牧師や教会がイスラエルに傾倒することで起こり得る問題について、3回目になるが書きたい。
ちなみに1回目の記事、2回目の記事はこちら。
繰り返しになるけれど、ユダヤ文化を愛好することや、それを教会で楽しむことは全然問題ではない。むしろキリスト教のルーツに触れるという意味で、有意義でさえあるかもしれない。
そうでなく私が問題としているのは、ユダヤ的に振る舞うことが聖書的だ、真理だ、クリスチャンとして優越だ、というような姿勢についてである。
イスラエルに傾倒した牧師がよく言うのが、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12章3節・新改訳)という、神がアブラハムに与えた言葉である。このアブラハムはイスラエルの先祖だから、「あなた」は「イスラエル」ということになる。だからイスラエルを祝福することは神の御心だ、となる。
私はそれ自体には何ら反論を持っていない。というか、この文脈で言う「イスラエル」が何を意味するかという議論が、その前にあるとは思う。けれどいずれにせよ、そもそもどこの国や民族だから特に忌み嫌うとか、特に愛し敬うとか、そういう区別をしないのがキリストの教えだと私は思う。
しかしイスラエル傾倒の牧師らは、その聖句を持ち出して、なぜか、ユダヤの文化風習に従わねばならない、その祭や行事を祝わなければならない、エルサレムで礼拝しなければならない、などと言う。
けれど、イスラエルを祝福することと、イスラエルのように振る舞うこととは、全然関係ない。イスラエルを祝福したいからと言って、何もイスラエル人の真似事をしなければならないという道理はない。日本人でもアメリカ人でも何人でも、そのままでイスラエルを祝福することはできる。
そのへんに、根本的な勘違いがあると思う。
また彼らは同時に、「私たちは霊的イスラエルだ」と自負する。つまり日本人でも、神様を信じて救われたから、霊的にはイスラエル人と同じだ、ということだ。
霊的に何だろうとべつに良いのだけれど、であるなら余計に、イスラエルという「国」を祝福する必要性がなくなるのではないだろうか。なぜなら彼らの主張の通りなら、クリスチャンは全員「霊的イスラエル」なのであって、だったら世界中のクリスチャンを祝福することが「イスラエルを祝福する」ことになるからだ。現存するイスラエルという国家を祝福することとは、直接的につながらなくなる。非常に単純な矛盾である。
こういう思想の背景には(イスラエル傾倒以外のことにも言えるが)、自分が何か特別な存在でありたい、他者より優れた者でありたい、という考え方があるように思う。人前で目立つ奉仕ができたら「大きく用いられた」とか言うのと同じだ。しかしそれはキリスト教教理的に言うと、自己中心ということになる。
そういう動機で「ユダヤかぶれ」になるのが神の御心かどうかというと、答えは明白であろう。
無教会主義の主張に似ていますね。教会と訳されているエクレシアは人々の集まり、集会という意味であって建物を指さないから、教会という建物は必ずしも必要ないみたいな感じですね。
返信削除神殿や場所に教理的な権威が無いなら、教会という建物にはもっと教理的な権威はなく、お寺やトイレで祈っても礼拝堂で祈っても同じということになりませんか?
聖書の律法はシナゴーグ(会堂)について言及しておらず、バビロン捕囚の後に、聖書の教えを学ぶ場が神殿だけでなく各地に必要であるという反省から生まれました。ですから神殿の代わりに毎週会堂(ユダヤ教施設をシナゴーグと呼ぶなら、キリスト教施設をシナゴーグと呼んでも本当は差し支えないはずなんですけど)に行くというのも、ユダヤ教の名残りですし、そもそも律法は毎週神殿や会堂に行くようには命じておりません。
聖書は区別すること、聖別することについて定めています。例えば、戦争する際には汚いものを見て主が離れることのないように陣営を聖なる場所として清潔に保ち、トイレは陣営の外でするよう命じています。律法が命じるまでもなく、用を足す時はみんなトイレ以外ではしませんし、祈るための場所があった方が望ましいでしょう。無宗教の人であっても、トイレから出てきて汚れたままの手で神聖な(聖別された)物に触れるのを躊躇うでしょうし、神を敬うならば紙自体に本質はないと知っていながらも聖書を粗末に扱ったりはしないでしょう。
おっしゃる通り内面的なものが本質であって、エルサレム神殿は本質の影です。しかしそれならば、会堂(教会の建物)は神殿ではないので、本質の影の影です。神が神殿を各地に置かず、エルサレムに一箇所だけ定めて、年に三度そこに集うように命じたのにもきっと意味があります。教会(会堂)が特別な場所なように、神殿は最も特別な場所です。
キリストは建物自体に権威はないとしながらも、神殿の権威を否定するエッセネ派ではありませんでしたし、神殿を祈りの家、父の家と呼び、使徒行伝の中で使徒たちも神殿に行って祈りを捧げています。【使徒3:1など】
エルサレムに中心地があるいい点は、英語やらラテン語やら韓国語(強いて言うならギリシア語も)といったキリスト教国の聖書も、ヘブライ語から訳されているのでは日本語と変わらない言語だと思えることです。やはり翻訳されたものよりも原典が一番正確であることに間違いありませんし、ヘブライ語が読めればラテン語や日本語で聖書を読むよりも、本質への理解に近づけるでしょう。
聖地にも似たような事が言えます。もしエルサレムが世俗的な場所で中身が伴っていないのであれば名前だけですが、クリスマスやら異教的な不純要素が最も少なくて、キリストの時代の文化を2000年経った今に残し、3000年以上の伝統を誇り、聖地を聖地たらしめるべく努力をしているユダヤ教徒の人たちがいるからこそ名実ともに特別な場所なのだと思います。
決して名ばかりの聖地ではないですよ。もし熱心なユダヤ教徒がクリスチャンになったとしたら、どの異邦人よりも模範的なクリスチャンになるであろうという雰囲気があります。
聖餐式の飲み物が、コーラやバナナジュースやファンタでもいいけど、一番ふさわしい飲み物はぶどう酒ではないかということです。
長文失礼致しました。
通りすがりのユダヤかぶれより
HTS様
削除コメントありがとうございました。
じっくり何度か読ませていただきましたが、どうも私の頭が悪いからか、コメントの趣旨がよく理解できませんでした。また私の記事との関連性も全くわかりませんでした。
けれど改めて説明していただくには及びませんので、長文でありがたいコメントですが、掲載スルーとさせていただきます。