2014年7月11日金曜日

それは神の罰なのか・その2

 前回書かなかったけれど、東日本大震災の惨禍は地震と津波でけでなく、福島の第一原子力発電所の事故もあった。
 放射線量の高い地域の住人は現在も避難生活を続けており、汚染冷却水の問題は未だ解決されたとは言えない。既に3年が経過しているけれど。

 この原発事故を指して「神の罰だ」という輩がいるけれど、それに対する違和感は前回書いた通りだ。その考え方は、新約聖書がいう「新しい契約」を反故にしてしまう。
 それに、「これは神の罰だ。だから日本は悔い改めなさい」という意見はもっともらく聞こえるけれど、そもそも順番がおかしい。神の罰が下る前に悔い改めなさい、というのが聖書のメッセージであって、罰があってからでは悔い改めても遅い。死んでしまっては、悔い改めることもできないからだ。罰とは、許されないから加えられるものだ。罰が加えられてからでは、許されるも何もない

 くわえて、こういう悲劇を全て「神の罰」に結びつけるなら、自然災害も大事故も、人為的な災難も、全て「神の罰」ということになる。だったら世界は神の罰だらけではないか。世界のあちこちでムチを振るい続ける無慈悲な「神」が、クリスチャンが信じる神なのだろうか。
 あるいは「これは神の罰」「これは偶発的なこと」などという明確な判断基準でもあるのだろうか。あったとしても、それはただの主観でしかないのではないだろうか。

 こういうふうに「神の罰だ」を持ち出す輩の背景には、その団体なり個人なりへの敵意があるのではないかと思う。憎らしい、許し難い相手に起こった悲劇を見て、「ほら、やっぱり罰が下った」というような心理だ。そのくせ自分たちに同様の悲劇が下ると、「神よ、何故ですか。私たちが何をしたというのですか」と、まるで神が不当なことでもしたかのように不満を並べる。
 それは自己中心というものだ。あるいは神の名を都合よく利用しているだけだ。

 東日本大震災の後、多くの国から、日本に支援の手が差し伸べられた。実際に来日してボランティア活動をしてくれた人も大勢いた。前述の「原発は神の罰だ」発言をした牧師の国からも、多くの若者が来てくれた。彼らはみな純粋に、多くの犠牲を払って、すすんで日本の為に働いてくれた。
 だからどの国が問題たとか、どの団体が問題たとか、そういうことではない、ということは付け加えておく。


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