それは神の罰なのか

2014年7月10日木曜日

「神の罰」問題

t f B! P L
「神の罰」という表現がある。
 2011年の東日本大震災の時、これは日本に対する神の罰だ、とある有名な「大牧師先生」がコメントして物議を醸した。日本の不信仰と犯してきた罪の累積の結果、大地震と大津波という形で神の怒りが下ったのだ、という。
 私は当時被災地を行ったり来たりしていて、東京に戻った時にそのコメントについて知った。被災者の方々を前にしても同じことが言えるのか、と疑問に思ったものだ。
 聖書をみると、神に罰せられた、という人が少なからず出てくる(新約より旧約が圧倒的に多い)。出エジプト記などはその典型例集みたいなものだろう。実に多くの人々が罰せられ、命を落としている。罪を犯した為、神の怒りを受けた、というのがその基本パターンだと思われる。
 聖書は私たちにとって教訓でもある。だから神の罰を受けた人々は、反面教師としても提示されているのだと思う。だから私たちは神を恐れて、彼らに倣わないよう、生きるべきだろう。
 それはそれとして、東日本大震災は神の罰だったのだろうか。
 同じような話は他にもある。たとえばBSE(狂牛病)の発生は、飼育の効率化を図って餌に「肉骨粉」を混ぜたことに原因している。本来草しか食べない牛に、羊など数種の動物の骨や肉を食べさせ、手っ取り早く成長させようとした。その結果、牛が狂牛病に感染し、その牛を食べた人間がクロイツフェルト・ヤコブ病(難病)に感染してしまった。自然の摂理に反した報いだ、神の罰だ、という意見が出た。
 確かに、してはならないことをした、というのは事実だろう。食べたくもない羊や馬の肉や骨を食べさせられた訳だから、牛にしてみれば可哀想な話である。これは人間に例えるなら、死んだ人間の肉骨粉を密かに混ぜた食事を食べさせられた、みたいなものだ。そりゃあバチも当たる気がする。
 けれど、人間が⭕⭕したから罰を加える、というのは、新約聖書の神のイメージに反している気がする。それは人間社会では当たり前のことで、因果応報という言葉もある通り、悪さをしたら相応の報いを受けなければならない。けれど、それとまったく同じルールを、神と人間との関係に適用していいものだろうか。
 もし適用するとしたら、神は人間を許さない、ということになってしまう。罰とは、罪を許す代わりに与えるものだからだ。罰なしに、信じただけで罪を許すのが新約聖書の教えだったはずだ。
 このあたりは微妙な問題で、じゃあ何をしても許されるのか、カルト化牧師も一言謝れば全部帳消しにされるのか、みたいな話も出てくる。しかし、それは例としては極端すぎる。
 私は神が愛であると信じている。だから神が自ら進んで人間を罰してやろうと、罪を犯すのを絶えず監視している、みたいな風には思えない。逆に人間が不利益を被らないように、事前に(聖書を通して)警告を発しておられるのではないかと思う。
 たとえば前述のBSE問題について、私は「子やぎをその母の乳で煮てはならない」という箇所を思い出す。家畜も大切に、愛をもって扱うべきだ、という意味だろう。それをしないと大変なことが起こると、神はあらかじめ警告していたのではないだろうか。
 東日本大震災がなぜ起こったのか、なぜあんな悲劇があり得るのか、わからない。世界中で、今も沢山の悲劇が起きている。その理由はおそらく誰にもわからない。けれど少なくとも、「神の罰だ」とか軽々しく言ってはならないと思う。それは神を貶め、神のイメージを覆す行為だ。
 あの震災の被災地を前にした時、私はまったく言葉が出なかった。被災された方々にかける言葉がなかった。けれど胸のうちで、それでも神は愛なのだ、と信じたかった。今もそう信じたい。

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