什一献金について思うこと・その3

2014年7月5日土曜日

「什一献金」問題

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 什一献金について書いたところ、沢山のコメントをいただいた。私個人の意見はともかく、それだけ関心の高いトピックなのだと思われる。
 おもしろかったのは、什一献金「肯定」のコメントが一つもなかったことだ。私の周囲には、什一献金を「当たり前」とする人が多いので、「什一献金って本当に聖書的なんですか」なんてとてもじゃないが聞けない(相手にもよるが)。だから什一献金否定のコメントを複数いただけて、やっぱりキリスト教界といってもイロイロなんだなと思えた。長く什一を捧げてきた私が今になってこういう疑問を抱いたのも、決して間違いではなかったと思えた。
 ちなみに私のまわりの什一献金肯定クリスチャンは、皆いい人ばかりだと付け加えておく。
 いただいたコメントにもあったけれど、什一献金を義務化していることを堂々と教会HPに載せるべきだ、というアイディアは、それはそれで必要なことかもしれない。初めて教会に行き、そういうことを何も知らないで信徒になった人には、「什一のお知らせ」はちょっとした衝撃だろうからだ(ちなみに私はこの口だった)。
 けれど什一献金に限らず、キリスト教教理や聖書解釈や、その他の習慣的・文化的側面は、教会(教団教派)によってそれぞれ違うだろう。たとえば洗礼は浸礼であるべきだとか、聖霊の働きをどう捉えるかとか、異言を認めるかどうかとか、同性愛嗜好をどう捉えるかとか。微々たる違いもあるけれど、中には到底相容れない違いもあるだろう。そして相容れない違いの中には、この什一献金もあると思われる。
 ところで什一献金肯定教会は、大雑把に言って2種類あると思う。
 1つは牧師が故意的に、ある程度の悪意をもって、什一献金を利用しようとする体制の教会だ。什一が必ずしも聖書的とは言えない点(旧約にしかその根拠がないとか)をあえて伏せ、いかにも聖書的なこと、神が当然求めていること、しないのは明らかに不信仰なことだと什一献金を位置付けている。これは什一の是非以前に問題のある教会だ。
 もう1つは、牧師の権限がそこまで大きくない教会で、多くの主要な教会員らが、什一献金を聖書的と信じて忠実に行っているところだ。こういう教会は、什一を義務とかでなく(実際には義務的なのだけれど)、より自然に、捧げるものだと認識している。
 什一献金の是非について論じ得るのは、この後者のタイプの教会であろう(以降はこのタイプに限定して書く)。
 ある教会の信徒は、その教会のやり方に多分に同意しているからこそ、信徒であるのだろう。だから異言にしても聖霊の働きにしても什一献金にしても、その信徒からすると全て「当然」のことであって、何ら疑念を挟む種類のものではない。だから自分たちの教会を紹介しようとする時、いちいち「什一やってます」などと断る必要性を(彼らは)感じないだろう。なぜなら彼らにとって、キリスト教信仰とはそういうものだからだ。もし「什一やってます」と断るなら、「洗礼についてはこうです」「聖霊についてはこうです」「異言についてはこうです」とか、いちいち断らなければならないのか、という話になると思う(また、什一などはその教会のメンバーシップに入ってはじめて発生するものであって、新来者にいきない払わせる種類のものではない、という事情もあるだろう)。
 もちろん金銭については別だ、という意見もあるだろうけれど、繰り返しになるが、什一献金肯定派にとって、キリスト教信仰とはそういうものなのだ。神を信じるなら捧げる、信じないなら捧げない、という原理のもとにある。だから彼らには「捧げない=神を信じていない=本当にクリスチャンなのか」というような図式になると思う。
 これはもちろん什一肯定派にとってそうだというだけの話で、そうしない人はクリスチャンではない、という話ではもちろんない。
 私がこの問題でどっちつかずの態度を取っているのは、最初の記事で書いている通り、今のところ判断しかねているからだ(というのも、什一を捧げる教会、捧げない教会とも確かに存在している)。それに什一献金をしているから立派なクリスチャン、あるいは什一献金を否定しているからまともなクリスチャン、とかいう評価もすべきでないと思っている。ただ2つめの記事で書いた通り、「心に決めた通り」にするよう聖書は勧めている訳だから、それでいいのではないかな、と思っている。つまり信じて什一を捧げるのも信仰の結果だし、信じて什一を捧げないのも信仰の結果であって、いずれにせよ信仰から出るものを、神様は祝福される、ということだ。
 くわえて、什一献金肯定派の教会は、もうそれがシステムとなっている。教会会計の主要な収入ともなっている。だからここへきて什一をやめろと言うのは、教会をやめろと言うのに近い。「そんな間違った信仰の教会はなくなるべきだ」と反対派は言うかもしれない。けれど、その教会が福音を最低限正しく伝えていて、それで救われる人がいるのなら、その教会をなくそうとすることは、神に対立するのと同じことではないだろうか。
 もちろん、牧師が私服を肥やそうとして什一を利用している、前者の教会はまったく別の話になる。そういう教会には上記の話はそもそも当てはまらない、ということを断っておく。

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