クリスチャンは「成長」しなければならない、と主張する牧師がいる。
その根拠は創世記の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」とか、新約聖書の「完全におとなになって・・・」とかだ。
だからクリスチャンなら、「成長」して立派な信仰者にならなければならない、成長しようとしないのは罪だ、などと言う。そして人間一人では成長できないので、師匠の指導とかが必要になる、ということで、「弟子訓練」なんかが始まっていく。
つまりクリスチャンは牧師とかリーダーとかの下に「弟子入り」しなければならず、そこで何年も何十年も下積みし、晴れて「のれん分け」されるまでは自立できない、という訳だ。キリスト教はいつから職人みたいな徒弟制度になったのだろうか。
ある教会グループなどは、「弟子訓練プログラム」なるものをマニュアル化している。一度見せてもらったことがあるけれど、けっこう分厚い本だった。それによると、「師」となる者は「弟子」のあらゆる情報を把握しておかなければならないようだ。たとえば仕事やら趣味やら誕生日やら、家族構成やら親戚関係やら、甥がいつ生まれたとか何だとか。そういうのを把握しておかないと、いざという時に適切なアドバイスや指導ができない、ということだろうか。そして一週間に一回とか二回とか、「師」と「弟子」が集まって、その本を進めていくという。内情はよくわからないけれど、大変ご苦労な世界である。
未信者がこういう教会でクリスチャンになってしまうと、キリスト教を「そういうもんだ」と思ってしまう。だから疑問に思うことがない。そもそも成長ってなんだ、とも思わない。だからやはり、教える者の責任は大きい。
「成長」の聖書的根拠を見てみる。まずは旧約聖書の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」である。これは単に子孫繁栄を言っているだけだ。成長とは関係ない。あるとしたら、それは身体の自然な発育のことである。そして人間は気合を入れて頑張らなくても、身体はかってに成長していく。そして子孫を残せるようになる。そもそも努力など必要ない。
次に新約聖書である。「成長」について書いている代表的箇所を挙げると、第2テモテ3章16~17節、第2ペテロ3章18節、エペソ4章13節であろう。しかしそれが支持するのは聖書の有益性であり、キリストの関する知識についてである。牧師の下で訓練を受けろとか、弟子の個人情報を全て覚えろとか、教会独自の課題をこなせとか、そういう努力で獲得する種類のものではない。そうでなく「恵み」として「成長」することを聖書は言っている。努力して、汗水流して師匠に仕えて成長しなければならないというのは、単なる律法主義である。
だからそれがクリスチャンの成長だとか信じている人がいるとしたら、早々に目を覚ました方が良いと私は思う。
もちろん牧師の為に仕えるとか、理不尽なことに我慢して働くとかいうことを通しても、人は「成長」するだろう。忍耐力がつくとか、空気を読めるようになるとか、上司の機嫌を損ねない方法を知るとか、そういう種類の成長だ。そういう成長を望むならあえて止めはしない。けれど、それが聖書の言う成長とは全く何の関係もないということは、ちゃんと知っておくべきだ。
その昔、35年ほど前になりますが、いわゆる「教会成長」が声高に叫ばれ、何となくキリスト教の未来が明るく感じられた時期もありました。私も高校生でしたので、自分の未来と掛け合わせての思いだったかも知れません。アメリカの大きな影響と共に、例の韓国の牧師による布教が大手を振って、「弟子訓練」等が輸入されたものと思われます。
返信削除その後、近年大きな問題を起こした「弟子訓練」の牙城とも言うべき、S牧者がありますが、あの牧師が大々的に国内でシンパをつくり、私自身も何度もその講演会を聞きに行った事もあり、実際何度もその働きに誘われました。今となっては、「行かなくて良かった」と言う思いと共に、今でもその中枢に知人がいる、と言う複雑な立場にあります。
前置きが長くなりましたが、まるで企業か軍隊の様に、「訓練」を言う教会群があります。またそうでなくとも、私が今所属する単立教会の様に、「リーダーシップ」「QT」等の学び(キリスト教ではなぜか「学び」と言う)があったり、多種多様では在りますが、「成長」する事を目標にしますね。
確かに「パウロ教」とも言うべき現代キリスト教の福音派・聖霊派では、ただ救われた「クリスチャン」では駄目で、いかに神の御心に忠実であるか、いかに神の喜ばれる生活をするか、朝から晩まで一日中御心を求めるのが良いのですとか、とにかく「教会に繋がる」事を第一優先にしたがります。考えてみれば当たり前で、「教会(宗教ではないと言いますよね)に名を借りた商売」なので、人が熱心になってくれないと、献金が集まらないからです。
だから日曜日だけでは駄目で、水曜日等の祈祷会も重要です。祈らないのですか?自分や家族だけで祈っていても駄目です。心を合わせて課題を祈る事が重要です・・・・・・等など・・・。
成長とは何でしょうか?人間社会において切磋琢磨され、自然と成長しないでしょうか?牧師は霊的成長ですと言うでしょう。言い分であって、一部の福音派教会が言うように「この世は・世の物は・イエス様が第一・聖書が第一・・・・」等とマインドコントロールされ、それを盲信して行動していれば、社会から爪弾きになる事は明白で、仕舞いには「マイノリティ」などという始末。
そんなに社会に敵対して固執し集まって、一体何をしようというのでしょう?
教会やクリスチャンってそんなに特別なのでしょうか?
