきれる。本人は「神の秘密」を代弁しているつもりだろうけれど、結局のところ、終末予想を楽しんでいるに過ぎない。その背後でどれだけの人が苦しんでいるか、犠牲になっているか、全然見えていない。今夜死ぬかもしれないパレスチナ市民のことを少しは考えられないのだろうか。彼らこそ人生の「終末」をリアルに感じているだろうに。私に言わせれば、完全に独りよがりな「信仰ゴッコ」である。「引き金は引かれた」とか、「中二病」じゃないだろうか

 基本的なことだけれど、黙示録や聖書の終末関連の記事を、現在の世界情勢に当てはめるのは全然意味がない。パウロをはじめ、おそらく各時代のクリスチャンらが、自分たちの時代こそ世の終わりだと本気で考えてきたのだ(終末の時期を予想していたという意味ではない)。だから今この時代が終末に近いと考える心情はわかるけれど、リアルタイムの情勢を見て「これこそ終末だ」と言うのは、はっきり言って愚かである。
 これで終末が来なかったら、彼らは何と言うつもりだろうか。「自分がとりなしたから回避された」とでも言うつもりだろうか。だとしたら、もはや付ける薬がない

 もちろん、終末はまだ来ないと考えるのも違う。それはいつ来てもおかしくない。パウロのように「今は終わりの時」と考えるのは正しい。
 けれど、その時期は「誰にもわからない」と聖書は明言していて、「終末予想」を完全に否定している。だから「この世界情勢は終末を意味している」というのは明らかに聖書に反している。そんな簡単なこともわからないのは、聖書をちゃんと読んでいないからだ。そしてそういう人間に、神だ何だと語る資格はない

2014年7月30日水曜日

初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その4。過去の自分に忠告するとしたらの続き。

 教会に通い始めた頃の自分自身に忠告したいことの続き。今の自分だったら、彼に何と言うか。
 
・「いろいろな教会を見て回るのはいいけれど、放浪癖がつかないように」
 教会巡りが過ぎて、結局どこにも定着できない、ということがある。実際そういう人は少なくない。根無し草みたいに教会を転々とする結果、何年たっても何も積み上がらず、信仰が育まれない、ということにもなる(べつにそれでいいじゃん、という意見もあるし、同じ教会に通っていれば信仰が育つのか、という議論もあるけれど)。
 教会を転々としてしまう原因は2つあると思う。

 1つは信徒側の問題である。教会でちょっと嫌なことがあると、簡単に「もう行かない」となる。それを方々で繰り返すから、あちこち転々とすることになる。
 もちろん程度の問題はあって、物凄い理不尽な目に遭っても我慢して通えということではない。そういう教会は早々にお暇した方がいい。
 ただ教会も人間の集まりである以上、多少の軋轢は避けられない。一般常識的に、人間関係において忍耐すべきラインはある。そういうのを少しも忍耐できず、誰が悪い彼が悪いと言うのは、クリスチャンだとか教会だとかいう以前の問題である。そういうことでいちいち逃げ出していたら、キリがない。
 前回も書いたけれど、ある程度の期間いないと見えてこないこと、わからないことがある。そういうこと(良いも悪いも含めて)に気づかないまま去ってしまうのは、本当にもったいない。

 もう1つは教会側の問題である。ぶっちゃけて言うと、その教会(あるいは牧師)を信頼できるかどうかだ。信頼できない教会に通い続けることは(おそらく誰だって)できない。行く先々の教会がどれも信頼に足らないなら、やはり転々とすることになる。
 ただこれは、教会側が信頼感を与えられないという側面の他に、信徒の側の警戒心が強すぎたり、基準が高すぎたりという側面もあると思う。特にカルト化教会で酷い目に遭ったという人は、なかなか次の教会を決められないだろう(その場合、むしろ教会に行こうと思うだけでもすごいことだ)。
 
・「奉仕を軽々しく引き受けてはいけない」
 日本の教会は奉仕の宝庫である。歴史の浅い教会は特にそうだ。伝統的な教会ほど組織的、体系的にまとまっていて、奉仕量は少ないようであるが。
 
 特に注意が必要なのが、活動的な教会、牧師の野心が見え隠れするような教会である。奉仕がどんどん増えていくからだ。成長志向、というより拡大志向が強くて、伝道集会やらイベントやら事業やら、とにかく何でもやって人を増やそう、教会を大きくしようという話になる。そういう教会は「信徒が奉仕するのは当たり前」という風潮があるから、一度奉仕をしだすと、次々と委ねられて身動きができなくなってしまう。いわば「奉仕地獄」である。
 
 そうなってしまうと、クリスチャンの本来あるべき姿からどんどん離れていってしまう。奉仕が忙しくて礼拝どころでなく、聖書を読む暇もなく、祈る時間もなく、家族や友人に心を向ける余裕もない、という具合だ。一体何の為の教会だという話になる。
 
 だから通いはじめてすぐ奉仕の話が出る教会は、要注意である。
 
 しかしこれには、男性的な性質も絡んでいると思う。つまり責任を持ちたい、役に立ちたい、アテにされたい、という性質だ。承認欲求に通じるものもある。教会の中での自分の居場所・地位を、何か「すること」で確立しようとしてしまうのだ。もちろん個人差があるだろうし、女性でもそういう人がいるだろうけれど、要注意である。こういう人が上記のような教会で奉仕しだすと、いいように利用されてしまう
 
・「神は一人にしか語らない方ではない。牧師に何と言われても、最後は自分でちゃんと考えて決めなさい」
 神はあなたにとって重要な事柄を、あなたの牧師にだけ語り、あなたを含む他の誰にも語らない、ということはしない。そうだとしたら不公平である。それに一人にしか語られないとしたら、その真偽を確かめる方法がないから、本当に神からのものかどうかわからない。
 もちろん期日指定で「こうなる」と語られれば、その真偽はいずれ明らかになる。けれど昨今の「語られた」は、そのへんが曖昧なものばかりだ。
 
 たとえば「今が献身の時だ」と牧師経由で「語られた」とする。それに従って献身した結果、ひどい貧乏になってしまったとする。ではそれは間違いだったのか。しかし牧師は言う。「献身には困難と戦いが付きものだ。イエス様だって税金が払えないくらい困窮したのだから、私たちも同じところを通るのは当然ではないか」
 
 そういう訳で苦労していくのだけれど、それが本当に「主の導き」だったのかどうか、実はいつまでたってもわからない。良いことが起これば「やっぱり」となるし、悪いことが起これば「試練だ、戦え」となるからだ
 
 そしてまた、自分自身はいつまでたっても神様に直接語られない。いつも牧師経由で語られる。神様ってそんなに人見知りなのだろうか
 
・「以上、今はわからなくても、いずれわかる。だからちゃんと覚えておきなさい」
 熱心は人を盲目にする。何かに夢中になっている時、人は忠告に耳を貸さないものだ。特に必要な忠告には
 カルト化教会で酷い搾取を受けていても、その人からすれば正真正銘の「信仰の行い」なのである。だからそれにどんなに反対しても忠告しても、聞く耳を持ってくれない。
 だからそういう人には、可哀想だけれど、とことん苦しんでもらうしかない。そしていつか破綻した時のために、今のうちに忠告しておくのだ。そうすれば破綻した時に、「ああ、あの忠告は本当だった」とわかってもらえる(かもしれない)。
 
 以上、教会で失敗する前の自分自身に言いたいことを書いてみた。もちろんこれは不可能なのだけれど、最近教会に通い始めたばかりの方には、何かしらのアドバイスになるかもしれない(そうなればいいと思っている)。
 他にもこんなことが言いたい、あんなことが言いたい、ということがあれば、是非教えていただきたいと思う。

2014年7月28日月曜日

初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その3。過去の自分に忠告するとしたら。

 初めて教会に行く前にすべきと思うことの3回目。
 今回は、何十年か前の、初めて教会に通いはじめた頃の自分自身にもし忠告できるとしたら、今の私が彼に何と言うか、考えてみた。
 
・「いろいろな教会を見てみなさい」
 クリスチャン人口が少ないと言っても、教会は探せばけっこうある。もちろん家から近くがいいけれど、週1~2回程度なら、少し遠くても自分なりに納得できるところに行くべきだと思う。その為には、いろいろ見て回った方がいい。
 
 中には「自分が植えられるべき教会は神様が用意している」と言う人がいる。それ自体は間違いでないと思う。けれど、何かの縁でたまたま通い始めた教会の人から、「ここは主があなたに備えられた教会です。偶然ではありません」とか言われて、それ以降の教会巡りに反対されることがある。それに従わないと不信仰扱いされる。
 けれどそれは、アダムとエバと全人類に与えられた「自由意思」を奪う行為だ。またそれは詰まるところ、運命論である。「あなたはこの教会に来る運命だった。だからもう他に行ってはならない」
 その考え方を支持するなら、イスカリオテのユダはどうにも抗えない運命の力によって仕方なくキリストを裏切ったことになる。すると彼は裏切り者ではなくなる。冷酷な神の犠牲となった、哀れな被害者だ。
 だからそういう主張に聖書的根拠はない。自分の教会に人を留めておきたいから、単に神を利用しているだけだ。
 
 いろいろ見て回った方がいいのは、それだけ教団教派によって教会の様相が違うからだ。
 たとえばルーテル派は、オルガンと讃美歌を使って、実にオーソドックスな礼拝を捧げる(全部かどうかはわからない)。一方で都心の方の聖霊派のある教会は、暗い室内に照明がバンバン光り、スモークが立ち上ぼり、低音の効いたアンプが地響きをたてる中、若者たちが跳び跳ねて賛美している。クラブか何かかと見紛う光景だ。ぱっと見たところ、両者が同じ神様を信じているとは考えにくい。
 
 もちろん、それは見た目の違いでしかない。「本質は同じでしょ」と思うかもしれない。しかし、その背後には聖書解釈の違いがあり、それが信仰の違いとなり、それが行動の違いとなっている。だから見た目の通り、中身も違う。まったくの別物と言ってもいいかもしれない。
 
 だからやっぱりいろいろ見て、勉強して、自分に合うかどうか検討した方がいい。しかしここで言う「自分に合う」とは、単に礼拝スタイルが好みだとか、見てくれがいいとか、同じ年齢層が多いとか、そういう表面的なことだけではない。聖書解釈や、そこから生まれる信仰の在り方、言葉にならない「教会の雰囲気」みたいなものも大事だ。どちらかと言うと後者の方が大事だと私は思う。
 
「短期間で見たつもりにならないように」
 およそどんな組織にもグループにも、ある程度の期間所属していないと見えてこない顔がある。と言っても「裏の顔」とか「隠された部分」とかいう意味ではない(そういうこともあるけれど)。
 たとえば、上記の例で言うと、ルーテルの礼拝やそこに集う人のことを最初は「堅苦しい」と思う人がいるかもしれない。でもフトした時に、そこに変わらず存在する安定感や信頼感に気づくのだ。同時に聖霊派を「生き生きしてるし、とっても霊的だ」と思う人がいるかもしれない。けれどフトした時に、そこにあると信じていたものが実はなかった、と気づくのだ。
 
 見えなかったものが、次第に見えてくる。それはいろいろなことに当てはまる。教会も例外ではない。
 だからやはり、ある程度の期間を持った方がいい。性急に決めるべきではない。
 もちろん性急に決めた結果、「やっぱり違う」と思ったら、辞めればいいだけだ。けれどそんなに簡単な話でもない。長くいればいるほど、人間関係が深まるし、愛着も生まれる。奉仕など任されたら尚更、辞めるに辞められない。
 
 もう少し書きたいけれど、長くなったので次回にしたい。

2014年7月27日日曜日

初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その2。「宗教観教育」について。

 前回は「初めて教会に行く前にすべきと思うこと」について書いた。簡単にまとめると、

 初めて行って定着した教会のやり方を、人は「キリスト教」だと思い込みやすい。教団教派の違いの大きさを知らないから、「どの教会に行っても基本的には同じだろう」と最初は安易に考えている。けれど何年か経ち、キリスト教の多様さに気づく頃には、自分の教会が一番正しいのだと信じていて、ほとんど変更不能になっている。他の解釈や可能性を頭から否定して、学ぼうとしない。
 それが特に問題にならない場合もある。けれど、大問題になることもある。だから教会に行く前に、キリスト教についてしっかり予習しておくべきだ。

