私の認識では、日本のキリスト教界には数年前から急速なユダヤ・ブームが起こっている。福音派や聖霊派だけだとしても、その飲みこまれようはバカにできない。割と正統的(?)にやってきた教会が、何かのキッカケでユダヤ主義に触れて(かぶれて)、急速にそのスタイルを変える、というのを少なからず見ている。
彼らはユダヤ暦を教会に取り入れて、その祭り(スコットとかプリムとか)を祝ったり、9月のローシュ・ハッシャナーが「本当の新年だ」とか言ったり、ユダヤ風の食文化を取り入れたりと、傍から見ると「ユダヤかぶれ」としか思えない有様になっている。
ひどいところになると、イスラエル旅行の際、バプテスマのヨハネが洗礼を授けたという場所で自分たちももう一度洗礼を受けて、「これで本当の洗礼を受けた!」とか興奮して言う。洗礼場所に本当も何もないはずだが、キリスト教教義はどこに行った、という感じだ。
もちろんユダヤ文化は何も悪くない。ユダヤ文化を愛好するのも決して悪くない。好きな人は存分にしたらいいと思う。
けれど教会単位で、聖書教理とガッチリ絡み合った状態でユダヤ文化が取り入れられていくのは、はっきり言って間違いだと思う。
新約聖書の「使徒の働き」を見ると、そのことがよくわかる。
福音がユダヤ人だけでなく、異邦人(外国人)にまで伝えられるようになると、「異邦人もユダヤの律法を守らなければ本当には救われない」という動きが出てきた。つまり、ユダヤの神を信じるのだからユダヤの律法も守れ、ということだ。けれどパウロはそれに反対して、激しい議論になった、と書いてある(15章)。
その議論は結局、人は信じて告白することによって救われる、という福音本来のポイントに決着した。
だから私たち(ユダヤ人から見る)外国人クリスチャンは割礼を受けなくていいし、旧約聖書の律法の一言一句まで負わなくて済んでいる。それが新約聖書の言う、新しい契約のはずだ。
ひるがえってイスラエル傾倒の牧師らを見てみると、そういう救いの本質からズレて、旧約の律法に戻ろうとしているように見える。
ユダヤ暦を覚え、その祭りに従い、「本当に礼拝すべき場所はエルサレムだ」と言っているのが、その如実な現れである。つまりイエス・キリストを愛すると言いながら、その言うところをまったく無視している。
彼らがそのうち、「真のイスラエルとして割礼を受けなければ」とか言い出すのではないかと、私は他人事ながら心配している。