クリスチャンとイスラエル・その3。ユダヤかぶれに見られる矛盾。

2014年7月23日水曜日

クリスチャンとイスラエル

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 牧師や教会がイスラエルに傾倒することで起こり得る問題について、3回目になるが書きたい。

 ちなみに1回目の記事2回目の記事はこちら。

 繰り返しになるけれど、ユダヤ文化を愛好することや、それを教会で楽しむことは全然問題ではない。むしろキリスト教のルーツに触れるという意味で、有意義でさえあるかもしれない。
 そうでなく私が問題としているのは、ユダヤ的に振る舞うことが聖書的だ、真理だ、クリスチャンとして優越だ、というような姿勢についてである。

 イスラエルに傾倒した牧師がよく言うのが、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12章3節・新改訳)という、神がアブラハムに与えた言葉である。このアブラハムはイスラエルの先祖だから、「あなた」は「イスラエル」ということになる。だからイスラエルを祝福することは神の御心だ、となる。

 私はそれ自体には何ら反論を持っていない。というか、この文脈で言う「イスラエル」が何を意味するかという議論が、その前にあるとは思う。けれどいずれにせよ、そもそもどこの国や民族だから特に忌み嫌うとか、特に愛し敬うとか、そういう区別をしないのがキリストの教えだと私は思う。

 しかしイスラエル傾倒の牧師らは、その聖句を持ち出して、なぜか、ユダヤの文化風習に従わねばならない、その祭や行事を祝わなければならない、エルサレムで礼拝しなければならない、などと言う。
 けれど、イスラエルを祝福することと、イスラエルのように振る舞うこととは、全然関係ない。イスラエルを祝福したいからと言って、何もイスラエル人の真似事をしなければならないという道理はない。日本人でもアメリカ人でも何人でも、そのままでイスラエルを祝福することはできる。
 そのへんに、根本的な勘違いがあると思う。

 また彼らは同時に、「私たちは霊的イスラエルだ」と自負する。つまり日本人でも、神様を信じて救われたから、霊的にはイスラエル人と同じだ、ということだ。
 霊的に何だろうとべつに良いのだけれど、であるなら余計に、イスラエルという「国」を祝福する必要性がなくなるのではないだろうか。なぜなら彼らの主張の通りなら、クリスチャンは全員「霊的イスラエル」なのであって、だったら世界中のクリスチャンを祝福することが「イスラエルを祝福する」ことになるからだ。現存するイスラエルという国家を祝福することとは、直接的につながらなくなる。非常に単純な矛盾である。

 こういう思想の背景には(イスラエル傾倒以外のことにも言えるが)、自分が何か特別な存在でありたい、他者より優れた者でありたい、という考え方があるように思う。人前で目立つ奉仕ができたら「大きく用いられた」とか言うのと同じだ。しかしそれはキリスト教教理的に言うと、自己中心ということになる。
 そういう動機で「ユダヤかぶれ」になるのが神の御心かどうかというと、答えは明白であろう。

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