 という話。
 しかしこれはほとんど理想論みたいなもので、実際には難しい話だ。本気で教会に行ってみようと考えている人は、おそらく何かしら悩みを抱えて困っているだろうから、キリスト教について事前にリサーチする余裕などないと思う。一方、単に誘われただけの人の場合、そこまで深く考えていないだろうから、やはり予習などしないと思う。だから現実的には、多くの人はほとんど何の知識もないまま教会に行くことになる。そこで牧師さんが丁寧にいろいろ教えてくれればいいのだろうけれど、昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、そういうことは期待できそうにない。

 理想論ついでに書くけれど、これは教育に関わる問題だと思う。
 つまり現在日本の学校教育では、「宗教観」が育まれるということはない。宗教がどんなもので、どう捉えるべきで、自分とどう関わりがあるのか(あるいはないのか)、ということは一切教えられない。あるいは人生とはどんなもので、困った時にはどういう選択肢があって、その時宗教がどんな位置づけになるのか、というような「人生指南」みたいなカリキュラムはない。
 あるとしたら世界史の授業なんかで、世界の三大宗教とか、「目には目を」のハンムラビ法典とか、そういうマメ知識を学ぶくらいだ。

 もちろん、それは個人の自由が尊重されているからだし、教育法で宗教教育が禁止されているからだ。けれど私が言いたのは、こういう風に生きろと人生を限定することでなく、宗教についてその教典から詳しく教えろということでもない。
 ただ、そういったことがある程度体系的に教えられないと、宗教と聞いただけで「弱い人間がすがるものだ」みたいな偏見を持つことになってしまう。あるいは「誰も教えてくれなかったけれど、ここにこそ救いがある」と信じ込んで新興宗教にハマることになってしまう。
 どちらも極端な例だけれど、知らない(教えられていない)とはそういうことだ。宗教に偏見を持つのも、変にハマるのも、それが本来何なのか、客観的に知らされていないところに原因がある。ちゃんと教えられたうえで、「やっぱり心の弱い人間がすがるものだ」と判断するかもしれないけれど、それは教えられる前とは全然違う根拠によるものだろう。

 国として、教育でそこまで宗教を扱えない、と言うなら、国内の宗教団体をもっと規制すべきだろう。でないと、若者たちを地図も何も渡さないでジャングルの真ん中に放り込むようなことになってしまう。憲法に「信教の自由」があり、いろいろな宗教団体を野放しにしているのだから、それに対する考え方(対処法)くらい、教えるのが筋だと私は思う。

 以上、何の役にも立たない理想論である。

 ところで以前、知り合いに「エホバの証人」の信者がいて、私はクリスチャンだと一切名乗らず、いろいろ話を聞いてみたことがある。彼らは年に何度か総会みたいなものを開くそうだ。関東圏だと、埼玉スーパーアリーナが会場になったりするという。けっこうな人数が集まるようである。
 そこでふと思ったのが、そういうえば新興宗教にハマる人って少なくないな、といことだ。友達に「幸福の科学」の人もいたし、名称を忘れてしまったけれど何かの宗教の人もいた。近所に訳のわからない宗教団体の本部がある。日本のクリスチャン人口は1%未満らしいけれど、そういういろいろな新興宗教を合わせれば、総数はけっこうな数になるのではないだろうか。

 そう考えると、「宗教観教育」も単なる理想論では片づけられないような気がする。

2014年7月25日金曜日

初めて教会に行く前にすべきと思うこと

 クリスチャンホームでなく、キリスト教に関わったこともない人が、生まれて初めてキリスト教会に行ってみるとする。その人はどういう基準で、どんな教会を選ぶのだろうか。そしてその後、どのような経過を辿るであろうか。

 おそらく少なからぬ人々が、友人の誘われたからとか、近所にあるからとか、何となく入りやすかったからとか、そういう理由で教会に行くのではないかと思う。つまり事前に、キリスト教がどんな宗教で、どんな歴史があって、どんな教派があって、ここの教会は何派、あそこの教会は単立、などとしっかり予習したうえで選ぶという人は、そう多くはないと思う。

 だからそういう人にとって、初めて行った教会が、その人にとっての「キリスト教」となることがある。聖書解釈においても、「神」のイメージにおいても、あるべきクリスチャンの姿においても、その教会のスタイルがお手本となる。そして他の教派がどんななのか、どう違うのか、なぜ違うのか、という点については特別触れられることもなく、年月が過ぎていく。だから熟練クリスチャンとなっても、そういうことを全く知らない、という人が多くなる。下手すると、自分の教会が唯一正しく、他の教会はどこかが間違っている、同じクリスチャンとしてとても残念だ、と思い込むようになるかもしれない。

 もちろん、ある一つの教会を選ぶということは、ある一つの聖書解釈を選ぶ、ということに繋がっている。什一献金しかり、洗礼しかり、聖霊しかり、その他諸々しかりだ。だから自分が選ばなかった教会については、どこか同意できない部分がある、ということになるのは仕方がない。
 ただ、それは「同意できない」と言うに留めておくべきで、「間違っている」というのは言い過ぎだろう(明らかな間違いもあるけれど)。聖書を理解することは、数学の計算問題を解くのとは全然違うからだ。一つの明確な答えが、わかりやすく出る訳ではない。

 しかし人生で初めて行った教会の教えや雰囲気や人間関係に順応してしまうと、他の教団教派の聖書解釈、別のアプローチ、異なる在り方を、認めにくくなる。教会生活が長くなればなるほど、その傾向は強くなる。これは、たとえばヒヨコが初めて見た物を親だと思い込む「刷り込み」現象にも似ている気がする。すでに物理的にも精神的にも自分の居場所となった場所を、今さら否定できないのだ。

 まして教会(というか牧師)の方針として、他の教団教派を否定的に見るところでは特にそうだ。よく活動的な聖霊派の教会などが、伝統的な教派を取り上げて、「信仰が死んでいる」「真理に目が開かれていない」などと決めつけることがある。それを聞いた信徒は、「自分たちが正しいのだ」と思う。つまり、「正しいか間違っているか」の二元論に落とし込まれ、どちらも良いのでは、という視点が奪われてしまう

 そこまで他教派を否定的に見ない教会であっても、新しい信徒に教えるのは、自分たちの聖書理解である。いちいち他教派の教えに触れることはないだろう。たとえば什一献金を肯定する教会であれば、什一献金は当然のことであって、それを裏付ける方向で聖書を使う。決して否定的な使い方はしない。そしてそこには、既にある種の「囲い込み」が発生している。

 だから何も知らない人が、初めて行った教会に定着し、そこで1から信仰を育むというのは一見良いことに思えるけれど、大きな危険を含んでいる。複数の聖書解釈、複数の在り方があり、どれが正しいとか間違っているとか、そういう単純な話ではない現実があることはちゃんと知っておくべきだ。
 そしてそういう客観的な視点で見られるのは、多くの場合、一つの教会に定着する前である。

 それゆえ、初めて教会に行くという人は、キリスト教についてよくよく予習してからにすべきだと私は思う。あるいは教会側で、そういう情報を提供すべきかもしれない。

 たとえば進学先とか、就職先とか、引っ越し先とか、家を購入するとか、そういう人生の一大事にある場合、多くの人はできるだけたくさん情報を集め、よくよく検討し、いろいろ考えてから決めるだろう。教会選びもそれと同じようなことのはずだ。
 けれどそこまで十分に検討されないとしたら、それはそれだけの価値が教会にない、ということかもしれない。

2014年7月24日木曜日

ガザ地区侵攻についてイスラエルを批判するのは、反イスラエルなのか。

 イスラエル軍によるガザ地区侵攻が続いており、21日の発表によると、パレスチナ人の死者は500人を越えていて、その大部分が一般市民だと報じられている。
 これに対するデモがあちこちの都市で起こっていて、イスラエル国内でも起こっている。けれどイスラエルのネタニヤフ首相は、ハマスの施設に重大な損害を与えるまでは作戦をやめない、と明言している。

 上記は日本でNHKのネットニュースやSNSなどで一般的に得られる情報である。そこにはハマスによる情報操作がある、という説もあって、事実が捻じ曲げられて伝えられている、という。けれどそれが本当なら、イスラエル国内を含む世界中が騙されているということになって、もはや何が真実かわからない。

 だから前述の報道が事実だと考えて書く以外にないけれど、やはり私は、多くの一般市民が犠牲になる「侵攻」には反対だ。イスラエル側にも正義はあるのだろうけれど、旧約時代じゃないのだから、「女子どもに至るまで聖絶する」のは許されないはずだ(もちろんイスラエル軍がパレスチナを聖絶しようとしているという意味ではない)。

イスラエル人の自衛の為ならパレスチナ人が死んでもいいのか」という問いは裏返すと「パレスチナ人が犠牲にならない為にイスラエル人が死んでもいいのか」という問いになる、と言う人がいる。何が言いたいのかよくわからないけれど、これはそもそも、イスラエルかパレスチナか、という話ではない。天秤にかけてどうという話ではない。一般市民がある日突然殺されてもいいのですか、という話だ。

 また他にもこんな意見がある。「他の地域でも紛争や虐殺がたくさん起きているのに、なぜガザの為だけに声を上げるのか。それは人権擁護でなく反イスラエルなだけだ
 もちろん世界情勢に詳しく、そういう情報が日々入ってくる立場にあるのなら(そしてそういうことに時間をかけられるのなら)、たくさん声を上げる必要があるだろう。けれど大多数の人はそこまで地域情勢に詳しくないし、情報もないし、日々の生活もある訳だから、どこで何が起こってるか完璧に網羅することなどできない。不幸な現実が起こっているのは悲しいけれど、情報入手には皆それぞれ限界がある。
 そういう中、最近で言うと、今ガザ地区でこんな惨事が起こっている、という声が多いから、私たちも知ることができたのだ。そうでなければ、おそらく知らずに終わってしまう。そして知ったからこそ、声を上げるのだ。そしてそれは、反イスラエルとは全然関係ない。人権が踏みにじられている現実に対して声を上げているのだ。
 それにこの意見には、「自分はこれだけ世界情勢に詳しい」という自負というか、自慢みたいなものを感じる。個人的にはいやらしく聞こえてならない。

 私にとってこの「侵攻」は人権問題であって、一般市民、特に子どもが殺されていくのは本当に忍びない。と言っても遠い国でぐちぐち書いているだけなのだけれど、それでも何もしないよりは良いと思っている。
 そして私はガザ地区に対するイスラエルの「行為」に対してノーと言いたいのであって、イスラエル国家とか、民族とかに対してどうこう言いたいのではない。
 ディベートで相手の意見には反対するけれど、相手の人格を否定するのでない、というのと同じだ。
 だからここ最近のイスラエルへの批判をつかまえて、いちいち「反イスラエルだ」と決めつけるのは、違うと思う。

 それと、イスラエルへの批判を何でもかんでも「反イスラエル」と決めつけて悪しきものとするのは、牧師への批判は許されない、という牧師の神格化に似ている気がする。牧師だから神の器、神の代弁者であって、何の間違いも犯さない、神聖不可侵な存在だ、というのがその意味だ。これをそのままイスラエル国家に適用するなら、イスラエルは何をしても許される、それを批判してはいけない、ということになってしまう。それがどれだけ危険なことか、普通に考えればわかるだろう。

2014年7月23日水曜日

クリスチャンとイスラエル・その2。聖書無視のユダヤかぶれについて。

 イスラエル(ユダヤ)に傾倒した牧師や教会の、行き過ぎたイスラエル擁護について書いている。この数週間、イスラエルの空爆によってガザ地区のパレスチナ市民が多数犠牲になっていることや、一般家屋や医療施設が破壊されていることについて、彼らは何も言わない。言うとしたら「イスラエルこそ奇跡的に守られている」というような、信仰をずいぶん通り越した妄言である。

 私の認識では、日本のキリスト教界には数年前から急速なユダヤ・ブームが起こっている。福音派や聖霊派だけだとしても、その飲みこまれようはバカにできない。割と正統的(?)にやってきた教会が、何かのキッカケでユダヤ主義に触れて(かぶれて)、急速にそのスタイルを変える、というのを少なからず見ている。

