福島第一原発の事故を「神の罰」と表現した牧師の話をしたけれど、同様の話は日本にもある。たとえば数年前、ある日本人牧師が使命に燃えてこう言っていた。「アメリカに裁きの火が降るから、行って悔い改めに導かなければならない」
その牧師は本当にアメリカに行って、ある教会を訪問した。出発する前に「アメリカの為に」とか泣きながら祈っていた。けれど記録を見る限り、現地でやったことと言えば、教会訪問とかプレイヤーウォークとか観光とかだったようだ。単にアメリカ旅行がしたかっただけではないか、と思えてならない。
その後、結局アメリカに火が降ることはなかった。それは牧師に言わせれば「私が言って語ったからだ」となる。いわゆる「ヨナ気取り」で、神の罰が回避されたという訳だ。けれどそんなことを言い出したらキリがない。今日もどこかの誰かの犠牲によって、世界が救われたかもしれない。突然電話がかかってきて、「あなたが今日無事でいられるのは自分のおかげだ、だから感謝してもらおう」とか言われたら、どうするだろうか。普通なら受話器を置くだろう。
それに、ヨナはニネベの町を一日歩き回って、悔い改めのメッセージを民衆に語ったのである。教会訪問とか、プレイヤーウォークとか、観光とかをしたのではない。また、ニネベ中がそれを真剣に受け止めて、悔い改めたのである。ここ数年間で、アメリカ国民が総出で悔い改めて祈ったという話があっただろうか。
前回、「神の罰」を持ち出す背景にはある集団や個人への敵対心がある、と書いた。けれど上記の日本人牧師のケースで言うと、単に私利私欲の為に「神の罰」を利用したに過ぎない。あるいは小さな承認欲求を満たす為に。敵対心の方が、まだ論じ甲斐があるというものだ。
自然災害や事故を取り上げて「神の罰だ」と言うのは聖書的でない、と既に書いてきた。けれど一方で、神の罰、神の怒り、神の裁きというものは確かに存在する。黙示録の「最後の審判」の記述もそれを支持している。他の箇所でも、ニセ預言者やニセ教師に「すみやかな滅び」があると言っている。
だから上記のような「神の罰」利用牧師にも、すみやかな裁きがあるだろう。現にそのような話が世界のあちこちから聞こえてくる。被害者にとってそれは必ずしも「すみやか」とは言えないだろうけれど。
しかし一方で、彼らニセ教師が罰せられるのを私たちが願うのも違うと思う。彼らが罰せられた時、「ほら、やっぱり罰が下った。悔い改めなさい」と言ってしまったら、私たちもまた「神の罰」を利用することになるからだ。
かつて、Sの十字架Cセンターに所属していた時の事を思い出しました。
返信削除代表者にこれこれの示し語りかけがあったから、これをします。主の御心です。そして○●チームと称して募集し、志のある者は派遣される。国内・海外であれ、それ相応の個人負担で行くわけです。
そして現地の教会を訪問したり、場所を借りて賛美したり・預言を語ったり・祈ったり・聖書を呼んだり・瞑想したり、或いは何か問題が起こっていると言う場所に出かけ「××スポット??」て霊の縛りをしたりして、時間を過ごす。
治安の悪い国にもチームが遣わされる事もある。
結果、行った人たちも行かずに教会に残っている人達も、「霊的に動いた」「まだ何も見えないが、主の働きが始まった」「チームが遣わされたから、御業がおこる」「霊のアタックがあって、熱を出した」「事故にあったからこれはアタックだ」等など・・・・。
本当に「ヨナ気取り」と言われても仕方が無いようなことばかりをしていました。でも、内部にいると本当にそう思えてしまうんですね。
多分今でも同じなのでしょう。
この行動、一体どんな意味があるのでしょうか?
現地で教会に仕えるとか、近隣の人々に伝道のために訪問をしたとか、ホームレスの人に話しかけたとか、街頭で(今は流行らないのかもしれませんが)伝道をしたとか、そう言う目に見えた「人に仕える」と言う事は必要ないのですかね。
また「神の罰」でも思い出したんですが、聖書に書かれていない事でも、日常で起きる事をすべて因果応報的な解釈をして、いつも主が見ておられるんだから、忠実な良い僕として今日も頑張ろう、と点数稼ぎのような信仰であった気がします。5時代の早天祈祷、聖書通読1日何章とか。
神を頂点としてピラミッドのような組織なので(組織図があった)、まるで軍隊か企業のようで指揮命令系統が一貫しており、上からの指示は「オーダー」と呼ばれ、絶対服従でした。信者がですよ。
全員が献身者と言う「弟子」の教会なので、他教会とは違うと意識付けがされていました。
カリスマの恵み等と言う甘言に騙されおよそ3年、家族で身を置きましたが、私が一番早く脱落しました。
まるで戦争に借り出される兵士の様な感覚で、本当に疲れ果ててしまいました。長男・次男がまだ保育園児だった頃でしたので、子供に大きな影響は与えていないのですが、苦労はかけました。
私自身、今となっては勿論良い経験は当然ありましたが、カルト的な宗教に嫌気がさして自分からある時「もう休ませてください」ときっぱり告げて、離れました。
その後です。その団体がカルト化していると全国的に問題になったのは。
ですから、宗教はもうこりごりです。
聖書は全て一字一句誤りが無い、などと言う牧師はぶん殴って差し上げたいです。無知も甚だしい。歴史を良く調べなさいと、聖書からどのような講義でも説教でも出来るのですから。
嫌な思い出を語ってしまいました。