初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その3。過去の自分に忠告するとしたら。

2014年7月28日月曜日

キリスト教信仰

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 初めて教会に行く前にすべきと思うことの3回目。
 今回は、何十年か前の、初めて教会に通いはじめた頃の自分自身にもし忠告できるとしたら、今の私が彼に何と言うか、考えてみた。
 
・「いろいろな教会を見てみなさい」
 クリスチャン人口が少ないと言っても、教会は探せばけっこうある。もちろん家から近くがいいけれど、週1~2回程度なら、少し遠くても自分なりに納得できるところに行くべきだと思う。その為には、いろいろ見て回った方がいい。
 
 中には「自分が植えられるべき教会は神様が用意している」と言う人がいる。それ自体は間違いでないと思う。けれど、何かの縁でたまたま通い始めた教会の人から、「ここは主があなたに備えられた教会です。偶然ではありません」とか言われて、それ以降の教会巡りに反対されることがある。それに従わないと不信仰扱いされる。
 けれどそれは、アダムとエバと全人類に与えられた「自由意思」を奪う行為だ。またそれは詰まるところ、運命論である。「あなたはこの教会に来る運命だった。だからもう他に行ってはならない」
 その考え方を支持するなら、イスカリオテのユダはどうにも抗えない運命の力によって仕方なくキリストを裏切ったことになる。すると彼は裏切り者ではなくなる。冷酷な神の犠牲となった、哀れな被害者だ。
 だからそういう主張に聖書的根拠はない。自分の教会に人を留めておきたいから、単に神を利用しているだけだ。
 
 いろいろ見て回った方がいいのは、それだけ教団教派によって教会の様相が違うからだ。
 たとえばルーテル派は、オルガンと讃美歌を使って、実にオーソドックスな礼拝を捧げる(全部かどうかはわからない)。一方で都心の方の聖霊派のある教会は、暗い室内に照明がバンバン光り、スモークが立ち上ぼり、低音の効いたアンプが地響きをたてる中、若者たちが跳び跳ねて賛美している。クラブか何かかと見紛う光景だ。ぱっと見たところ、両者が同じ神様を信じているとは考えにくい。
 
 もちろん、それは見た目の違いでしかない。「本質は同じでしょ」と思うかもしれない。しかし、その背後には聖書解釈の違いがあり、それが信仰の違いとなり、それが行動の違いとなっている。だから見た目の通り、中身も違う。まったくの別物と言ってもいいかもしれない。
 
 だからやっぱりいろいろ見て、勉強して、自分に合うかどうか検討した方がいい。しかしここで言う「自分に合う」とは、単に礼拝スタイルが好みだとか、見てくれがいいとか、同じ年齢層が多いとか、そういう表面的なことだけではない。聖書解釈や、そこから生まれる信仰の在り方、言葉にならない「教会の雰囲気」みたいなものも大事だ。どちらかと言うと後者の方が大事だと私は思う。
 
「短期間で見たつもりにならないように」
 およそどんな組織にもグループにも、ある程度の期間所属していないと見えてこない顔がある。と言っても「裏の顔」とか「隠された部分」とかいう意味ではない(そういうこともあるけれど)。
 たとえば、上記の例で言うと、ルーテルの礼拝やそこに集う人のことを最初は「堅苦しい」と思う人がいるかもしれない。でもフトした時に、そこに変わらず存在する安定感や信頼感に気づくのだ。同時に聖霊派を「生き生きしてるし、とっても霊的だ」と思う人がいるかもしれない。けれどフトした時に、そこにあると信じていたものが実はなかった、と気づくのだ。
 
 見えなかったものが、次第に見えてくる。それはいろいろなことに当てはまる。教会も例外ではない。
 だからやはり、ある程度の期間を持った方がいい。性急に決めるべきではない。
 もちろん性急に決めた結果、「やっぱり違う」と思ったら、辞めればいいだけだ。けれどそんなに簡単な話でもない。長くいればいるほど、人間関係が深まるし、愛着も生まれる。奉仕など任されたら尚更、辞めるに辞められない。
 
 もう少し書きたいけれど、長くなったので次回にしたい。

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