 彼らはユダヤ暦を教会に取り入れて、その祭り(スコットとかプリムとか)を祝ったり、9月のローシュ・ハッシャナーが「本当の新年だ」とか言ったり、ユダヤ風の食文化を取り入れたりと、傍から見ると「ユダヤかぶれ」としか思えない有様になっている。
 ひどいところになると、イスラエル旅行の際、バプテスマのヨハネが洗礼を授けたという場所で自分たちももう一度洗礼を受けて、「これで本当の洗礼を受けた!」とか興奮して言う。洗礼場所に本当も何もないはずだが、キリスト教教義はどこに行った、という感じだ。

 もちろんユダヤ文化は何も悪くない。ユダヤ文化を愛好するのも決して悪くない。好きな人は存分にしたらいいと思う。
 けれど教会単位で、聖書教理とガッチリ絡み合った状態でユダヤ文化が取り入れられていくのは、はっきり言って間違いだと思う。
 

 新約聖書の「使徒の働き」を見ると、そのことがよくわかる。
 福音がユダヤ人だけでなく、異邦人(外国人)にまで伝えられるようになると、「異邦人もユダヤの律法を守らなければ本当には救われない」という動きが出てきた。つまり、ユダヤの神を信じるのだからユダヤの律法も守れ、ということだ。けれどパウロはそれに反対して、激しい議論になった、と書いてある(15章)。
 その議論は結局、人は信じて告白することによって救われる、という福音本来のポイントに決着した。
 だから私たち(ユダヤ人から見る)外国人クリスチャンは割礼を受けなくていいし、旧約聖書の律法の一言一句まで負わなくて済んでいる。それが新約聖書の言う、新しい契約のはずだ。

 ひるがえってイスラエル傾倒の牧師らを見てみると、そういう救いの本質からズレて、旧約の律法に戻ろうとしているように見える。
 ユダヤ暦を覚え、その祭りに従い、「本当に礼拝すべき場所はエルサレムだ」と言っているのが、その如実な現れである。つまりイエス・キリストを愛すると言いながら、その言うところをまったく無視している

 彼らがそのうち、「真のイスラエルとして割礼を受けなければ」とか言い出すのではないかと、私は他人事ながら心配している。

クリスチャンとイスラエル・その3。ユダヤかぶれに見られる矛盾。

 牧師や教会がイスラエルに傾倒することで起こり得る問題について、3回目になるが書きたい。

 ちなみに1回目の記事2回目の記事はこちら。

 繰り返しになるけれど、ユダヤ文化を愛好することや、それを教会で楽しむことは全然問題ではない。むしろキリスト教のルーツに触れるという意味で、有意義でさえあるかもしれない。
 そうでなく私が問題としているのは、ユダヤ的に振る舞うことが聖書的だ、真理だ、クリスチャンとして優越だ、というような姿勢についてである。

 イスラエルに傾倒した牧師がよく言うのが、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12章3節・新改訳)という、神がアブラハムに与えた言葉である。このアブラハムはイスラエルの先祖だから、「あなた」は「イスラエル」ということになる。だからイスラエルを祝福することは神の御心だ、となる。

 私はそれ自体には何ら反論を持っていない。というか、この文脈で言う「イスラエル」が何を意味するかという議論が、その前にあるとは思う。けれどいずれにせよ、そもそもどこの国や民族だから特に忌み嫌うとか、特に愛し敬うとか、そういう区別をしないのがキリストの教えだと私は思う。

 しかしイスラエル傾倒の牧師らは、その聖句を持ち出して、なぜか、ユダヤの文化風習に従わねばならない、その祭や行事を祝わなければならない、エルサレムで礼拝しなければならない、などと言う。
 けれど、イスラエルを祝福することと、イスラエルのように振る舞うこととは、全然関係ない。イスラエルを祝福したいからと言って、何もイスラエル人の真似事をしなければならないという道理はない。日本人でもアメリカ人でも何人でも、そのままでイスラエルを祝福することはできる。
 そのへんに、根本的な勘違いがあると思う。

 また彼らは同時に、「私たちは霊的イスラエルだ」と自負する。つまり日本人でも、神様を信じて救われたから、霊的にはイスラエル人と同じだ、ということだ。
 霊的に何だろうとべつに良いのだけれど、であるなら余計に、イスラエルという「国」を祝福する必要性がなくなるのではないだろうか。なぜなら彼らの主張の通りなら、クリスチャンは全員「霊的イスラエル」なのであって、だったら世界中のクリスチャンを祝福することが「イスラエルを祝福する」ことになるからだ。現存するイスラエルという国家を祝福することとは、直接的につながらなくなる。非常に単純な矛盾である。

 こういう思想の背景には(イスラエル傾倒以外のことにも言えるが)、自分が何か特別な存在でありたい、他者より優れた者でありたい、という考え方があるように思う。人前で目立つ奉仕ができたら「大きく用いられた」とか言うのと同じだ。しかしそれはキリスト教教理的に言うと、自己中心ということになる。
 そういう動機で「ユダヤかぶれ」になるのが神の御心かどうかというと、答えは明白であろう。

2014年7月21日月曜日

クリスチャンとイスラエル。「場所」崇拝という誤解について。

 イスラエル軍によるガザ地区侵攻が、国際的に問題視されている。その中でイスラエル傾倒主義の教会やクリスチャンが、盲目的なイスラエル擁護を続けている、というのが前回の記事
 今回は、クリスチャンとイスラエルの関係について考えてみたい。
 
 イスラエルというと、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれの「聖地」であるエルサレムが有名であろう。そこはイエス・キリストが活動し、最期の時を過ごした地であるから、クリスチャンにとって、「憧れの地」であろう。キリスト教系の各誌も、聖地巡礼みたいな主旨のイスラエル・ツアーをよく紹介している。イスラエルに一度でいいから行ってみたい、と言うクリスチャンも少なくないし、私もその一人だ。
 
 そういう聖地巡礼的な旅行は悪いものではないと思う。自分が信じているもののルーツを辿るということは、自分の信仰にとって何かしらの意味がある気がする。あるいはそういう難しい話を抜きにして、単純に、聖書に書かれているのはこの場所のことか、こんな感じだったのか、と観光するのも興味深い。
 そういう個人レベルの興味関心でイスラエルに憧れるのは、個人の自由だし、何も責められるものではない。けれどその憧れが行き過ぎて、よろしくない方向に進んでしまうことがある。
 
 ある牧師は、「もうすぐ再臨だからエルサレムで備えなければ。そしてエルサレムでイエス様をお迎えしなければ」と本気で言っていた。またある牧師は、エルサレムで「祈りの家」を開いていて、「やっぱり聖地での祈りは違うよ」と溜め息をつく(その心情的な部分は理解できなくもないが)。

 もちろん、誰がどこで何をしようと自由だ。けれど、彼らのその「場所」に固執する信仰は、聖書に照らしてどうなのだろうか。
 
 同じように「場所」に固執した人物がいた。新約聖書のヨハネの福音書に登場する、「サマリヤの女」だ。クリスチャンの間ではかなり有名な女性だろう。
 彼女はイエス・キリストに救い主とは知らずに出会ったのだけれど、いろいろ話しているうち、この人は只者ではないと気づいた。そして礼拝場所について尋ねてみた。「私の先祖はこの(サマリヤの)山で礼拝しましたけど、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すべきと言ってますが」(かなり意訳)
 
 それに対するイエス・キリストの返答は単純明快で、かつ要点をついている。「礼拝するのはここでもなくエルサレムでもない、という時が来ます。霊とまことをもって礼拝するのが真の礼拝者です」(かなり意訳)
 つまり、場所なんて関係ないよ、ということだ。
 
 他の聖書の箇所を探してみても、エルサレムで礼拝する優位性みたいなものは見つけられない。ただ一つ、復活後のイエス・キリストが弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1章4節・新改訳)と、エルサレムに留まるよう命じている箇所
がある。けれどこれは期間が限定された命令であって、今日まで続いているものではない。それにその期間、祈っていろとか礼拝していろとか、命令された訳でもない。
 
 だからやはり、エルサレムで祈ったり礼拝したりすることの優位性や特権は、聖書中には見当たらない。たとえばあるグループが日本で礼拝し、またエルサレムでも礼拝したとして、どちらの礼拝の方が価値が高いとか低いとか、意味があるとかないとか、再臨の役に立つとか立たないとか、そういう話にはならない。
 
 そうやってサマリヤの女は明確な答えを聞くことができた。そしてその記録が聖書にあるから、私たちも彼女と同様、明快な答えを得ることができる。つまり礼拝場所の問題ではない、という答えだ。
 なのに上述のイスラエル傾倒主義牧師たちは、「サマリヤの女」を自身のメッセージに多用する割に、彼女が得た答えについてはまったく理解していない。依然として、「本当に礼拝すべき場所はエルサレムだ」とか言っている。「場所」崇拝もいいところだ。
 
 彼らはそれで御心を行っているつもり立派で最先端なクリスチャンのつもりなのだろうけれど、実は御心がまるでわかっていない、ということがわかっていない。
 
今日の結論)
 イスラエルはクリスチャンにとって憧れの地であり、心情的に特別な地ではあっても、教理的に特別な効力を持つ地ではない。

2014年7月20日日曜日

イスラエルのガザ地区侵攻、クリスチャンはどう捉えるべきか。

 イスラエル軍によるガザ地区侵攻が続いている。ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスに対する攻撃だと主張しているが、ガザ地区のパレスチナ市民に多数の被害者が出ている。それを問題視する声がSNSを中心に(SNSでだけ?)広がっている。

 日本でテレビや新聞を見ると、イスラエル軍とハマスが戦闘状態に入った、という報道のされ方をしている。つまり戦争状態だ。
 けれどtwitterなどのSNSを見ると、これはイスラエル軍による非道な虐殺行為だ、という見解が少なくない。
「戦争」と「虐殺」ではずいぶん違う。どちらも許されないという点では同じだけれど。

 けれど新聞の発表を見てみると、たとえば19日の記事は、イスラエルは兵士1人死亡、ガザは一般市民含む30人が死亡と報じている。また同日の別の記事を見てみると、侵攻開始から、イスラエル側は死者3人、ガザ側は90人と報じている。
 この数字だけ見ても、「戦争」にしては一方的だな、と感じる。

 現地に行って確かめた訳ではないけれど、これが「侵攻」と表現されているのを忘れてはならないと思う。つまりイスラエル軍がガザに攻め入ったのである。9日には、イスラエル軍がガザ地区の320か所を攻撃している。前日の8日には、ガザ地区南部の一般家屋も攻撃対象にするとイスラエル軍は警告し、実際に攻撃している。
 イスラエル側とガザ側で、被害者数のケタが違うのも当然である。

 くわえて軍事力の違いもあるだろう。イスラエル軍はミサイル迎撃システムも持っている。まともに戦ったらどちらが勝つか、目に見えているだろう。

 もちろん、ここにはテロリスト問題も絡んでくるから、どちらが善か悪かという話も難しい。けれど、何の罪もない子どもを殺されたパレスチナ人を見ると、私は大いに同情する。一般市民の犠牲だけは、絶対に許してはならない。

 ところでこういう情勢について、「イスラエルは神によって奇蹟的に守られているのです」と言うクリスチャンがいる。実はイスラエルは今もハマスの猛攻を受けていて、犠牲者が少ないのはあり得ない奇跡だ、神の守りがあるとしか思えない、という。
 彼らが最近流行の「イスラエル傾倒主義」なのは言うまでもない。いたずらにイスラエルを擁護し、パレスチナ市民の多くの犠牲者については、目を閉じて何も言わない。
 だいいちハマスの猛攻を受けていたら、イスラエル軍が「侵攻」などできる訳がない。イスラエルが優位なのは誰の目にも明らかなはずなのに、そのへんの文脈というか、論理が彼らは破綻している。盲目的な「イスラエルびいき」でしかない。

 この場合、クリスチャンとして心に留めるべきは、イスラエルが神に守られている(それが事実だとしても)ということよりは、パレスチナの市民に多くの犠牲者が出ている、子どもまで殺されている、という事実についてだと思う。それが「一人として滅ぶのを望まない」神の御心ではないだろうか。

