クリスチャンとイスラエル。「場所」崇拝という誤解について。

2014年7月21日月曜日

クリスチャンとイスラエル

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 イスラエル軍によるガザ地区侵攻が、国際的に問題視されている。その中でイスラエル傾倒主義の教会やクリスチャンが、盲目的なイスラエル擁護を続けている、というのが前回の記事
 今回は、クリスチャンとイスラエルの関係について考えてみたい。
 
 イスラエルというと、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれの「聖地」であるエルサレムが有名であろう。そこはイエス・キリストが活動し、最期の時を過ごした地であるから、クリスチャンにとって、「憧れの地」であろう。キリスト教系の各誌も、聖地巡礼みたいな主旨のイスラエル・ツアーをよく紹介している。イスラエルに一度でいいから行ってみたい、と言うクリスチャンも少なくないし、私もその一人だ。
 
 そういう聖地巡礼的な旅行は悪いものではないと思う。自分が信じているもののルーツを辿るということは、自分の信仰にとって何かしらの意味がある気がする。あるいはそういう難しい話を抜きにして、単純に、聖書に書かれているのはこの場所のことか、こんな感じだったのか、と観光するのも興味深い。
 そういう個人レベルの興味関心でイスラエルに憧れるのは、個人の自由だし、何も責められるものではない。けれどその憧れが行き過ぎて、よろしくない方向に進んでしまうことがある。
 
 ある牧師は、「もうすぐ再臨だからエルサレムで備えなければ。そしてエルサレムでイエス様をお迎えしなければ」と本気で言っていた。またある牧師は、エルサレムで「祈りの家」を開いていて、「やっぱり聖地での祈りは違うよ」と溜め息をつく(その心情的な部分は理解できなくもないが)。

 もちろん、誰がどこで何をしようと自由だ。けれど、彼らのその「場所」に固執する信仰は、聖書に照らしてどうなのだろうか。
 
 同じように「場所」に固執した人物がいた。新約聖書のヨハネの福音書に登場する、「サマリヤの女」だ。クリスチャンの間ではかなり有名な女性だろう。
 彼女はイエス・キリストに救い主とは知らずに出会ったのだけれど、いろいろ話しているうち、この人は只者ではないと気づいた。そして礼拝場所について尋ねてみた。「私の先祖はこの(サマリヤの)山で礼拝しましたけど、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すべきと言ってますが」(かなり意訳)
 
 それに対するイエス・キリストの返答は単純明快で、かつ要点をついている。「礼拝するのはここでもなくエルサレムでもない、という時が来ます。霊とまことをもって礼拝するのが真の礼拝者です」(かなり意訳)
 つまり、場所なんて関係ないよ、ということだ。
 
 他の聖書の箇所を探してみても、エルサレムで礼拝する優位性みたいなものは見つけられない。ただ一つ、復活後のイエス・キリストが弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1章4節・新改訳)と、エルサレムに留まるよう命じている箇所
がある。けれどこれは期間が限定された命令であって、今日まで続いているものではない。それにその期間、祈っていろとか礼拝していろとか、命令された訳でもない。
 
 だからやはり、エルサレムで祈ったり礼拝したりすることの優位性や特権は、聖書中には見当たらない。たとえばあるグループが日本で礼拝し、またエルサレムでも礼拝したとして、どちらの礼拝の方が価値が高いとか低いとか、意味があるとかないとか、再臨の役に立つとか立たないとか、そういう話にはならない。
 
 そうやってサマリヤの女は明確な答えを聞くことができた。そしてその記録が聖書にあるから、私たちも彼女と同様、明快な答えを得ることができる。つまり礼拝場所の問題ではない、という答えだ。
 なのに上述のイスラエル傾倒主義牧師たちは、「サマリヤの女」を自身のメッセージに多用する割に、彼女が得た答えについてはまったく理解していない。依然として、「本当に礼拝すべき場所はエルサレムだ」とか言っている。「場所」崇拝もいいところだ。
 
 彼らはそれで御心を行っているつもり立派で最先端なクリスチャンのつもりなのだろうけれど、実は御心がまるでわかっていない、ということがわかっていない。
 
今日の結論)
 イスラエルはクリスチャンにとって憧れの地であり、心情的に特別な地ではあっても、教理的に特別な効力を持つ地ではない。

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