新来者の迎え方について思うこと・その2

2014年7月7日月曜日

「新来者の迎え方」について

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 新来者の迎え方として、過剰な歓迎はかえって迷惑であるばかりか、その後育む信仰にも悪影響を及ぼしかねない、というようなことを前回書いた。
 今回は、歓迎する側である信徒について書きたい。
 
 新来者の迎え方について、信徒を教育する教会がある。新来者には必ず笑顔で挨拶しなさいとか、その年齢性別に合った信徒が最初に対応しなさいとか、ある程度の情報を聞き出してから牧師に紹介しなさいとか、まあイロイロ言われる。それを受付の奉仕者だけでなく、主要な教会員はもれなく受けなければならない。そしてそういう歓迎を徹底するため、全信徒に、順番に受付の奉仕をさせる、というところもある。
 
 そういう教会は、いつも一様な歓迎が受けられるという点で、新来者には良いかもしれない。どの信徒も笑顔で挨拶してくれるから、居心地もいいだろう。信徒によって対応がバラバラで、ある人は熱烈、ある人は完全無視、みたいな教会に比べて、最初の一歩は踏みやすいのではないかと思う。
 
 そういう教会の牧師に言わせると、クリスチャンが新来者をあたたかく迎え入れ、信仰に導くことは、当然の義務ということになる。それはそれでわからないではない。新来者が隣でソワソワしているのに知らん顔、みたいなクリスチャンを見ると、聖書の教えはどこに行ったのかと思わなくもない。

 しかし、そういう牧師のもとだと、歓迎もうまくやらなければならない。新来者が二度と来なかったり、来たり来なかったりでなかなか「育たない」状況にあったりするなら、最初に歓迎した人間の責任にされかねない。明言されなくても、そういう雰囲気があったりする。場合によっては「未信者が救われる機会をみすみす逃した」などど、大重罪でも犯したみたいに言われかねない。
 
 だから信徒たちは歓迎一つにも必死だ。粗相があってはならない、上手にエスコートして気持ちよく過ごしてもらわねばならない、みたいな心理になる。歓迎がテクニカルになり、方法論になり、果ては取引先の重役を接待する会社員みたいな有り様になる。それは牧師に言わせると「ハイクオリティなクリスチャン」なのだそうだけれど。(これは「歓迎の強制」みたいな状態と言える)
 
 またその状態が進むと、こんどは信徒間で、歓迎の仕方の優劣を競う水面下の競争みたいなことも起こる。私はこんな風に歓迎できる、こんな接待ができる、と何気なく披露しておいて、誉められると「いえいえ、主の栄光です」みたいなことを言う。もちろん、皆が皆そんなんではないだろうけれど。(これは「歓迎自慢」とも言うべき状態だ)
 
 ここまでくると、本来歓迎されるべき新来者は、完全に「置いてけぼり」である。もちろん新来者本人はそんなこと気づかない。すごい歓迎だと感激さえするかもしれない。しかし「歓迎の強制」にしても「歓迎自慢」にしても、動機が間違っているのは言うまでもない。
 
 繰り返しになるが、この状態は新来者には「良い歓迎」であり、「良い教会」なのである。しかし、もうおわかりの通り、それが必ずしも「良い教会」とは限らない。

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