2014年7月19日土曜日

クリスチャンと成長・その4

「鷹の選択」という動画があって、SNS等でちょっと話題になっている。鷹の生涯の後半に訪れる試練と再生を題材にしていて、大いに感動したり、励まされたりする人もいるようだ。

 いろいろなサイトで同じような説明がされているけれど、簡単に書くとこうだ。
 鷹は40歳くらいでクチバシやツメやハネに問題が起きて、それまでのように飛んだり食べたりできなくなる。そのまま死ぬ個体もいれば、自らクチバシやツメを破壊し、ハネを抜いて、新しく「生まれ変わる」個体もいる。後者は70歳くらいまで生きる、という。つまり、苦難に耐え、もう一度生まれ変わる(やり直す)決意と勇気を持つことの素晴らしさをそこに見出す、という訳だ。

 それはまあ鷹の本能的な生態であって、そのまま人間に当てはめることは当然できない。苦難に耐えて生まれ変わるのが良いことだと、一方的に決めつけられても困る。けれど、この話自体は良いと私は思う。体が衰退してそのまま死んでしまう鷹と、もう一度やり直そうと「ロッキー」みたいに努力する鷹とがいたら、やはり後者を応援したくなる。努力して何かを得る、報われるというのは良いことだ。もしそうならなかったら、人は何かしら理不尽を感じるだろう。
 私個人も努力するのは良いことだと思うし、それが報われるのは更に良いことだと思う。

 けれど、この動画を見て「感動した」と言うクリスチャンを見ると、ちょっと警戒してしまう。というのは、クリスチャンの「成長」にこの話を結びつけるような気がしてならないからだ。
「クリスチャンも試練の時は、鷹のように自分のクチバシを砕き、ツメを抜き、ハネをむしり取るような努力をしなければならない。そうしないともう一度飛び上がれない」みたいな根性論を、礼拝のメッセージに取り入れる牧師が出てくる気がしてならない。そしてそういうメッセージを喜ぶクリスチャンがいる気がしてならない。けれど、そういうのは個人的には願い下げである。

 もちろん、人間生きていれば、様々な苦境に立つこともある。ストレスフルな日々を過ごすこともある。誰にも助けられず、一人悶々と過ごすこともある。けれどそれが人生というものであって、クリスチャンとしての「成長」とは根本的に関係ない。あるいは苦難を通して人間として成長したから、信仰にも深みが出た、ということはあるかもしれない。けれど、そういう苦難を通らなければ信仰が成長しない、というのは暴論である

 自ら努力しようとすることと、努力を強要されることとは全然違う。どちらがより人を成長させるかと言うと、前者であろう。けれど(一部の)教会を見てみると、後者の「強要された努力」が蔓延している気がしてならない。そしてそれは、成長とは何の関係もない、残念な努力である。

「鷹の選択」に感動するのは良いけれど、その感動は自分の胸の内にしまっておくのが良いだろう。「努力することの大切さ」は、自分自身に言い聞かせるのが良いだろう。
 したり顔のクリスチャンが、そういうメッセージを教会に持ち込むのは、どうか謹んでほしいと私は願っている。

2014年7月18日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第38話

「愛する兄弟姉妹! 今日も神様を賛美して礼拝を始めましょう!」
 満面の笑顔の司会者が、元気に叫ぶ。そしてドラムのカウントから、楽器が大きな音で演奏を始めた。会衆から手拍子が起こり、口笛が起こり、ハレルヤとかアーメンとかいう声が起こる。礼拝は初めからお祭り状態である。

 今日の「リハーサル」で、溝田牧師が何度も言っていた。「賛美の出だしが一番重要だ。最初から、マックスで盛り上がっていかなければいけない。そうでないと、打ち破れないから」
 という訳で、賛美奉仕の若者らは、出だしを何度も練習させられていた。司会者は最初の一言から笑顔で、大きな声で、明るく会衆に語りかけろ、楽器は一斉に最大音量で始めろ、タイミングを狂わせるな、とか。若者らは緊張した様子で、しかし言われた通りにしようと努力していた。溝田牧師はそんな彼らに容赦ない叱責を浴びせ、うまくできるまで、何度も繰り返させた。キマジメくんはさすがに見ていられなくなって、トイレに行く振りをして会堂を出た。
 若者たちの従順と献身は大したものだった。いつも頭が下がる。さほど年齢は変わらないけれど、自分はあんな叱責に耐えられる自信がない。泣き出してしまうかもしれない。

 そんな若者らの苦労を当然知らない会衆は、お祭り気分で賛美を始める。飛び跳ねたり、踊ったり、手拍子を打ったり。キマジメくんはいつもなら同じようにするのだけれど、若者らが叱責される光景が頭から離れず、体が動かなかった。
 同時に、これではダメだ、ちゃんと神様を礼拝しなければダメだ、と思う自分もいる。皆が飛び跳ねて歌っている中、キマジメくんは一人、うつむいて悔い改めの祈りをした。そうしなければいけない気がした。

 一通り賛美が終わり、挨拶の時間も終わって、熱気にのぼせた会衆が席についた。すぐに溝田牧師が講壇に立った。「皆さん、今日は特別に、皆さんと祈る時間を持ちたいと思います」
 アーメン、という声が会衆から起こる。
「実は今朝、主からの強い語りかけがありました」牧師は続ける。「聖霊のバプテスマの為に祈れ、という語りかけです。この教会にはまだ聖霊のバプテスマを受けておられない兄弟姉妹がいると思います。その兄弟姉妹のために今、祈りたいと思います。聖霊のバプテスマを求めておられる方がいますか? もしいたら、どうぞ前に出てきて下さい」
 キマジメくんは躊躇したけれど、礼拝前に牧師にお願いした手前、出て行かない訳にはいかなかった。恐る恐る立った。そしてそろりそろりと、黒子のように前に出た。全員の注目が自分に集まっているのを感じる。
「ハレルヤ、主は真実です」キマジメくんを見て牧師は言う。「やはり語られた通り、バプテスマを求める兄弟を主は備えておられました」
 アーメン、という声がまた起こる。
「ではこのキマジメ兄弟のために祈りましょう。キマジメ兄弟、あなたは聖霊のバプテスマを求めますか?」
 マイクを差し向けられた。キマジメくんは「はい」とだけ答えた。牧師がハレルヤと言うと、会衆からもアーメンが起こる。
「あなたの信仰の通り、今日、聖霊のバプテスマが与えられるでしょう。では聖霊のバプテスマを既に受けていて、そのしるしとして異言が与えられている兄弟姉妹、立って下さい。キマジメ兄弟に聖霊様が下るように、助祷をお願いします」
 背後で大勢が立つのがわかった。そして一斉に「異言」が始まった。会衆のほとんどが立ったと思われる。皆が発する「異言」が波となって、キマジメくんを飲みこんだ。キマジメくんは体が震え、鳥肌が立った。
「ではキマジメ兄弟」牧師が耳元で言う。「体を楽にして、聖霊様に明け渡しなさい。両手を挙げて、聖霊様に心を委ねなさい。そして唇を解放してあげなさい。唇がしゃべろうとすることを、妨げてはいけません」
「はい」キマジメくんは言われた通りにした。
 牧師はさらに続ける。「異言は最初は未熟なものです。赤ん坊の言葉が未熟なのと同じです。赤ん坊が言葉を覚えるプロセスを知っていますか? 大人の真似をするのです。異言も同じです。皆の異言を聞いて、真似をしてみるのです。初めはそれでいいのです。さあ、唇を楽にして、舌に自由に語らせてあげなさい」
「はい」と返事をして、キマジメくんは腹と唇に意識を集中した。聖霊様、満たして下さい、と心の中で祈った。
 背後で会衆が祈る「異言」にも意識を向けた。それぞれに違う「異言」のようだけれど、同じような気もする。「ラララ」とか「ダダダ」とか「バラバラバラ」とか、同じ音の繰り返しが多い。「異言」は自分がまったくしゃべれない外国語だったと聖書に書いてある。ではこの「ラララ」とかも、どこかの国の言葉なのだろうか
 そういうことを考えると、なかなか出てこない。真似をすればいいと言われたけれど、何をどう真似たらいいのかわからない。そうこうしているうちに、時間だけが過ぎていく。
 溝田牧師が、キマジメくんの腹を何度か押した。「ほら、腹から出すんだ! 異言よ溢れよ! 聖霊充満!」
 そうやって押されると、余計に出てこない気がした。皆を祈らせているというプレッシャーもある。どうしよう、どうしよう、と焦りだした。すると余計に出てこない。
 しばらくすると、会衆の祈りが弱まった。疲れたようだ。溝田牧師が手を挙げた。
「皆さん、お祈り感謝します。キマジメ兄弟、どうですか? 何か感じましたか?」
 またマイクを差し向けられた。「あ、はい」
「何を感じましたか?」
「あの」キマジメくんは少し考えてから、「体が震えました。熱いものを感じました」
「ハレルヤ」牧師は天を仰ぐ。「皆さん、キマジメ兄弟に聖霊様が臨まれました」
 おおっ、という声が会衆から起こる。
「ただ、まだ異言を伴うところまで達していないようです。さらに聖霊様で充満する必要があります。キマジメ兄弟、今後も引き続き、聖霊様を求めて祈るように。今、あなたは聖霊様に満たされていますから、今がチャンスです」
 そう締めくくられて、キマジメくんは席に戻った。今のはいったい何だったんだろうか、と思う反面、自分の内側に、何か熱いものがあるようにも感じる。これが聖霊様の臨在なのだろうか。キマジメくんは歩いたり体を動かしたりしてはいけない気がした。もし動いたら、聖霊様の臨在が崩れてしまいそうな気がしたからだ。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年7月17日木曜日

クリスチャンと成長・その3

 現在、クリスチャンの「成長」について考えようとしたら、やはり「弟子訓練」「教会成長」あたりがキーワードになるようだ。もちろんプロテスタントの、福音派とか聖霊派とか呼ばれる教派だけの話だと思う(そうであってほしい)。

「弟子訓練」を取り入れている教会では、今日も「弟子」たちが絶対服従を求められ、過重な奉仕に従事し、「献金貧乏」に耐えている。真面目な信徒であればあるほど、そうなってしまう。
 そして「教会成長」の名のもと、たとえば「今年中に信徒数〇〇〇人」とか、「受洗者〇〇人」とか、「新会堂設立」とか、そういう具体的数値つきの目標が、掲示板等に大きく掲げられている。

「弟子訓練」にしても「教会成長」にしても、聖書から(一応)根拠を求めることができる。イエス・キリストは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言っているから、そこには何かしらの伝道努力が必要になるし、弟子の数が増えていくことも目標となるだろう。要はクリスチャンが増えることが御心であるなら、教会が大きくなることも御心である、ということだ。

 そういう観点で「弟子訓練」「教会成長」が語られると、なかなか反論できない。というかそれ自体には反論する余地がないように思う。だからこそ、それらは聖書的根拠とうまく融合することになる。信徒は仮に疑問を感じたとしても、「聖書に書いてあるから」という強力な理由の前に、口をつぐむことになる。あるいは積極的に賛同する大勢が、反対する少数を責めたてる、みたいな現象が起こる。

 しかし問題は、その解釈の仕方であり、やり方である。
 イエス・キリストが「弟子としなさい」の文脈で言っているのは、「バプテスマを授けること」「命じたことを守るように教えること」である(福音書から抜粋)。そして前々回に「成長」の文脈で提示した聖書箇所を見てみると、やはり「教える」「学ぶ」「知識を得る」ということが中心になっている。つまり新しくクリスチャンとなった人に必要なのは、一にも二にも「学ぶこと」だと、キリストは言っているのだ(それだけではないにしても、少なくともそれを抜くことはできない)。
 だから牧師の命じるままに働くこととか、一生懸命働いて献金することとか、そういうことの為にクリスチャンになるのではない。今年中に信徒数を倍にするとか、そういう数値目標を提示されてノルマ的に伝道させられるのが、クリスチャンの成長なのではない。
 なのに大切な教理を教えられず、いくつかの解釈があることも知らされず、教団教派の違いや歴史などまったく知らないまま、そういう教会活動にだけ駆り出され、忙殺されるクリスチャンがあまりに多いと思う。そこにこそ問題があるだろう。

