什一献金について書いたところ、沢山のコメントをいただいた。私個人の意見はともかく、それだけ関心の高いトピックなのだと思われる。
おもしろかったのは、什一献金「肯定」のコメントが一つもなかったことだ。私の周囲には、什一献金を「当たり前」とする人が多いので、「什一献金って本当に聖書的なんですか」なんてとてもじゃないが聞けない(相手にもよるが)。だから什一献金否定のコメントを複数いただけて、やっぱりキリスト教界といってもイロイロなんだなと思えた。長く什一を捧げてきた私が今になってこういう疑問を抱いたのも、決して間違いではなかったと思えた。
ちなみに私のまわりの什一献金肯定クリスチャンは、皆いい人ばかりだと付け加えておく。
いただいたコメントにもあったけれど、什一献金を義務化していることを堂々と教会HPに載せるべきだ、というアイディアは、それはそれで必要なことかもしれない。初めて教会に行き、そういうことを何も知らないで信徒になった人には、「什一のお知らせ」はちょっとした衝撃だろうからだ(ちなみに私はこの口だった)。
けれど什一献金に限らず、キリスト教教理や聖書解釈や、その他の習慣的・文化的側面は、教会(教団教派)によってそれぞれ違うだろう。たとえば洗礼は浸礼であるべきだとか、聖霊の働きをどう捉えるかとか、異言を認めるかどうかとか、同性愛嗜好をどう捉えるかとか。微々たる違いもあるけれど、中には到底相容れない違いもあるだろう。そして相容れない違いの中には、この什一献金もあると思われる。
ところで什一献金肯定教会は、大雑把に言って2種類あると思う。
1つは牧師が故意的に、ある程度の悪意をもって、什一献金を利用しようとする体制の教会だ。什一が必ずしも聖書的とは言えない点(旧約にしかその根拠がないとか)をあえて伏せ、いかにも聖書的なこと、神が当然求めていること、しないのは明らかに不信仰なことだと什一献金を位置付けている。これは什一の是非以前に問題のある教会だ。
もう1つは、牧師の権限がそこまで大きくない教会で、多くの主要な教会員らが、什一献金を聖書的と信じて忠実に行っているところだ。こういう教会は、什一を義務とかでなく(実際には義務的なのだけれど)、より自然に、捧げるものだと認識している。
什一献金の是非について論じ得るのは、この後者のタイプの教会であろう(以降はこのタイプに限定して書く)。
1つは牧師が故意的に、ある程度の悪意をもって、什一献金を利用しようとする体制の教会だ。什一が必ずしも聖書的とは言えない点(旧約にしかその根拠がないとか)をあえて伏せ、いかにも聖書的なこと、神が当然求めていること、しないのは明らかに不信仰なことだと什一献金を位置付けている。これは什一の是非以前に問題のある教会だ。
もう1つは、牧師の権限がそこまで大きくない教会で、多くの主要な教会員らが、什一献金を聖書的と信じて忠実に行っているところだ。こういう教会は、什一を義務とかでなく(実際には義務的なのだけれど)、より自然に、捧げるものだと認識している。
什一献金の是非について論じ得るのは、この後者のタイプの教会であろう(以降はこのタイプに限定して書く)。
ある教会の信徒は、その教会のやり方に多分に同意しているからこそ、信徒であるのだろう。だから異言にしても聖霊の働きにしても什一献金にしても、その信徒からすると全て「当然」のことであって、何ら疑念を挟む種類のものではない。だから自分たちの教会を紹介しようとする時、いちいち「什一やってます」などと断る必要性を(彼らは)感じないだろう。なぜなら彼らにとって、キリスト教信仰とはそういうものだからだ。もし「什一やってます」と断るなら、「洗礼についてはこうです」「聖霊についてはこうです」「異言についてはこうです」とか、いちいち断らなければならないのか、という話になると思う(また、什一などはその教会のメンバーシップに入ってはじめて発生するものであって、新来者にいきない払わせる種類のものではない、という事情もあるだろう)。
