それは神の罰なのか・その3

2014年7月13日日曜日

「神の罰」問題

t f B! P L
 福島第一原発の事故を「神の罰」と表現した牧師の話をしたけれど、同様の話は日本にもある。たとえば数年前、ある日本人牧師が使命に燃えてこう言っていた。「アメリカに裁きの火が降るから、行って悔い改めに導かなければならない
 その牧師は本当にアメリカに行って、ある教会を訪問した。出発する前に「アメリカの為に」とか泣きながら祈っていた。けれど記録を見る限り、現地でやったことと言えば、教会訪問とかプレイヤーウォークとか観光とかだったようだ。単にアメリカ旅行がしたかっただけではないか、と思えてならない。

 その後、結局アメリカに火が降ることはなかった。それは牧師に言わせれば「私が言って語ったからだ」となる。いわゆる「ヨナ気取り」で、神の罰が回避されたという訳だ。けれどそんなことを言い出したらキリがない。今日もどこかの誰かの犠牲によって、世界が救われたかもしれない。突然電話がかかってきて、「あなたが今日無事でいられるのは自分のおかげだ、だから感謝してもらおう」とか言われたら、どうするだろうか。普通なら受話器を置くだろう。
 それに、ヨナはニネベの町を一日歩き回って、悔い改めのメッセージを民衆に語ったのである。教会訪問とか、プレイヤーウォークとか、観光とかをしたのではない。また、ニネベ中がそれを真剣に受け止めて、悔い改めたのである。ここ数年間で、アメリカ国民が総出で悔い改めて祈ったという話があっただろうか。

 前回、「神の罰」を持ち出す背景にはある集団や個人への敵対心がある、と書いた。けれど上記の日本人牧師のケースで言うと、単に私利私欲の為に「神の罰」を利用したに過ぎない。あるいは小さな承認欲求を満たす為に。敵対心の方が、まだ論じ甲斐があるというものだ。

 自然災害や事故を取り上げて「神の罰だ」と言うのは聖書的でない、と既に書いてきた。けれど一方で、神の罰、神の怒り、神の裁きというものは確かに存在する。黙示録の「最後の審判」の記述もそれを支持している。他の箇所でも、ニセ預言者やニセ教師に「すみやかな滅び」があると言っている。
 だから上記のような「神の罰」利用牧師にも、すみやかな裁きがあるだろう。現にそのような話が世界のあちこちから聞こえてくる。被害者にとってそれは必ずしも「すみやか」とは言えないだろうけれど。
 しかし一方で、彼らニセ教師が罰せられるのを私たちが願うのも違うと思う。彼らが罰せられた時、「ほら、やっぱり罰が下った。悔い改めなさい」と言ってしまったら、私たちもまた「神の罰」を利用することになるからだ。

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