イスラエル軍によるガザ地区侵攻が、国際的に問題視されている。その中でイスラエル傾倒主義の教会やクリスチャンが、盲目的なイスラエル擁護を続けている、というのが前回の記事。
今回は、クリスチャンとイスラエルの関係について考えてみたい。
イスラエルというと、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれの「聖地」であるエルサレムが有名であろう。そこはイエス・キリストが活動し、最期の時を過ごした地であるから、クリスチャンにとって、「憧れの地」であろう。キリスト教系の各誌も、聖地巡礼みたいな主旨のイスラエル・ツアーをよく紹介している。イスラエルに一度でいいから行ってみたい、と言うクリスチャンも少なくないし、私もその一人だ。
そういう聖地巡礼的な旅行は悪いものではないと思う。自分が信じているもののルーツを辿るということは、自分の信仰にとって何かしらの意味がある気がする。あるいはそういう難しい話を抜きにして、単純に、聖書に書かれているのはこの場所のことか、こんな感じだったのか、と観光するのも興味深い。
そういう個人レベルの興味関心でイスラエルに憧れるのは、個人の自由だし、何も責められるものではない。けれどその憧れが行き過ぎて、よろしくない方向に進んでしまうことがある。
ある牧師は、「もうすぐ再臨だからエルサレムで備えなければ。そしてエルサレムでイエス様をお迎えしなければ」と本気で言っていた。またある牧師は、エルサレムで「祈りの家」を開いていて、「やっぱり聖地での祈りは違うよ」と溜め息をつく(その心情的な部分は理解できなくもないが)。
もちろん、誰がどこで何をしようと自由だ。けれど、彼らのその「場所」に固執する信仰は、聖書に照らしてどうなのだろうか。
同じように「場所」に固執した人物がいた。新約聖書のヨハネの福音書に登場する、「サマリヤの女」だ。クリスチャンの間ではかなり有名な女性だろう。
彼女はイエス・キリストに救い主とは知らずに出会ったのだけれど、いろいろ話しているうち、この人は只者ではないと気づいた。そして礼拝場所について尋ねてみた。「私の先祖はこの(サマリヤの)山で礼拝しましたけど、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すべきと言ってますが」(かなり意訳)
彼女はイエス・キリストに救い主とは知らずに出会ったのだけれど、いろいろ話しているうち、この人は只者ではないと気づいた。そして礼拝場所について尋ねてみた。「私の先祖はこの(サマリヤの)山で礼拝しましたけど、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すべきと言ってますが」(かなり意訳)
それに対するイエス・キリストの返答は単純明快で、かつ要点をついている。「礼拝するのはここでもなくエルサレムでもない、という時が来ます。霊とまことをもって礼拝するのが真の礼拝者です」(かなり意訳)
つまり、場所なんて関係ないよ、ということだ。
他の聖書の箇所を探してみても、エルサレムで礼拝する優位性みたいなものは見つけられない。ただ一つ、復活後のイエス・キリストが弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1章4節・新改訳)と、エルサレムに留まるよう命じている箇所
がある。けれどこれは期間が限定された命令であって、今日まで続いているものではない。それにその期間、祈っていろとか礼拝していろとか、命令された訳でもない。
だからやはり、エルサレムで祈ったり礼拝したりすることの優位性や特権は、聖書中には見当たらない。たとえばあるグループが日本で礼拝し、またエルサレムでも礼拝したとして、どちらの礼拝の方が価値が高いとか低いとか、意味があるとかないとか、再臨の役に立つとか立たないとか、そういう話にはならない。
そうやってサマリヤの女は明確な答えを聞くことができた。そしてその記録が聖書にあるから、私たちも彼女と同様、明快な答えを得ることができる。つまり礼拝場所の問題ではない、という答えだ。
なのに上述のイスラエル傾倒主義牧師たちは、「サマリヤの女」を自身のメッセージに多用する割に、彼女が得た答えについてはまったく理解していない。依然として、「本当に礼拝すべき場所はエルサレムだ」とか言っている。「場所」崇拝もいいところだ。
彼らはそれで御心を行っているつもり、立派で最先端なクリスチャンのつもりなのだろうけれど、実は御心がまるでわかっていない、ということがわかっていない。
今日の結論)
イスラエルはクリスチャンにとって憧れの地であり、心情的に特別な地ではあっても、教理的に特別な効力を持つ地ではない。
0 件のコメント:
コメントを投稿