初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その2。「宗教観教育」について。

2014年7月27日日曜日

キリスト教信仰

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 前回は「初めて教会に行く前にすべきと思うこと」について書いた。簡単にまとめると、

 初めて行って定着した教会のやり方を、人は「キリスト教」だと思い込みやすい。教団教派の違いの大きさを知らないから、「どの教会に行っても基本的には同じだろう」と最初は安易に考えている。けれど何年か経ち、キリスト教の多様さに気づく頃には、自分の教会が一番正しいのだと信じていて、ほとんど変更不能になっている。他の解釈や可能性を頭から否定して、学ぼうとしない。
 それが特に問題にならない場合もある。けれど、大問題になることもある。だから教会に行く前に、キリスト教についてしっかり予習しておくべきだ。

 という話。
 しかしこれはほとんど理想論みたいなもので、実際には難しい話だ。本気で教会に行ってみようと考えている人は、おそらく何かしら悩みを抱えて困っているだろうから、キリスト教について事前にリサーチする余裕などないと思う。一方、単に誘われただけの人の場合、そこまで深く考えていないだろうから、やはり予習などしないと思う。だから現実的には、多くの人はほとんど何の知識もないまま教会に行くことになる。そこで牧師さんが丁寧にいろいろ教えてくれればいいのだろうけれど、昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、そういうことは期待できそうにない。

 理想論ついでに書くけれど、これは教育に関わる問題だと思う。
 つまり現在日本の学校教育では、「宗教観」が育まれるということはない。宗教がどんなもので、どう捉えるべきで、自分とどう関わりがあるのか(あるいはないのか)、ということは一切教えられない。あるいは人生とはどんなもので、困った時にはどういう選択肢があって、その時宗教がどんな位置づけになるのか、というような「人生指南」みたいなカリキュラムはない。
 あるとしたら世界史の授業なんかで、世界の三大宗教とか、「目には目を」のハンムラビ法典とか、そういうマメ知識を学ぶくらいだ。

 もちろん、それは個人の自由が尊重されているからだし、教育法で宗教教育が禁止されているからだ。けれど私が言いたのは、こういう風に生きろと人生を限定することでなく、宗教についてその教典から詳しく教えろということでもない。
 ただ、そういったことがある程度体系的に教えられないと、宗教と聞いただけで「弱い人間がすがるものだ」みたいな偏見を持つことになってしまう。あるいは「誰も教えてくれなかったけれど、ここにこそ救いがある」と信じ込んで新興宗教にハマることになってしまう。
 どちらも極端な例だけれど、知らない(教えられていない)とはそういうことだ。宗教に偏見を持つのも、変にハマるのも、それが本来何なのか、客観的に知らされていないところに原因がある。ちゃんと教えられたうえで、「やっぱり心の弱い人間がすがるものだ」と判断するかもしれないけれど、それは教えられる前とは全然違う根拠によるものだろう。

 国として、教育でそこまで宗教を扱えない、と言うなら、国内の宗教団体をもっと規制すべきだろう。でないと、若者たちを地図も何も渡さないでジャングルの真ん中に放り込むようなことになってしまう。憲法に「信教の自由」があり、いろいろな宗教団体を野放しにしているのだから、それに対する考え方(対処法)くらい、教えるのが筋だと私は思う。

 以上、何の役にも立たない理想論である。

 ところで以前、知り合いに「エホバの証人」の信者がいて、私はクリスチャンだと一切名乗らず、いろいろ話を聞いてみたことがある。彼らは年に何度か総会みたいなものを開くそうだ。関東圏だと、埼玉スーパーアリーナが会場になったりするという。けっこうな人数が集まるようである。
 そこでふと思ったのが、そういうえば新興宗教にハマる人って少なくないな、といことだ。友達に「幸福の科学」の人もいたし、名称を忘れてしまったけれど何かの宗教の人もいた。近所に訳のわからない宗教団体の本部がある。日本のクリスチャン人口は1%未満らしいけれど、そういういろいろな新興宗教を合わせれば、総数はけっこうな数になるのではないだろうか。

 そう考えると、「宗教観教育」も単なる理想論では片づけられないような気がする。

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