2014年7月17日木曜日

クリスチャンと成長・その3

 現在、クリスチャンの「成長」について考えようとしたら、やはり「弟子訓練」「教会成長」あたりがキーワードになるようだ。もちろんプロテスタントの、福音派とか聖霊派とか呼ばれる教派だけの話だと思う(そうであってほしい)。

「弟子訓練」を取り入れている教会では、今日も「弟子」たちが絶対服従を求められ、過重な奉仕に従事し、「献金貧乏」に耐えている。真面目な信徒であればあるほど、そうなってしまう。
 そして「教会成長」の名のもと、たとえば「今年中に信徒数〇〇〇人」とか、「受洗者〇〇人」とか、「新会堂設立」とか、そういう具体的数値つきの目標が、掲示板等に大きく掲げられている。

「弟子訓練」にしても「教会成長」にしても、聖書から(一応)根拠を求めることができる。イエス・キリストは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言っているから、そこには何かしらの伝道努力が必要になるし、弟子の数が増えていくことも目標となるだろう。要はクリスチャンが増えることが御心であるなら、教会が大きくなることも御心である、ということだ。

 そういう観点で「弟子訓練」「教会成長」が語られると、なかなか反論できない。というかそれ自体には反論する余地がないように思う。だからこそ、それらは聖書的根拠とうまく融合することになる。信徒は仮に疑問を感じたとしても、「聖書に書いてあるから」という強力な理由の前に、口をつぐむことになる。あるいは積極的に賛同する大勢が、反対する少数を責めたてる、みたいな現象が起こる。

 しかし問題は、その解釈の仕方であり、やり方である。
 イエス・キリストが「弟子としなさい」の文脈で言っているのは、「バプテスマを授けること」「命じたことを守るように教えること」である(福音書から抜粋)。そして前々回に「成長」の文脈で提示した聖書箇所を見てみると、やはり「教える」「学ぶ」「知識を得る」ということが中心になっている。つまり新しくクリスチャンとなった人に必要なのは、一にも二にも「学ぶこと」だと、キリストは言っているのだ(それだけではないにしても、少なくともそれを抜くことはできない)。
 だから牧師の命じるままに働くこととか、一生懸命働いて献金することとか、そういうことの為にクリスチャンになるのではない。今年中に信徒数を倍にするとか、そういう数値目標を提示されてノルマ的に伝道させられるのが、クリスチャンの成長なのではない。
 なのに大切な教理を教えられず、いくつかの解釈があることも知らされず、教団教派の違いや歴史などまったく知らないまま、そういう教会活動にだけ駆り出され、忙殺されるクリスチャンがあまりに多いと思う。そこにこそ問題があるだろう。

 しかもそういう教会に限って、「教会成長」を言わない伝統的な教会(聖公会やルーテルなど)を指して、「頭でっかちだ」「古い」「真理がわかっていない」「もはや死に体だ」などと批判する。牧師がそう言うから信徒もそういうものだと思っている。まさにキリストが言う「目の中の梁」であろう。そういう優劣関係を競う思考自体が聖書の言う「謙遜」を大きく逸脱しているのだけれど、いかんせん、学んでいないからわからない。

追記)
 どこで聞いたか覚えていないけれど、こんなことを言うクリスチャンがいた。
「私の教会ほど霊性の高い教会って他にあるのかしら」
 もう苦笑するしかなかった。

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