 しかもそういう教会に限って、「教会成長」を言わない伝統的な教会(聖公会やルーテルなど)を指して、「頭でっかちだ」「古い」「真理がわかっていない」「もはや死に体だ」などと批判する。牧師がそう言うから信徒もそういうものだと思っている。まさにキリストが言う「目の中の梁」であろう。そういう優劣関係を競う思考自体が聖書の言う「謙遜」を大きく逸脱しているのだけれど、いかんせん、学んでいないからわからない。

追記)
 どこで聞いたか覚えていないけれど、こんなことを言うクリスチャンがいた。
「私の教会ほど霊性の高い教会って他にあるのかしら」
 もう苦笑するしかなかった。

2014年7月16日水曜日

クリスチャンと成長・その2

 昨今、「弟子訓練」によって訓練されるクリスチャンが(一部で)増えている。けれど、その「訓練」によって得られる成長は、聖書が言う成長とは違う、ということを前回書いた。
 今回はホームスクール、チャーチスクールでの「成長」について書きたい。特に後者についてだ。

 チャーチスクール推進派牧師に言わせると、チャーチスクールは、子どもたちの「霊的成長」にとって重要な位置を占めている。幼いうちから、日曜は教会、平日は教会が運営するスクール、土曜は教会奉仕、という具合に「教会三昧」で過ごすなら、子どもは目覚ましい霊的成長を遂げる、という。そこに家庭の協力もあって、たとえば家での「ディボーション」とか、見るテレビ番組とかが監督されるなら、子どもはまさに24時間「主の教育」漬けという訳だ。

 そういう徹底教育の結果、子どもたちはダニエルのような優秀さを身に着け、「この世」に大きなインパクトを与えられるようになる、そして彼らの世代が日本を変えていくのだ、というのが牧師の「ヴィジョン」だ。

 その是非は別として、この構造は前回書いた「弟子訓練」と同じだ。もちろんスクールだから教師と生徒という関係だけれど、実情は師弟関係である。師匠が弟子をみっちり訓練する。それも平日も週末も関係なく付きっきりになるから、時間量で言えば、一般社会人が受ける「弟子訓練」より圧倒的に長い。そこまで徹底するなら、一定の成果も得られるというものだ。逆に得られなければおかしいだろう。

 そういう状況下、児童期から少年期、そして青年期にかけて、子どもが成長していく。牧師や教師らはそれを見て、「霊的成長」を実感する。しかし冷静に考えてみれば、子どもは小学校から高校にかけて、かなり大きく成長するものだ。身体はもちろん、思考力も判断力も一人前になっていく。そのあたりは公立学校かチャーチスクールかの差なんて、ほとんどないだろう。
 そして思春期に入ると、誰でも人目を気にするようになる。自分がどう見られているか、どう振る舞うべきかと考えるようになる。チャーチスクールの生徒で言えば、どういう言行が信仰的に見られるか、どうすれば教師や親を満足させられるか、と少なからず考えるようになる。だから教師や親から見た「霊的成長」が、本当にその子の「霊的成長」なのかどうか、わからないはずだ。

 子どもを霊的に敏感に育てたい、と張り切る親がいるけれど、それにも同じことが言える。成長した子どもが見せる「霊的敏感さ」に、作為が含まれていないとどうして言えるだろうか。

 もちろん、すべての子どもがウソをついていると言いたいのではない。純粋に信仰に生きたいという子もいるだろう。しかし子どもにしても大人にしても、人の心とは、単純に白か黒かに分かれるものではない。誰もが正しい部分と、そうでない部分とを持っている。信仰的な人にも真実でない部分があるし、普段不信仰と見られる人にも真実な部分がある。

 それは人として当たり前のことだ。しかし、日曜は教会、平日はチャーチスクール、土曜も教会、家に帰れば親が聖書の話、という徹底した状況下で暮らすとなると、多くの子は自分の暗部をさらけ出すことができなくなる。それをひた隠して、立派な信仰の持ち主であるように見せようとする。そうしなければ、生きられないのだ。

 その結果、キリスト教界で生きていく分には不足のない青年へと、成長していくかもしれない。しかしその「成長」が人間として健全なものなのかどうかは、議論の余地があるだろうと思う。

2014年7月15日火曜日

クリスチャンと成長

 クリスチャンは「成長」しなければならない、と主張する牧師がいる。
 その根拠は創世記の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」とか、新約聖書の「完全におとなになって・・・」とかだ。
 だからクリスチャンなら、「成長」して立派な信仰者にならなければならない、成長しようとしないのは罪だ、などと言う。そして人間一人では成長できないので、師匠の指導とかが必要になる、ということで、「弟子訓練」なんかが始まっていく。
 つまりクリスチャンは牧師とかリーダーとかの下に「弟子入り」しなければならず、そこで何年も何十年も下積みし、晴れて「のれん分け」されるまでは自立できない、という訳だ。キリスト教はいつから職人みたいな徒弟制度になったのだろうか。

 ある教会グループなどは、「弟子訓練プログラム」なるものをマニュアル化している。一度見せてもらったことがあるけれど、けっこう分厚い本だった。それによると、「師」となる者は「弟子」のあらゆる情報を把握しておかなければならないようだ。たとえば仕事やら趣味やら誕生日やら、家族構成やら親戚関係やら、甥がいつ生まれたとか何だとか。そういうのを把握しておかないと、いざという時に適切なアドバイスや指導ができない、ということだろうか。そして一週間に一回とか二回とか、「師」と「弟子」が集まって、その本を進めていくという。内情はよくわからないけれど、大変ご苦労な世界である。

 未信者がこういう教会でクリスチャンになってしまうと、キリスト教を「そういうもんだ」と思ってしまう。だから疑問に思うことがない。そもそも成長ってなんだ、とも思わない。だからやはり、教える者の責任は大きい。

「成長」の聖書的根拠を見てみる。まずは旧約聖書の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」である。これは単に子孫繁栄を言っているだけだ。成長とは関係ない。あるとしたら、それは身体の自然な発育のことである。そして人間は気合を入れて頑張らなくても、身体はかってに成長していく。そして子孫を残せるようになる。そもそも努力など必要ない。

 次に新約聖書である。「成長」について書いている代表的箇所を挙げると、第2テモテ3章16~17節、第2ペテロ3章18節、エペソ4章13節であろう。しかしそれが支持するのは聖書の有益性であり、キリストの関する知識についてである。牧師の下で訓練を受けろとか、弟子の個人情報を全て覚えろとか、教会独自の課題をこなせとか、そういう努力で獲得する種類のものではない。そうでなく「恵み」として「成長」することを聖書は言っている。努力して、汗水流して師匠に仕えて成長しなければならないというのは、単なる律法主義である。
 だからそれがクリスチャンの成長だとか信じている人がいるとしたら、早々に目を覚ました方が良いと私は思う。

 もちろん牧師の為に仕えるとか、理不尽なことに我慢して働くとかいうことを通しても、人は「成長」するだろう。忍耐力がつくとか、空気を読めるようになるとか、上司の機嫌を損ねない方法を知るとか、そういう種類の成長だ。そういう成長を望むならあえて止めはしない。けれど、それが聖書の言う成長とは全く何の関係もないということは、ちゃんと知っておくべきだ

2014年7月14日月曜日

教会生活をして良かったこと

 珍しくポジティブなことを書こうと思う。表題通り「教会生活をして良かったこと」。
 ちなみにこれはクリスチャンとしての「成長」とか、教会の発展とか、そういうこととは全然関係ない。いわゆる教会生活の(信仰面の)恵み」について知りたい人には、役に立たない記事である。
 
 教会生活をする大きなメリットに、「コミュニティへの所属」があると思う。
 普通、人は何らかのコミュニティに属している。たとえば児童なら学校、大人なら職場、主婦なら近所のママ友サークル、高齢者なら地域活動とか、医療・福祉施設を介した集まりとかだ。複数のコミュニティにまたがる人もいると思う。それらのコミュニティに属することで、私たちは少なからず恩恵を受けている。いろいろな知恵とか、口コミ情報とか、実際的なサポートとかだ(同時に面倒なしがらみに縛られるという側面もある)。

 けれどそれらのコミュニティは概して、同種の人間の集まりである。学生どうし、会社員どうし、主婦どうしで集まっている。そうなると扱われる情報もそれぞれ限定的になる。世代とか性別とか、そのグループの特徴や必要に合ったものにどうしても偏る。たとえば小学生が近所のスーパーの特売情報を知っている訳がないし、高齢者が携帯ゲームの攻略法に詳しい訳がない(一般的には、だ)。それに、そういうコミュニティ内で人々が率先して、相手の利益を図るかというと、そうでもない。
 
 それに比べて、教会は老若男女問わず集まるコミュニティである(例外的に若者ばかりの教会もあるけれど)。だからいろいろな種類の知恵や情報や援助が、相互に提供され得る。たとえば裁縫の得意なおばあちゃんに子どものズボンの裾を直してもらうとか、同じ子育て家庭から「お古」の服を譲ってもらうとか、若い人にパソコンの設定をしてもらうとか、田舎から届いた新米を分けてもらうとか、まあ挙げればキリがない。それに「神の家族」という前提もあるから、より親密になり得るし、率先して助け合おうともする。そしてその恩恵は案外大きい。専門職がいればその分野の相談もできるし、普通なら知り得ないことを知る機会もある。仕事探しにおいても、役立つことがあるだろう(もっとも、教会員の数によってその恩恵は違ってくるけれど)。
 
 現代日本はマンション住まいの人も多く、近隣との付き合いがまったくないという人も少なくない。地域住民どうしの助け合いも、昔に比べて少なくなった(都市部では特に)。
 だから、教会だからこその全年齢的・相互援助的コミュニティは、他を探してもなかなか見つからないように思う。江戸時代あたりの村社会ならあったかもしれないけれど、現代日本においては稀ではないだろうか。ちょっと思いつかない。
 
 少し話が飛ぶけれど、そういうコミュニティへの所属という意味あいで、什一献金を捉えているクリスチャンはいると思う。コミュニティへの、いわゆる「会費」みたいなものだ。 もちろんそれで什一が肯定される訳ではないし、そもそも信仰とは関係ないし、什一として捧げるとしたら動機が不純だけれど、その心情自体は、私はよく理解できる。今振り返ってみると、私も教会員だからこそ受けられたメリットは少なくなかったな、と思う。
 もちろん直接的な関係はないけれど、そういう恩恵の対価として、什一献金を捧げるという考え方はあるだろう(当然ながら、それは聖書とも信仰とも関係ない)。
 
 という訳で、教会生活をするメリットというのはある。集う教会やメンバー構成によってずいぶん事情が異なると思うけれど。
 
 この教会コミュニティは、大きな可能性を秘めていると私は思う。たとえば現代日本で問題となっている介護問題や育児問題、貧困問題に対する一定の答えを、提供できるという可能性だ。介護の手や育児の手、経済的支援などを必要とする人々が教会にいたら、メンバー全員でなら、その必要を少しは満たすことができるかもしれない。そしてそういう教会が沢山あったら、日本はもっと住みやすくなるかもしれない。と思う。
 
 それは信仰とは関係ない、教会をそういうことに使うのは動機が不純だ、という意見があるかもしれない。けれど教会とは、そもそも困っている人を助ける為にこそ存在しているのではないだろうか

2014年7月13日日曜日

それは神の罰なのか・その3

 福島第一原発の事故を「神の罰」と表現した牧師の話をしたけれど、同様の話は日本にもある。たとえば数年前、ある日本人牧師が使命に燃えてこう言っていた。「アメリカに裁きの火が降るから、行って悔い改めに導かなければならない
 その牧師は本当にアメリカに行って、ある教会を訪問した。出発する前に「アメリカの為に」とか泣きながら祈っていた。けれど記録を見る限り、現地でやったことと言えば、教会訪問とかプレイヤーウォークとか観光とかだったようだ。単にアメリカ旅行がしたかっただけではないか、と思えてならない。

 その後、結局アメリカに火が降ることはなかった。それは牧師に言わせれば「私が言って語ったからだ」となる。いわゆる「ヨナ気取り」で、神の罰が回避されたという訳だ。けれどそんなことを言い出したらキリがない。今日もどこかの誰かの犠牲によって、世界が救われたかもしれない。突然電話がかかってきて、「あなたが今日無事でいられるのは自分のおかげだ、だから感謝してもらおう」とか言われたら、どうするだろうか。普通なら受話器を置くだろう。
 それに、ヨナはニネベの町を一日歩き回って、悔い改めのメッセージを民衆に語ったのである。教会訪問とか、プレイヤーウォークとか、観光とかをしたのではない。また、ニネベ中がそれを真剣に受け止めて、悔い改めたのである。ここ数年間で、アメリカ国民が総出で悔い改めて祈ったという話があっただろうか。