私には、これによって利益を得ている人にひたすら貢献しているとしか思えません。
論点が大幅にズレましたが、
自分と神との関係-言ってみればこれだけで良いのではないでしょうか。
新興宗教の団体で教会成長研究所とかいう団体があると記憶しています。ここで学んだ教祖たちは評判の悪い人が目立ちます。
返信削除教会成長は新興宗教では大流行ですが、教会成長をやたらという教会をみると、人数とか献金額とかの数字に出てくるものに関しては成長しているのかもしれませんが、教義に関して言えば拙劣きわまりないものであり、こんな教会に通っていても個々の信者の信仰の成長はありません。
とどのつまり「教会成長」というのは、外見的なものや量的なもの(信者数や献金額)が以前と比べてどのくらい伸びたかということであり、営利追求事業で「売り上げを伸ばすためにはどうすべきか?」となったときに、怪しげなセミナー会社に社員の研修を依頼するのと似たようなものではないでしょうか。
本当に大切なものは目にみえないものだと思うのです。成長をいうなら、個々の信者の信仰の成長を重視すべきです。どうしても外見的にわかりやすいものでというなら、せめてキリスト教に関する知識が以前と比べてどれだけ増えたかを重視すべきです。
現実に教会成長をいう新興宗教は基礎的な教育がおろそかで、信者にキリスト教の構成について説明させると、「キリスト教はカトリックとプロテスタントの二種類で成り立っています」などといいます。初歩的なことから間違ったことをいうので驚きあきれることしきりで、こういった新興宗教の教会では、クリスチャンとして最低限知っておくべき知識すらろくに教えていないとわかります。
ビュン教祖はエロ教祖として日本中に知られた存在ですが、倍加なる失笑ものの表現も使うのですか。倍加という言葉をどこで知ったのかはわかりませんが、ひょっとすると実践倫理からかもしれません。あそこも上廣教祖のカルト新興宗教ですが、倍加という言葉を盛んに使います。とはいえ、実践倫理の倍加は影倍加ともいい、勝手に自分以外の人の名前(たとえば子供の担任の先生等)を登録し、その人の名前で月に三千円を教団に収めるというものです。本人の了承も得ずに勝手に名前を登録するとは、いくら本人には経済的被害はないとはいえ不愉快なものです。
返信削除ビュン教祖が信者や献金収入を増やそうという意味で、この倍加という言葉を使ったという話ですが、この話に「ああ、数字に現れ出るものを重視するコリアンらしいものの考え方だなあ。」と思いました。倍加だの教会成長だのという発想こそが、新興宗教でよくある繁栄の神学につながっていくのです。信者数と献金収入を増やし、大きな建物を建てることこそが、聖職者として一流のしるしだという考えは、明らかに聖書の教えとは正反対といえるでしょう。コリアンは非常に虚栄心の強い民族ですので、繁栄の神学は彼らの国民性にぴったりくるのです。そして教祖様は生き神様として崇め奉られますので、偉大なる教祖様の説法に異議を唱えるのは、北朝鮮で金日成の一族による支配に反対するのと同じですので、フルボッコになるのは当然です。カルト新興宗教は北朝鮮と同じで、疑問を持つことが戒律で禁止されているのでしょう。
野田様
返信削除「明けまして倍加」は、知人からよく聞いていましたのを思い出しました。
本当に新興宗教ですね。教会を商売の巣にしています。イエス様はどうされたのか?聖書をよく読んで欲しいですね。
匿名様
実践倫理・・・・そうですか。真似と言うかネタ本の類ですね。
あの、日本でも一部の人には大牧師先生(笑)と名高いチョーさん(長さんではない)も、「信念の魔術」と言うネタ本が彼の行動の全て、と言う記事を読みました。コリアンはやはり、キリスト教さえシャーマニズムと儒教が混濁した宗教となって、雨後の筍の如く出没して日本にやって来て、害毒を垂れ流している始末です。
福音派・聖霊派の新興勢力は、単立も含めて大体アメリカ・コリアンの2大勢力にやられています。まったくどうしようもない馬鹿共です。
実は一時、Sの十字架Cセンターに所属した事があるのですが、ここは既存の教会を「世的なサークルである」と批判し、自分たちこそが神の御心を行っている教会だ、と言っていまして、代表者の主からの(?)示し語り掛けによって(?)、多種多様な聖書解釈が編み出されていますが、中でも今回の主題に沿った事では、「弟子と群集」(聖書に出てくる使徒たちと群集の事)で、あなたは弟子になりたいですか?それとも群集になりたいですか?と言うような寸法で、二者択一を迫り、信仰があるならば弟子でしょ!と言う無言の聞き従いが推奨されていました。
ある神学校(独自でやっており、首都圏以外の地方の人はテープで授業となる。当たり前であるがこれもお金が必要)の授業の時、「弟子訓練」の事が批判的に出てきて語られ、「あんなやり方ではだめ。御心でない」と痛烈でした。
そう言う考え・言動の根底には「自分が一番。この働きこそが御心。あとはl教会とは言っても、聞き従っていない。」自分こそ自分こそ・・・・・・・・。
いわゆる「主よ。私たちはあなたの御業を行い、奇跡を行い、人を救ったではありませんか」
「お前達等知らない。行ってしまえ」
このやり取りがピッタリと当てはまるのは、正に彼ら福音派・聖霊派等の新興勢力でしょうね。