珍しくポジティブなことを書こうと思う。表題通り「教会生活をして良かったこと」。
ちなみにこれはクリスチャンとしての「成長」とか、教会の発展とか、そういうこととは全然関係ない。いわゆる教会生活の(信仰面の)恵み」について知りたい人には、役に立たない記事である。
教会生活をする大きなメリットに、「コミュニティへの所属」があると思う。
普通、人は何らかのコミュニティに属している。たとえば児童なら学校、大人なら職場、主婦なら近所のママ友サークル、高齢者なら地域活動とか、医療・福祉施設を介した集まりとかだ。複数のコミュニティにまたがる人もいると思う。それらのコミュニティに属することで、私たちは少なからず恩恵を受けている。いろいろな知恵とか、口コミ情報とか、実際的なサポートとかだ(同時に面倒なしがらみに縛られるという側面もある)。
普通、人は何らかのコミュニティに属している。たとえば児童なら学校、大人なら職場、主婦なら近所のママ友サークル、高齢者なら地域活動とか、医療・福祉施設を介した集まりとかだ。複数のコミュニティにまたがる人もいると思う。それらのコミュニティに属することで、私たちは少なからず恩恵を受けている。いろいろな知恵とか、口コミ情報とか、実際的なサポートとかだ(同時に面倒なしがらみに縛られるという側面もある)。
けれどそれらのコミュニティは概して、同種の人間の集まりである。学生どうし、会社員どうし、主婦どうしで集まっている。そうなると扱われる情報もそれぞれ限定的になる。世代とか性別とか、そのグループの特徴や必要に合ったものにどうしても偏る。たとえば小学生が近所のスーパーの特売情報を知っている訳がないし、高齢者が携帯ゲームの攻略法に詳しい訳がない(一般的には、だ)。それに、そういうコミュニティ内で人々が率先して、相手の利益を図るかというと、そうでもない。
それに比べて、教会は老若男女問わず集まるコミュニティである(例外的に若者ばかりの教会もあるけれど)。だからいろいろな種類の知恵や情報や援助が、相互に提供され得る。たとえば裁縫の得意なおばあちゃんに子どものズボンの裾を直してもらうとか、同じ子育て家庭から「お古」の服を譲ってもらうとか、若い人にパソコンの設定をしてもらうとか、田舎から届いた新米を分けてもらうとか、まあ挙げればキリがない。それに「神の家族」という前提もあるから、より親密になり得るし、率先して助け合おうともする。そしてその恩恵は案外大きい。専門職がいればその分野の相談もできるし、普通なら知り得ないことを知る機会もある。仕事探しにおいても、役立つことがあるだろう(もっとも、教会員の数によってその恩恵は違ってくるけれど)。
現代日本はマンション住まいの人も多く、近隣との付き合いがまったくないという人も少なくない。地域住民どうしの助け合いも、昔に比べて少なくなった(都市部では特に)。
だから、教会だからこその全年齢的・相互援助的コミュニティは、他を探してもなかなか見つからないように思う。江戸時代あたりの村社会ならあったかもしれないけれど、現代日本においては稀ではないだろうか。ちょっと思いつかない。
少し話が飛ぶけれど、そういうコミュニティへの所属という意味あいで、什一献金を捉えているクリスチャンはいると思う。コミュニティへの、いわゆる「会費」みたいなものだ。 もちろんそれで什一が肯定される訳ではないし、そもそも信仰とは関係ないし、什一として捧げるとしたら動機が不純だけれど、その心情自体は、私はよく理解できる。今振り返ってみると、私も教会員だからこそ受けられたメリットは少なくなかったな、と思う。
もちろん直接的な関係はないけれど、そういう恩恵の対価として、什一献金を捧げるという考え方はあるだろう(当然ながら、それは聖書とも信仰とも関係ない)。
という訳で、教会生活をするメリットというのはある。集う教会やメンバー構成によってずいぶん事情が異なると思うけれど。
この教会コミュニティは、大きな可能性を秘めていると私は思う。たとえば現代日本で問題となっている介護問題や育児問題、貧困問題に対する一定の答えを、提供できるという可能性だ。介護の手や育児の手、経済的支援などを必要とする人々が教会にいたら、メンバー全員でなら、その必要を少しは満たすことができるかもしれない。そしてそういう教会が沢山あったら、日本はもっと住みやすくなるかもしれない。と思う。
それは信仰とは関係ない、教会をそういうことに使うのは動機が不純だ、という意見があるかもしれない。けれど教会とは、そもそも困っている人を助ける為にこそ存在しているのではないだろうか。
>教会とは、そもそも困っている人を助ける為にこそ存在しているのではないだろうか。
返信削除この最後の言葉こそ、教会の寄って立つべき所だと思います。
キリスト教という宗教法人団体が、信者に対する宗教儀式のために(彼らは儀式ではない。自由な霊的な「霊とまこととを持って」と言いますが)集まるという形式は、その昔ローマ帝国によって「これが真理」と制定された「カトリック」(普遍)の教理に拠るところであり、本来は「家」での集まりであったはずです。
しかし今はその事よりも、相互扶助組織として、現代社会に必要不可欠の存在となる可能性を秘めている、というべきでしょうか?
>全年齢的・相互援助的
ですし、ともすればもう数十年「隣は何をする人ぞ」で代表される社会にあって、貴重な物だといえます。
そう言う意味で、某S学会というのは成功しているのだと思います。
本来であれば、教会の役割ですね。