 前回、「神の罰」を持ち出す背景にはある集団や個人への敵対心がある、と書いた。けれど上記の日本人牧師のケースで言うと、単に私利私欲の為に「神の罰」を利用したに過ぎない。あるいは小さな承認欲求を満たす為に。敵対心の方が、まだ論じ甲斐があるというものだ。

 自然災害や事故を取り上げて「神の罰だ」と言うのは聖書的でない、と既に書いてきた。けれど一方で、神の罰、神の怒り、神の裁きというものは確かに存在する。黙示録の「最後の審判」の記述もそれを支持している。他の箇所でも、ニセ預言者やニセ教師に「すみやかな滅び」があると言っている。
 だから上記のような「神の罰」利用牧師にも、すみやかな裁きがあるだろう。現にそのような話が世界のあちこちから聞こえてくる。被害者にとってそれは必ずしも「すみやか」とは言えないだろうけれど。
 しかし一方で、彼らニセ教師が罰せられるのを私たちが願うのも違うと思う。彼らが罰せられた時、「ほら、やっぱり罰が下った。悔い改めなさい」と言ってしまったら、私たちもまた「神の罰」を利用することになるからだ。

2014年7月12日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第37話

 翌日の日曜日、キマジメくんは早めに教会に行った。うまくすれば溝田牧師に祈ってもらえると思ったからだ。会堂にはまだ誰もいなかった。けれど、牧師室から話し声が聞こえる。キマジメくんは思い切ってノックしてみた。意外に快活な牧師の声が、すぐに返ってきた。「どうぞ」
 ドアを開けると女性がいた。教会スタッフのサトリコ姉妹だ。溝田牧師と向かい合って、何やら話していたようだ。溝田牧師は話を中断して、キマジメくんを見た。「おはよう、ずいぶん早いね」
 牧師にそう言われ、キマジメくんは事情を話した。一週間祈ってみたことと、やはり油注がれた人に祈ってほしいこととだ。
「なるほど、聖霊のバプテスマの為にね」牧師は言う。「それは大切なことだよ。やはり油注ぎのある牧師に祈られることで、油注ぎが解放されるということはあるからね。サトリコ姉妹はどう思う?」
「はい」姉妹は静かな声で言う。「油注ぎの継承ですね。エリヤとエリシャに見られる現象です。エリヤに注がれた油注ぎが、エリシャにも注がれました。また世代を越えて、バプテスマのヨハネにも同じ油注ぎが下ったとあります。だから按手の祈りによって、同様の油注ぎ、聖霊の賜物が継承されると考えられます」
 サトリコ姉妹を間近に見る機会は今までなかったけれど、こうして見ると、いかにも聡明な印象を受ける。端正な顔立ちに、高い知性を感じる。学生時代はきっと成績トップだったに違いない。何をやっても卒なくこなせそうだ。
「私も同感だね」牧師は満足そうに頷く。「じゃあどうだろう、礼拝の中で祈ってみようか」
「え、礼拝でですか?」とキマジメくん。
「いいと思います」
 すかさずサトリコ姉妹が言う。「礼拝は霊的な事柄の場所ですから、先生の油注ぎも増すでしょう。そこで祈れば、より強く聖霊様が臨まれます。聖霊のバプテスマを越えて、火のバプテスマさえ注がれるかもしれません」
「ほほう、火のバプテスマね。サトリコ姉妹、火のバプテスマは、私でさえまだ受けていない奥義だよ」溝田牧師は唇をすぼめて言う。「まあいい。じゃあキマジメくん、そういうことで。礼拝の中で祈ることにしよう」
「はい、よろしくお願いします」キマジメくんはそう言う他なかった。
 退室しようとしたところで、牧師に呼び止められた。「そうだ、キマジメくん」
「はい」
「まあ礼拝でみんなに言うことなんだけれど、このサトリコ姉妹が今回正式に、ウチの伝道師になることになったんだよ。主の強い導きと、本人の希望もあってね。それで礼拝の中で、彼女に按手するから。それで今後は、私が直々に弟子訓練することになるから、よろしくね」
 自分に関係あることかと思って聞いていたら全然関係なかったので、キマジメくんは曖昧に返事をするしかなかった。
 
 会堂でしばらく待っていると、賛美奉仕の若者たちが一人二人とやって来た。そして礼拝の始まるちょうど2時間前に全員が揃って、賛美の練習を始めた。
 そのうち溝田牧師が入ってきて、例のリハーサルが始まった。牧師が鋭い眼光で見守る中、司会の子が緊張気味にリードし、一曲目の賛美を始める。しかしすぐに牧師のストップがかかった。「ちょっと、マイク持ってきて」
 音響係の子が足早にワイヤレスマイクを持ってくる。牧師はそれを掴むと、さっそくいつもの「訓練」を始めた。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年7月11日金曜日

それは神の罰なのか・その2

 前回書かなかったけれど、東日本大震災の惨禍は地震と津波でけでなく、福島の第一原子力発電所の事故もあった。
 放射線量の高い地域の住人は現在も避難生活を続けており、汚染冷却水の問題は未だ解決されたとは言えない。既に3年が経過しているけれど。

 この原発事故を指して「神の罰だ」という輩がいるけれど、それに対する違和感は前回書いた通りだ。その考え方は、新約聖書がいう「新しい契約」を反故にしてしまう。
 それに、「これは神の罰だ。だから日本は悔い改めなさい」という意見はもっともらく聞こえるけれど、そもそも順番がおかしい。神の罰が下る前に悔い改めなさい、というのが聖書のメッセージであって、罰があってからでは悔い改めても遅い。死んでしまっては、悔い改めることもできないからだ。罰とは、許されないから加えられるものだ。罰が加えられてからでは、許されるも何もない

 くわえて、こういう悲劇を全て「神の罰」に結びつけるなら、自然災害も大事故も、人為的な災難も、全て「神の罰」ということになる。だったら世界は神の罰だらけではないか。世界のあちこちでムチを振るい続ける無慈悲な「神」が、クリスチャンが信じる神なのだろうか。
 あるいは「これは神の罰」「これは偶発的なこと」などという明確な判断基準でもあるのだろうか。あったとしても、それはただの主観でしかないのではないだろうか。

 こういうふうに「神の罰だ」を持ち出す輩の背景には、その団体なり個人なりへの敵意があるのではないかと思う。憎らしい、許し難い相手に起こった悲劇を見て、「ほら、やっぱり罰が下った」というような心理だ。そのくせ自分たちに同様の悲劇が下ると、「神よ、何故ですか。私たちが何をしたというのですか」と、まるで神が不当なことでもしたかのように不満を並べる。
 それは自己中心というものだ。あるいは神の名を都合よく利用しているだけだ。

 東日本大震災の後、多くの国から、日本に支援の手が差し伸べられた。実際に来日してボランティア活動をしてくれた人も大勢いた。前述の「原発は神の罰だ」発言をした牧師の国からも、多くの若者が来てくれた。彼らはみな純粋に、多くの犠牲を払って、すすんで日本の為に働いてくれた。
 だからどの国が問題たとか、どの団体が問題たとか、そういうことではない、ということは付け加えておく。


2014年7月10日木曜日

それは神の罰なのか

「神の罰」という表現がある。
 2011年の東日本大震災の時、これは日本に対する神の罰だ、とある有名な「大牧師先生」がコメントして物議を醸した。日本の不信仰と犯してきた罪の累積の結果、大地震と大津波という形で神の怒りが下ったのだ、という。
 私は当時被災地を行ったり来たりしていて、東京に戻った時にそのコメントについて知った。被災者の方々を前にしても同じことが言えるのか、と疑問に思ったものだ。
 聖書をみると、神に罰せられた、という人が少なからず出てくる(新約より旧約が圧倒的に多い)。出エジプト記などはその典型例集みたいなものだろう。実に多くの人々が罰せられ、命を落としている。罪を犯した為、神の怒りを受けた、というのがその基本パターンだと思われる。
 聖書は私たちにとって教訓でもある。だから神の罰を受けた人々は、反面教師としても提示されているのだと思う。だから私たちは神を恐れて、彼らに倣わないよう、生きるべきだろう。
 それはそれとして、東日本大震災は神の罰だったのだろうか。
 同じような話は他にもある。たとえばBSE(狂牛病)の発生は、飼育の効率化を図って餌に「肉骨粉」を混ぜたことに原因している。本来草しか食べない牛に、羊など数種の動物の骨や肉を食べさせ、手っ取り早く成長させようとした。その結果、牛が狂牛病に感染し、その牛を食べた人間がクロイツフェルト・ヤコブ病(難病)に感染してしまった。自然の摂理に反した報いだ、神の罰だ、という意見が出た。
 確かに、してはならないことをした、というのは事実だろう。食べたくもない羊や馬の肉や骨を食べさせられた訳だから、牛にしてみれば可哀想な話である。これは人間に例えるなら、死んだ人間の肉骨粉を密かに混ぜた食事を食べさせられた、みたいなものだ。そりゃあバチも当たる気がする。
 けれど、人間が⭕⭕したから罰を加える、というのは、新約聖書の神のイメージに反している気がする。それは人間社会では当たり前のことで、因果応報という言葉もある通り、悪さをしたら相応の報いを受けなければならない。けれど、それとまったく同じルールを、神と人間との関係に適用していいものだろうか。
 もし適用するとしたら、神は人間を許さない、ということになってしまう。罰とは、罪を許す代わりに与えるものだからだ。罰なしに、信じただけで罪を許すのが新約聖書の教えだったはずだ。
 このあたりは微妙な問題で、じゃあ何をしても許されるのか、カルト化牧師も一言謝れば全部帳消しにされるのか、みたいな話も出てくる。しかし、それは例としては極端すぎる。
 私は神が愛であると信じている。だから神が自ら進んで人間を罰してやろうと、罪を犯すのを絶えず監視している、みたいな風には思えない。逆に人間が不利益を被らないように、事前に(聖書を通して)警告を発しておられるのではないかと思う。
 たとえば前述のBSE問題について、私は「子やぎをその母の乳で煮てはならない」という箇所を思い出す。家畜も大切に、愛をもって扱うべきだ、という意味だろう。それをしないと大変なことが起こると、神はあらかじめ警告していたのではないだろうか。
 東日本大震災がなぜ起こったのか、なぜあんな悲劇があり得るのか、わからない。世界中で、今も沢山の悲劇が起きている。その理由はおそらく誰にもわからない。けれど少なくとも、「神の罰だ」とか軽々しく言ってはならないと思う。それは神を貶め、神のイメージを覆す行為だ。
 あの震災の被災地を前にした時、私はまったく言葉が出なかった。被災された方々にかける言葉がなかった。けれど胸のうちで、それでも神は愛なのだ、と信じたかった。今もそう信じたい。

2014年7月9日水曜日

新来者の迎え方について思うこと・その3

前回のまとめ
 新来者の歓迎の仕方を、信徒に教育する牧師がいる。良質な歓迎が徹底されるよう、厳しく指導する。新来者が定着しないと、責任問題になることもある。
 結果、信徒は新来者よりも「歓迎の行為」を重要視するようになる。そして「歓迎自慢」に走るようになる。
 以上、前回のまとめ。
 
 そういう牧師に言わせると、真に新来者を導くのは、「礼拝」そのものだそうだ。「礼拝そのものが人を導く」と、力説するのを聞いたことがある。
 神について何も知らない未信者でも、「本物の礼拝」に参加するなら、神の偉大さや愛が超自然的に啓示され、感動し、自ずと神を信じるようになる、という。つまり神ご自身がその人を導く、だから教会は本物の礼拝を捧げていさえすればいい、という訳だ。

 だったら歓迎にそんなに力を入れる必要があるのか、礼拝だけして新来者は放っておけばいいのではないか、という話になる気がする。まあそこは置いておくとして、「本物の礼拝」とは何か、について考えたい。
 