もちろん金銭については別だ、という意見もあるだろうけれど、繰り返しになるが、什一献金肯定派にとって、キリスト教信仰とはそういうものなのだ。神を信じるなら捧げる、信じないなら捧げない、という原理のもとにある。だから彼らには「捧げない=神を信じていない=本当にクリスチャンなのか」というような図式になると思う。
もちろん金銭については別だ、という意見もあるだろうけれど、繰り返しになるが、什一献金肯定派にとって、キリスト教信仰とはそういうものなのだ。神を信じるなら捧げる、信じないなら捧げない、という原理のもとにある。だから彼らには「捧げない=神を信じていない=本当にクリスチャンなのか」というような図式になると思う。
これはもちろん什一肯定派にとってそうだというだけの話で、そうしない人はクリスチャンではない、という話ではもちろんない。
私がこの問題でどっちつかずの態度を取っているのは、最初の記事で書いている通り、今のところ判断しかねているからだ(というのも、什一を捧げる教会、捧げない教会とも確かに存在している)。それに什一献金をしているから立派なクリスチャン、あるいは什一献金を否定しているからまともなクリスチャン、とかいう評価もすべきでないと思っている。ただ2つめの記事で書いた通り、「心に決めた通り」にするよう聖書は勧めている訳だから、それでいいのではないかな、と思っている。つまり信じて什一を捧げるのも信仰の結果だし、信じて什一を捧げないのも信仰の結果であって、いずれにせよ信仰から出るものを、神様は祝福される、ということだ。
くわえて、什一献金肯定派の教会は、もうそれがシステムとなっている。教会会計の主要な収入ともなっている。だからここへきて什一をやめろと言うのは、教会をやめろと言うのに近い。「そんな間違った信仰の教会はなくなるべきだ」と反対派は言うかもしれない。けれど、その教会が福音を最低限正しく伝えていて、それで救われる人がいるのなら、その教会をなくそうとすることは、神に対立するのと同じことではないだろうか。
もちろん、牧師が私服を肥やそうとして什一を利用している、前者の教会はまったく別の話になる。そういう教会には上記の話はそもそも当てはまらない、ということを断っておく。
什一献金を肯定する向きにとっては、キリスト教はこういうものなのでしょう。ただこういう人たちに聞いてみたいのは以下の質問です。
返信削除1この教会では総収入の一割を献金しなくてはならなくなると行く前から知っていましたか?
2あらかじめ知っていたら、あなたはこの教会に足を踏み入れていましたか?
3(たとえばカトリックがそうですが)什一献金をいわない宗派がほかにいくらでもあると知っていましたか?
献金は信仰心を示すものではなく、あくまで教会維持費でしかありません。金額=信仰心というのは繁栄の神学が流行している韓流の新興宗教から入ってきた考えです。
そうなんです。
返信削除全能の神は、私達人間の捧げるお金で養われないと、生きていけない様なのです。
これは一種の皮肉です。
十一は神に捧げるもの、十一は神の物だと講壇から言い張りますが、実態は教会維持費でしょう?
人件費である牧師の給料が大半でしょう?
牧会者を養うのは信徒の責任だと。
言ってみれば実態は会費であり、神など張りぼてそのものです。
何度も言いますが、皮肉です。
本当に、生ける真の神が居られると信じて言っているとは思いますが、結論「お金」です。宗教団体なので、お金がないと、成り立たない。
何かしらお金を生むような、商売をすれば良い筈です。すべてうまく行く。
元に戻します。では、十一を捧げたとしてそれで終わりなのか?会費を払っているのですから、それ相応のご利益があるはず。
まあ確かに、信仰の歩みで、あらゆる神が居られると言う体験をすれば、こじつけであっても、証しとなりますから。それはそれでご利益なのかも。しかし、それ以上に自主的運営ですから、たくさんの仕事が有りすぎるくらいありますよね。
これも皮肉ですけど、日曜日以外、牧師ってなにしてんの?( ・∇・)私ら平日、それは仕事内容で変わりますけど、家族養うために必死ですよね!
ある程度、ご自分達でやられてはいかがですか?( ・∇・)しかもそれだけではなく、
あれはダメこれはダメ。あれをしてくださいこれをしてください。奉仕!訓練!
