クリスチャンと成長

2014年7月15日火曜日

「クリスチャンと成長」の問題

t f B! P L
 クリスチャンは「成長」しなければならない、と主張する牧師がいる。
 その根拠は創世記の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」とか、新約聖書の「完全におとなになって・・・」とかだ。
 だからクリスチャンなら、「成長」して立派な信仰者にならなければならない、成長しようとしないのは罪だ、などと言う。そして人間一人では成長できないので、師匠の指導とかが必要になる、ということで、「弟子訓練」なんかが始まっていく。
 つまりクリスチャンは牧師とかリーダーとかの下に「弟子入り」しなければならず、そこで何年も何十年も下積みし、晴れて「のれん分け」されるまでは自立できない、という訳だ。キリスト教はいつから職人みたいな徒弟制度になったのだろうか。

 ある教会グループなどは、「弟子訓練プログラム」なるものをマニュアル化している。一度見せてもらったことがあるけれど、けっこう分厚い本だった。それによると、「師」となる者は「弟子」のあらゆる情報を把握しておかなければならないようだ。たとえば仕事やら趣味やら誕生日やら、家族構成やら親戚関係やら、甥がいつ生まれたとか何だとか。そういうのを把握しておかないと、いざという時に適切なアドバイスや指導ができない、ということだろうか。そして一週間に一回とか二回とか、「師」と「弟子」が集まって、その本を進めていくという。内情はよくわからないけれど、大変ご苦労な世界である。

 未信者がこういう教会でクリスチャンになってしまうと、キリスト教を「そういうもんだ」と思ってしまう。だから疑問に思うことがない。そもそも成長ってなんだ、とも思わない。だからやはり、教える者の責任は大きい。

「成長」の聖書的根拠を見てみる。まずは旧約聖書の「生めよ、ふえよ、地を満たせ」である。これは単に子孫繁栄を言っているだけだ。成長とは関係ない。あるとしたら、それは身体の自然な発育のことである。そして人間は気合を入れて頑張らなくても、身体はかってに成長していく。そして子孫を残せるようになる。そもそも努力など必要ない。

 次に新約聖書である。「成長」について書いている代表的箇所を挙げると、第2テモテ3章16~17節、第2ペテロ3章18節、エペソ4章13節であろう。しかしそれが支持するのは聖書の有益性であり、キリストの関する知識についてである。牧師の下で訓練を受けろとか、弟子の個人情報を全て覚えろとか、教会独自の課題をこなせとか、そういう努力で獲得する種類のものではない。そうでなく「恵み」として「成長」することを聖書は言っている。努力して、汗水流して師匠に仕えて成長しなければならないというのは、単なる律法主義である。
 だからそれがクリスチャンの成長だとか信じている人がいるとしたら、早々に目を覚ました方が良いと私は思う。

 もちろん牧師の為に仕えるとか、理不尽なことに我慢して働くとかいうことを通しても、人は「成長」するだろう。忍耐力がつくとか、空気を読めるようになるとか、上司の機嫌を損ねない方法を知るとか、そういう種類の成長だ。そういう成長を望むならあえて止めはしない。けれど、それが聖書の言う成長とは全く何の関係もないということは、ちゃんと知っておくべきだ

QooQ