 まずそういう牧師の言う「本物の礼拝」は、啓示に満ちているそうだ。それも未信者がいきなり神を信じてしまう程、明確で衝撃的な啓示らしい。罪が示されたり、それを許す神の愛が示されたり、というようなことであろう。
 次に感動があるという。しかしそういう神の啓示を受けたら、大抵の人は感動するだろう。たとえば大変な苦労をしてきた人が、初めて行った教会で、「あなたは今まで本当に苦労してきましたね」とか言われたら、そりゃあ感動するだろうし、「なぜ自分のことがわかるんだ? やはりこれが神様なのか!」とかいう反応にもなるだろう(それは単純な占いの手法だけれど)。
 そしてそういう「啓示」と「感動」を経て、入信へと至る人もいる(そういう入り方が悪いかどうかという話ではない)。
 なるほど、確かに礼拝が人を「導いて」いる。
 
 けれどそういうスタンスで礼拝を考えていくと、毎週毎週「啓示」と「感動」がなければならない、でなければ不信仰だ、みたいな話になる。だから賛美礼拝を盛り上げる為に楽器の音を大きくしたり、いたずらに長く賛美することで人工的な恍惚状態に持っていったりする。また説教の「つかみ」に笑いを存分に入れ、最後は感動話で大いに泣かせるといった「ドラマチックなメッセージ」を演出しようとする。祈りの中で「神はこう言われる」を連発したり、個人預言で一人一人に「神の言葉」を聞かせたりして、霊的な事象が満ち溢れているように見せようとする。そういうことで神様が礼拝にダイレクトに働いているような、不思議な力が満ちているような、楽しみと喜びと感動に溢れているような、そんな感覚を作ろうとする。それで「この教会の礼拝は生き生きしている」「神のいのちに溢れている」とかいう評価を得る。そのほとんどが人工物であるにもかかわらず。
 
 こういう礼拝は受けが良く、「事情通」のクリスチャンらはこぞって「今日も恵まれました」とか言う。だから更にそういう方向に流れてしまう。
 
 しかしそういう教会(牧師)が注目するのは礼拝が盛り上がるかどうか、楽しいかどうか、感動的かどうか、といった点に尽きる。つまり礼拝という行為と、それが人々に与える影響の方が大切なのであって、礼拝対象であるべき神様をそっちのけにしている。
 新来者を心から歓迎することより「歓迎している自分」に酔うのと同じで、神様を心から礼拝するより、「礼拝で盛り上がっている自分」に酔っているのだ。いずれにせよ、本末転倒である。
 
 そういう礼拝が本当に「本物の礼拝」なのかどうか、考えてみれば答えは明白であろう。
 結局のところ、新来者も神様も大切にできない教会。それは本当に教会なのだろうか、と私は疑問に思う。

2014年7月7日月曜日

新来者の迎え方について思うこと・その2

 新来者の迎え方として、過剰な歓迎はかえって迷惑であるばかりか、その後育む信仰にも悪影響を及ぼしかねない、というようなことを前回書いた。
 今回は、歓迎する側である信徒について書きたい。
 
 新来者の迎え方について、信徒を教育する教会がある。新来者には必ず笑顔で挨拶しなさいとか、その年齢性別に合った信徒が最初に対応しなさいとか、ある程度の情報を聞き出してから牧師に紹介しなさいとか、まあイロイロ言われる。それを受付の奉仕者だけでなく、主要な教会員はもれなく受けなければならない。そしてそういう歓迎を徹底するため、全信徒に、順番に受付の奉仕をさせる、というところもある。
 
 そういう教会は、いつも一様な歓迎が受けられるという点で、新来者には良いかもしれない。どの信徒も笑顔で挨拶してくれるから、居心地もいいだろう。信徒によって対応がバラバラで、ある人は熱烈、ある人は完全無視、みたいな教会に比べて、最初の一歩は踏みやすいのではないかと思う。
 
 そういう教会の牧師に言わせると、クリスチャンが新来者をあたたかく迎え入れ、信仰に導くことは、当然の義務ということになる。それはそれでわからないではない。新来者が隣でソワソワしているのに知らん顔、みたいなクリスチャンを見ると、聖書の教えはどこに行ったのかと思わなくもない。

 しかし、そういう牧師のもとだと、歓迎もうまくやらなければならない。新来者が二度と来なかったり、来たり来なかったりでなかなか「育たない」状況にあったりするなら、最初に歓迎した人間の責任にされかねない。明言されなくても、そういう雰囲気があったりする。場合によっては「未信者が救われる機会をみすみす逃した」などど、大重罪でも犯したみたいに言われかねない。
 
 だから信徒たちは歓迎一つにも必死だ。粗相があってはならない、上手にエスコートして気持ちよく過ごしてもらわねばならない、みたいな心理になる。歓迎がテクニカルになり、方法論になり、果ては取引先の重役を接待する会社員みたいな有り様になる。それは牧師に言わせると「ハイクオリティなクリスチャン」なのだそうだけれど。(これは「歓迎の強制」みたいな状態と言える)
 
 またその状態が進むと、こんどは信徒間で、歓迎の仕方の優劣を競う水面下の競争みたいなことも起こる。私はこんな風に歓迎できる、こんな接待ができる、と何気なく披露しておいて、誉められると「いえいえ、主の栄光です」みたいなことを言う。もちろん、皆が皆そんなんではないだろうけれど。(これは「歓迎自慢」とも言うべき状態だ)
 
 ここまでくると、本来歓迎されるべき新来者は、完全に「置いてけぼり」である。もちろん新来者本人はそんなこと気づかない。すごい歓迎だと感激さえするかもしれない。しかし「歓迎の強制」にしても「歓迎自慢」にしても、動機が間違っているのは言うまでもない。
 
 繰り返しになるが、この状態は新来者には「良い歓迎」であり、「良い教会」なのである。しかし、もうおわかりの通り、それが必ずしも「良い教会」とは限らない。

新来者の迎え方について思うこと

 教会を訪れた新来者をどう迎えるかは、教会によってマチマチだろうと思う。えらく熱烈な歓迎をしてくれるところから、事務的に受け入れてくれるところまで、まさにピンキリだろう。
 しかし「ピンキリ」と言ってもこの場合、ピンが悪く、キリが良いということにはならない。つまり熱烈だから嬉しいとか、事務的だから寂しいとか、そういう単純な話ではない。

 私は通っていた教会がなくなってしまった為、しばらく教会探しというか、教会巡りというか、そういうことをしていた時期がある。それで教会のイロイロな歓迎の仕方を体験させてもらったのだけれど、やはりイロイロだった。けれど、一概のどれが良くてどれが良くないかは言えない。

 教会の牧師さんのブログ等で、「新来者をどう迎えるか」真剣に考えておられる記事を拝見することがある。新来者にどう挨拶するか、どう紹介するかと悩んでおられたり、聖書や賛美歌集は奇麗なものを渡したいとか、どの席に誘導したらいいかとか、考えておられたりする。教会内で話し合ったりもしているようだ。
 しかしおそらく、新来者を迎える「決め手」みたいな方法はないだろう。新来者と言っても背景はイロイロで、まったく初めての方もいれば、長年のクリスチャンもいるし、初めての方でも真剣に悩んでいる人もいれば、ちょっと興味があって入ってみただけという人もいる。そういう全ての人を一様に満足させる方法など、存在しないだろうと思う。

 しかしこれはさほど難しい話でなく、ただ笑顔で迎えてくれればそれでいいのではないかと、私などは思う。やたら熱心に歓迎してくれなくていいし、細かいことまで気を遣ってくれなくていい。逆に日本人なら、隅の方で放っておかれるくらいが丁度いいのかなと思う。これはもちろん私感だけれど。

 新来者をどう迎えるべきか、教会内で話し合うのは、良いことだ。教会はやはり少しずつでも人が増えることが目的な訳だし、その為には新来者が継続的にあって、定着していくことが必要だからだ。しかしその場合、教会歴の長い人たちが、教会に初めて来る人の気持ちをどれだけ想像できるかが重要になってくる。
 たとえばあまりに熱烈に歓迎され、大勢と握手させられたりハグさせられたり、皆の前でマイクを持たされて自己紹介させられたり、いきなり囲まれて祈られたりと、新来者にとってかなりハードルの高い「歓迎」を強いる教会がある(良かれと思ってのことだろうけれど)。
 それはそれで「良い」「嬉しい」「あったかい」と思う人がいるかもしれない。けれど、日本人においてはそう多くはない気がする。

 それにあまりに熱烈で「愛に溢れた」歓迎は、新興宗教的な「ラブシャワー」効果にもつながる。つまりその教会の本質というか、福音の本質を知って神につながっていくというより、自分を歓迎してくれる人々につながっていき、それが信仰だと勘違いしてしまうことが起こり得る。

 だから前述したように、新来者は基本的に放っておかれ、困った時に声をかけられるくらいが丁度いいと私は思う。もちろん信仰の先輩に助けられる必要はあるだろう。けれど、それは手取り足取り教えられたり、何でもやってもらえたり、代わりに決断してもらったりして、誰かに依存するようになることとは違う。

2014年7月5日土曜日

什一献金について思うこと・その3

 什一献金について書いたところ、沢山のコメントをいただいた。私個人の意見はともかく、それだけ関心の高いトピックなのだと思われる。
 おもしろかったのは、什一献金「肯定」のコメントが一つもなかったことだ。私の周囲には、什一献金を「当たり前」とする人が多いので、「什一献金って本当に聖書的なんですか」なんてとてもじゃないが聞けない(相手にもよるが)。だから什一献金否定のコメントを複数いただけて、やっぱりキリスト教界といってもイロイロなんだなと思えた。長く什一を捧げてきた私が今になってこういう疑問を抱いたのも、決して間違いではなかったと思えた。
 ちなみに私のまわりの什一献金肯定クリスチャンは、皆いい人ばかりだと付け加えておく。
 いただいたコメントにもあったけれど、什一献金を義務化していることを堂々と教会HPに載せるべきだ、というアイディアは、それはそれで必要なことかもしれない。初めて教会に行き、そういうことを何も知らないで信徒になった人には、「什一のお知らせ」はちょっとした衝撃だろうからだ(ちなみに私はこの口だった)。
 けれど什一献金に限らず、キリスト教教理や聖書解釈や、その他の習慣的・文化的側面は、教会(教団教派)によってそれぞれ違うだろう。たとえば洗礼は浸礼であるべきだとか、聖霊の働きをどう捉えるかとか、異言を認めるかどうかとか、同性愛嗜好をどう捉えるかとか。微々たる違いもあるけれど、中には到底相容れない違いもあるだろう。そして相容れない違いの中には、この什一献金もあると思われる。
 ところで什一献金肯定教会は、大雑把に言って2種類あると思う。
 1つは牧師が故意的に、ある程度の悪意をもって、什一献金を利用しようとする体制の教会だ。什一が必ずしも聖書的とは言えない点(旧約にしかその根拠がないとか)をあえて伏せ、いかにも聖書的なこと、神が当然求めていること、しないのは明らかに不信仰なことだと什一献金を位置付けている。これは什一の是非以前に問題のある教会だ。
 もう1つは、牧師の権限がそこまで大きくない教会で、多くの主要な教会員らが、什一献金を聖書的と信じて忠実に行っているところだ。こういう教会は、什一を義務とかでなく(実際には義務的なのだけれど)、より自然に、捧げるものだと認識している。
 什一献金の是非について論じ得るのは、この後者のタイプの教会であろう(以降はこのタイプに限定して書く)。
 ある教会の信徒は、その教会のやり方に多分に同意しているからこそ、信徒であるのだろう。だから異言にしても聖霊の働きにしても什一献金にしても、その信徒からすると全て「当然」のことであって、何ら疑念を挟む種類のものではない。だから自分たちの教会を紹介しようとする時、いちいち「什一やってます」などと断る必要性を(彼らは)感じないだろう。なぜなら彼らにとって、キリスト教信仰とはそういうものだからだ。もし「什一やってます」と断るなら、「洗礼についてはこうです」「聖霊についてはこうです」「異言についてはこうです」とか、いちいち断らなければならないのか、という話になると思う(また、什一などはその教会のメンバーシップに入ってはじめて発生するものであって、新来者にいきない払わせる種類のものではない、という事情もあるだろう)。
 もちろん金銭については別だ、という意見もあるだろうけれど、繰り返しになるが、什一献金肯定派にとって、キリスト教信仰とはそういうものなのだ。神を信じるなら捧げる、信じないなら捧げない、という原理のもとにある。だから彼らには「捧げない=神を信じていない=本当にクリスチャンなのか」というような図式になると思う。
 これはもちろん什一肯定派にとってそうだというだけの話で、そうしない人はクリスチャンではない、という話ではもちろんない。
 私がこの問題でどっちつかずの態度を取っているのは、最初の記事で書いている通り、今のところ判断しかねているからだ(というのも、什一を捧げる教会、捧げない教会とも確かに存在している)。それに什一献金をしているから立派なクリスチャン、あるいは什一献金を否定しているからまともなクリスチャン、とかいう評価もすべきでないと思っている。ただ2つめの記事で書いた通り、「心に決めた通り」にするよう聖書は勧めている訳だから、それでいいのではないかな、と思っている。つまり信じて什一を捧げるのも信仰の結果だし、信じて什一を捧げないのも信仰の結果であって、いずれにせよ信仰から出るものを、神様は祝福される、ということだ。
 くわえて、什一献金肯定派の教会は、もうそれがシステムとなっている。教会会計の主要な収入ともなっている。だからここへきて什一をやめろと言うのは、教会をやめろと言うのに近い。「そんな間違った信仰の教会はなくなるべきだ」と反対派は言うかもしれない。けれど、その教会が福音を最低限正しく伝えていて、それで救われる人がいるのなら、その教会をなくそうとすることは、神に対立するのと同じことではないだろうか。
 もちろん、牧師が私服を肥やそうとして什一を利用している、前者の教会はまったく別の話になる。そういう教会には上記の話はそもそも当てはまらない、ということを断っておく。