これではクリスチャンと言うのは、全くおかしな存在になりますね。
だから最近、多くのクリスチャンがやっと気付いて、声をあげるようになったのではないでしょうか。
全く、おかしな世界ですよ。
献金ではなく「返金」という宗派もあります。どちらにせよ什一ですが。
返信削除新興宗教では神にささげるというので非常にいやらしく感じます。神を持ち出すがゆえ、金額が低い=信心が足りないと創価学会みたいなことになるのです。
神にささげるといいますが、聖書には「もっとも小さき者にしたのは私にしたのである」とあります。駅でビッグイシューを買ったら、「そんな金があるならもっと献金しろ」と怒られたという話を聞いたことがありますが、これは聖書の教えと矛盾していないでしょうか?ちなみにビッグイシューを買った信者を怒った聖職者はいつも「うちは聖書に忠実な教会だ」といっているそうです。これはどうみても悪い冗談としかいいようがないではありませんか。。
実は私の教会は「什一返金」という表現も使っていました。ここではわかりやすく「献金」という言葉にしましたが。
返信削除「神様のものを神様に返す訳だから、それは献金ではない。返金だ」ということで、献金とはまったく別物、つまり献金は献金でしっかりやりなさい、ということでした。詐欺なんだか極端な信仰なんだかよくわかりませんが。
什一献金で一番怖いのは繁栄の福音ではないでしょうか。これは「献金をたっぷりすれば、それ相応に神様があふれんばかりの祝福をしてくださる。健康も富も思いのままだ。逆に献金を惜しむと神様からの多大なばちがあたる」というものです。
返信削除もちろん献金は教団にしなくてはなりません。ビッグイシューを買うなどもってのほかです。衣食住すべて切り詰めて献金しなくてはなりません。そうでないと祝福を受けられないからです。
献金をしても祝福が受けられないというと、「あなたの信心(=献金)が足りない!」と責められます。しかしよく考えてみるとこれはかなりおかしな話なのです。なぜなら献金を受け取るのは、建前では神様ということになってはいますが、実際は教団なのです。なら祝福(健康や経済的なもの)を出すのはどこかといえば、教団ではありません。神様が出すのです。つまり十分に献金したとしても祝福が受け取れないのは、信心が足りないか神様の御心にかなわない祈りだったからということで済まされてしまいます。これをやらずぼったくりといわずしてなんというのでしょうか。
「返金」(!)一度だけ聞いたことがあります。
返信削除しかし、何から何まで「むしりとる」(けっつの毛まで抜かれる)と言う表現がピッタリです!
形を変えた詐欺以外の何者でもない。
完全にマインドコントロールだし、アヘンと言われても仕方がない。
悪用の極み。
神に返すのであれば、教会に行く必要はありません。
この発言は、最大級の皮肉であり、世の牧師達に聞かせて差し上げたいです!
あなたたちのやっている事は、単なる寄付集めですよ。
他人の財布をあてにして、よくわからない神を売り付けて、しかも、売り付けたものにたいしては何の責任も取らない。と取る必要がない。
だって、何が起こっても全能の神ですから、あれこれわかったような説明をすれば、解決してないのにしたかのように思ってしまう。
聖書から、断片的にどのような説教でも出来てしまう。
だから、詐欺師が横行するのです。
私達は何が正しいか、自分の頭でよーく考えて、正しくないと思えば、やめれば良いのです。
上半期献金、下半期献金というのは私は初耳ですね。
返信削除上半期の感謝を表わす、みたいな趣旨なんですか?
上半期下半期は聞いたことがありません。かなりのぼったくりだと思いました。私が見聞した中でこれはひどいと思ったのは、家を建てるためなのか店の改装資金なのかは忘れましたが、銀行から融資をようやっと受けられることになった人に、「銀行からの融資も収入とみなす。一千万借りるならそのうちの一割、つまり百万をこっちに献金しろ」と指導された話です。
返信削除野田様
返信削除fuminal k様
匿名様
今までの教会全てでありました。
上半期、下半期と言う言葉ではありませんでしたが、夏期献金、クリスマス献金でした゜゜(´O`)°゜
牧師のボーナスです((T_T))
ほかにも、野田様が述べられていたすべての献金に、ある所では、カン献金(毎月集める。会堂改築名目。ロングのコーヒーの空きカンにラベルをはり、これも信徒の手作業ですが、毎日100円や500円を使ったつもりで貯めれば、無駄遣いせず、神に捧げられるだろうと言う主旨)と言う物までありました。カネカネカネ…!
何から何までカネ!
夏期献金、クリスマス献金って、つまりボーナスの十分の一ってことですよね(ボーナス以外に、ということなら更に大変なことですが)。
返信削除それ以外にも上半期、下半期で献金する必要がある・・・ということなんですね。いったいどんな必要なのでしょう。
使途がはっきりした献金ならまだいいでしょうが、それにしても「これこれが必要だから献金して下さい」というのは、献金というより「募金」ではないでしょうか。
それと、融資も収入とみなすから十分の一払え、っていうのも酷いですね。
返信削除融資って借金ですよね。借金は借りたものであって、収入じゃないですよね・・・って当たり前のことだと思うんですが。
そうなんです。賞与支給の時に目掛けて奪い取ると言う寸法。
返信削除しかしながら、
まったく酷い話しですね。
借金まで収入と見なすなど。
完全に金づるにしていますね。
聖書に書いてある。神に捧げるものだから。こじつけと正当化。
思うに、日本にキリスト教が根付かない、クリスチャンが増えないと、嘆いている牧師さんたち。
それは、日本人が利口であって、ちゃんと実態を見抜いているからかも知れませんよ。