2014年7月9日水曜日

新来者の迎え方について思うこと・その3

前回のまとめ
 新来者の歓迎の仕方を、信徒に教育する牧師がいる。良質な歓迎が徹底されるよう、厳しく指導する。新来者が定着しないと、責任問題になることもある。
 結果、信徒は新来者よりも「歓迎の行為」を重要視するようになる。そして「歓迎自慢」に走るようになる。
 以上、前回のまとめ。
 
 そういう牧師に言わせると、真に新来者を導くのは、「礼拝」そのものだそうだ。「礼拝そのものが人を導く」と、力説するのを聞いたことがある。
 神について何も知らない未信者でも、「本物の礼拝」に参加するなら、神の偉大さや愛が超自然的に啓示され、感動し、自ずと神を信じるようになる、という。つまり神ご自身がその人を導く、だから教会は本物の礼拝を捧げていさえすればいい、という訳だ。

 だったら歓迎にそんなに力を入れる必要があるのか、礼拝だけして新来者は放っておけばいいのではないか、という話になる気がする。まあそこは置いておくとして、「本物の礼拝」とは何か、について考えたい。
 
 まずそういう牧師の言う「本物の礼拝」は、啓示に満ちているそうだ。それも未信者がいきなり神を信じてしまう程、明確で衝撃的な啓示らしい。罪が示されたり、それを許す神の愛が示されたり、というようなことであろう。
 次に感動があるという。しかしそういう神の啓示を受けたら、大抵の人は感動するだろう。たとえば大変な苦労をしてきた人が、初めて行った教会で、「あなたは今まで本当に苦労してきましたね」とか言われたら、そりゃあ感動するだろうし、「なぜ自分のことがわかるんだ? やはりこれが神様なのか!」とかいう反応にもなるだろう(それは単純な占いの手法だけれど)。
 そしてそういう「啓示」と「感動」を経て、入信へと至る人もいる(そういう入り方が悪いかどうかという話ではない)。
 なるほど、確かに礼拝が人を「導いて」いる。
 
 けれどそういうスタンスで礼拝を考えていくと、毎週毎週「啓示」と「感動」がなければならない、でなければ不信仰だ、みたいな話になる。だから賛美礼拝を盛り上げる為に楽器の音を大きくしたり、いたずらに長く賛美することで人工的な恍惚状態に持っていったりする。また説教の「つかみ」に笑いを存分に入れ、最後は感動話で大いに泣かせるといった「ドラマチックなメッセージ」を演出しようとする。祈りの中で「神はこう言われる」を連発したり、個人預言で一人一人に「神の言葉」を聞かせたりして、霊的な事象が満ち溢れているように見せようとする。そういうことで神様が礼拝にダイレクトに働いているような、不思議な力が満ちているような、楽しみと喜びと感動に溢れているような、そんな感覚を作ろうとする。それで「この教会の礼拝は生き生きしている」「神のいのちに溢れている」とかいう評価を得る。そのほとんどが人工物であるにもかかわらず。
 
 こういう礼拝は受けが良く、「事情通」のクリスチャンらはこぞって「今日も恵まれました」とか言う。だから更にそういう方向に流れてしまう。
 
 しかしそういう教会(牧師)が注目するのは礼拝が盛り上がるかどうか、楽しいかどうか、感動的かどうか、といった点に尽きる。つまり礼拝という行為と、それが人々に与える影響の方が大切なのであって、礼拝対象であるべき神様をそっちのけにしている。
 新来者を心から歓迎することより「歓迎している自分」に酔うのと同じで、神様を心から礼拝するより、「礼拝で盛り上がっている自分」に酔っているのだ。いずれにせよ、本末転倒である。
 
 そういう礼拝が本当に「本物の礼拝」なのかどうか、考えてみれば答えは明白であろう。
 結局のところ、新来者も神様も大切にできない教会。それは本当に教会なのだろうか、と私は疑問に思う。

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