2014年7月4日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第36話

 家に帰ったキマジメくんは、さっそく「聖霊のバプテスマ」を求めて祈り始めた。机に向かい、聖書を開き、目を閉じた。しかしすぐに行き詰まってしまった。「聖霊のバプテスマを与えて下さい」と祈る以外、何を祈ったらいいか、わからなかったからだ。

 とりあえず、聖書を読んでみた。聖霊のバプテスマと言えば「使徒の働き」2章だろう。他にも福音書の関連箇所とか、パウロが異言について書いている書簡とか、探して読んでみた。
 聖書を読んでいると、なんだか霊的になれた気がする(実は「霊的」がどんな状態なのかもよくわかっていなかったけれど)。とにかく、聖書を読んでいれば間違いないはずだった。

 しかし結局のところ、聖書を読んでいてもバプテスマの兆しは何もない。「求めなさい」と書かれているから、やはり祈って求めるのが正攻法なのだろう。
 同じことを繰り返し祈っても意味がない気がする。しかし一方で、諦めずに求め続けるのも大切な気がする。いずれにせよ、「聖霊のバプテスマ」がどのような感覚で与えられるものなのか、全くわからない。何を待てばいいのかわからない。あるいは聖書にある通り、突然炎のようなものが下ってきて、異言が溢れるのだろうか。教会の人たちはどのようにして与えられたのだろうか。
 キマジメくんは早々に頓挫してしまった。
 それより、今週中に仕上げなければならないポスターとか、たまっている雑務とかが気になる。時間を無駄にできない。祈りに進展がないなら、教会の奉仕を優先してもいいはずだ。そう自分に言い聞かせると、キマジメくんは聖書をどかし、ノートパソコンを開いた。

 それから一週間、時間を見つけては、聖霊を求めて祈った。聖書の同じ箇所を繰り返し読み、黙想し、何か起こるかと待ってみた。しかし毎回何も起こらなかった。次第に、何か間違っているのではないかと思えてきた。聖霊を求める「手順」みたいなものがあって、それに即してやらないとダメなのではないか。求めるだけで与えられるなら、とっくに与えられている気がする。
 これはやはり経験者に聞くしかない。経験者ならどうすべきかわかるはずだ。キマジメくんは何人かの教会員の顔を思い浮かべた。誰に聞いたらいいだろう。とりあえず一番聞きやすい、ノンビリ兄弟に電話することにした。

「聖霊様ね、それはひたすら祈り求めることだよ」
 ノンビリ兄弟は即答した。「大丈夫だよ、キマジメくん。神様は求める者に惜しみなく聖霊様を与えて下さるよ。ただ、個人個人で導かれ方が違うからね。早い人もいれば、時間がかかる人もいると思うよ。でも、求めてさえいれば大丈夫、道は必ず開かれるよ」
 キマジメくんはすがりつくように尋ねる。「あの、どういう感じで与えられるんですか?」
「そうねえ、それも人それぞれだと思うけど、なんかこう、腹の底から何かが沸き上がってくるような、止めようにも止められないような、そんな感じが多いって聞くよね」
「ノンビリ兄弟はどうだったんですか?」
「僕? 僕はねえ、溝田先生に特別に祈ってもらっている時に、自然と出てきたかな。やっぱり僕も聖霊のバプテスマを求めている時だったよ」
「溝田先生に、ですか」
「うん。やっぱり、油注ぎのある人に祈ってもらうのは違うよ。神様がその人を通してダイレクトに働かれるって言うかね。やっぱり霊的権威っていうのはあるんだろうね」
「はあ・・・」
 やはり自分ひとりでは難しいのだろうか。溝田牧師に祈ってもらうのが手っ取り早い気がする。
 幸い、明日は日曜日だ。礼拝の後、溝田牧師に相談すれば、祈ってもらえるかもしれない。

 ところで「油注ぎ」というのも馴染みのない言葉だった。時々礼拝のメッセージで出てくるけれど、よく意味がわからなかった。とにかく信仰に進んだ人に与えられるものだろうと想像できた。溝田牧師にあって自分にないもの、強さとか大胆さとか、力強い祈りとか、奇蹟とか癒しとか、そういうものの根源がきっと「油注ぎ」なのだろうと思えた。
 そして教会に献身しようとする自分には、絶対に必要なものだろうと思えた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年7月2日水曜日

2014年上半期を終えて

 早いもので、2014年も半分終わりました。今日は7月2日、後半戦の2日目です。

 一年の計は元旦にあり、という言葉は最近あまり聞かれなくなりました。けれど、今年の初め(あるいは4月とか)に目標や計画を立てたり、何か新しいことを始めたという人は少なくないと思います。進学や就職で、必然的に新しい環境になったという人もいるでしょう。
 かくいう私も、今年から通信制の大学で勉強を始めました。今も細々と続けています。

 新しいことを始めたり、目標を立てて進んだりするのは良いことだ私は思います。だからそういう話を聞くのも好きです。知人でもそうでない人でも、目標に向かって頑張っている人を見ると応援したくなります。
 またさらに良いのは、始めたことを継続することです。どんな逆境にあっても、意味がないと思っても、グダグダな有様だなあと思っても、それでも続けるのは、始めるのにまさって良いことです。

 私がこの何十年か生きてきて、本当に大切だなと確信するに至ったことを一つ紹介するとしたら、それは「継続は力なり」です。
  世の中の大抵のことは、続けることに意味があります。逆に言うと、続けないと意味がなくなります。たとえばエジソンが実験を途中で投げ出していたら、電気照明の歴史はもっと浅いものになっていたでしょう。あくまでやり続ける限り、それは失敗したことにはならないですし、いつかある一定の結果に到達するはずです。クリスチャン的ではないかもしれませんが、そこには生きる意味が少なからずあるかと思います。

 という訳で今年も半分終わってしまいましたが、何か新しく始めたという方が、まだそれを続けておられることを、余計なお世話ながら願っています。

 とは言っても、人間生きていればイロイロな状況に直面します。やむを得ない事情で、何かを諦めなければならなくなったり、断念しなければならなくなったりします。始めたことが続けられない、という事態にもなるでしょう。
 けれど人生にはグッドニュースもあります。何度でもやり直せる、というグッドニュースです。どうしてもやり直せない、もはや手遅れ、ということはもちろんありますが、どんな形でも絶対にやり直せない、ということはそれほど多くはないように思います。実は私自身もそのような心境にあります。
 だから、物事を続けられないと悩んでいる方、挫折してしまったと気に病んでいる方は、悩む必要ありません。もう一度始めればいいのです。その結果、誰々とこれだけ差がついてしまった、と思うかもしれませんが、人生は勝敗が明白な徒競走とは違います

 何だか教訓めいた話になってしまいましたが、最後に、私の好きな映画『アンタッチャブル』から名台詞を一つ紹介させていただき、終わりにしたいと思います。

 "Never stop fighting till the fight is done"(勝負は終わってみるまでわからない)

2014年7月1日火曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・牧師の愛篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第8話の解説。
 本文はこちらから。
→第8話

 これは、奉仕で理不尽な目に遭ったキマジメくんがついに牧師に腹を立て、それを察した牧師がうまいこと感動的な和解に持ち込む、というエピソードである。カルト化牧師の二面性を表わした話だ。

 カルト化牧師の理不尽さ、横暴さ、自分勝手さを聞かされると、「なんでそんな牧師に従うんだ」という感想になるのが普通だ。そこまで酷い目に遭っているのに従うなんて理解できない、尊敬できるなんてあり得ない、という訳だ。それは至極もっともである。
 けれど、そこにはカラクリがある。

 現在、キリスト教系でもそうでなくても、イロイロな新興宗教がある。それらの宗教の人集めの手法に「ラブシャワー」というのがあって、とにかく魅力的なイベントや条件で人を集め、来た人を思いっきりもてなす。いかにも興味があるふうに新来者の話を聞き、いちいち褒めちぎり、良い所を挙げ連ね、その人にとって居心地の良い場所であるように演出する。そうやってあらん限りの「愛」を注ぐのである。新来者はたいてい気分が良くなって、その見せかけの愛のシャワーに浸ってしまう。そしてその宗教が真理であり、地上か天上で楽園を実現するものだと錯覚してしまう。

 カルト化教会の信徒も、同じようなことを経験している。はじめは誰もが牧師に愛ある態度で接せられる。牧師に細かいことまで気を配られ、助言や実際的なサポートを受ける。家庭内暴力を受けている人が教会にかくまわれたり、いろいろな面で困っている人が援助を受けたりする。そういう経験を通して、「この牧師先生は本当に愛に溢れた方だ」「この教会は真理の教会だ」というようなイメージを固定化していく。

 しかしある程度の期間が過ぎると、様子が変わる。牧師から愛の態度が消え、搾取が始まるのである。「神から恩を受けたのだから、その恩を返すべきだ」とか「キリストのように全てを捧げて仕えるべきだ」とかいうような理屈で、長時間奉仕や高負荷の奉仕をさせられる。断るのは不信仰とされる。しかもキリスト教教理にうまく絡めて提示されるので、いかにも神からのオーダー、聖書のルール、クリスチャンの義務であるかのように思わせられる。それはあくまで牧師個人の要求でなく、神からの要求であって、牧師にしたって従っているだけなのだ、とされる。
 信徒に反論の余地はない。

 それでもあまりの理不尽さに、信徒が疑問を抱くことがある。あるいは腹を立てることがある。しかし牧師はそういう信徒の「反抗」にも敏感だ。すぐに手を打ってくる。どうするかと言うと、初期の頃のラブシャワーを使い回すのだ。あなたを愛している、あなたの為なら何でもする、あなたの為ならこんなミニストリーなんかどうだっていい、みたいなことを囁いて泣かせるのだ。真面目な信徒は感動してしまう。牧師に腹を立てたという罪悪感もそれを手伝う。キマジメくんはまさにこの術中にはまってしまった。

 そうやってラブシャワーと搾取をうまく使い分けてくる。ちょうどアメとムチの使い分けみたいだ。それが「成功」するカルト化牧師の特徴である。

 ちなみにそういう牧師でも、ラブシャワーで挽回できないケースがある。信徒があまりにも腹を立て、あるいは強く疑問に思って、牧師に噛みつくケースだ。牧師はもはやコントロールできない。私は彼らを敬意をもって「勇者」と呼ぶ。しかしカルト化牧師のそういう勇者らに対する選択は、もはや一つしか残っていない。「追放」である。

 この「追放」に関しては、後のセイギ兄弟のエピソードで取り扱いたいと思っている。