初めて教会に行く前にすべきと思うこと・その4。過去の自分に忠告するとしたらの続き。

2014年7月30日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 教会に通い始めた頃の自分自身に忠告したいことの続き。今の自分だったら、彼に何と言うか。
 
・「いろいろな教会を見て回るのはいいけれど、放浪癖がつかないように」
 教会巡りが過ぎて、結局どこにも定着できない、ということがある。実際そういう人は少なくない。根無し草みたいに教会を転々とする結果、何年たっても何も積み上がらず、信仰が育まれない、ということにもなる(べつにそれでいいじゃん、という意見もあるし、同じ教会に通っていれば信仰が育つのか、という議論もあるけれど)。
 教会を転々としてしまう原因は2つあると思う。

 1つは信徒側の問題である。教会でちょっと嫌なことがあると、簡単に「もう行かない」となる。それを方々で繰り返すから、あちこち転々とすることになる。
 もちろん程度の問題はあって、物凄い理不尽な目に遭っても我慢して通えということではない。そういう教会は早々にお暇した方がいい。
 ただ教会も人間の集まりである以上、多少の軋轢は避けられない。一般常識的に、人間関係において忍耐すべきラインはある。そういうのを少しも忍耐できず、誰が悪い彼が悪いと言うのは、クリスチャンだとか教会だとかいう以前の問題である。そういうことでいちいち逃げ出していたら、キリがない。
 前回も書いたけれど、ある程度の期間いないと見えてこないこと、わからないことがある。そういうこと(良いも悪いも含めて)に気づかないまま去ってしまうのは、本当にもったいない。

 もう1つは教会側の問題である。ぶっちゃけて言うと、その教会(あるいは牧師)を信頼できるかどうかだ。信頼できない教会に通い続けることは(おそらく誰だって)できない。行く先々の教会がどれも信頼に足らないなら、やはり転々とすることになる。
 ただこれは、教会側が信頼感を与えられないという側面の他に、信徒の側の警戒心が強すぎたり、基準が高すぎたりという側面もあると思う。特にカルト化教会で酷い目に遭ったという人は、なかなか次の教会を決められないだろう(その場合、むしろ教会に行こうと思うだけでもすごいことだ)。
 
・「奉仕を軽々しく引き受けてはいけない」
 日本の教会は奉仕の宝庫である。歴史の浅い教会は特にそうだ。伝統的な教会ほど組織的、体系的にまとまっていて、奉仕量は少ないようであるが。
 
 特に注意が必要なのが、活動的な教会、牧師の野心が見え隠れするような教会である。奉仕がどんどん増えていくからだ。成長志向、というより拡大志向が強くて、伝道集会やらイベントやら事業やら、とにかく何でもやって人を増やそう、教会を大きくしようという話になる。そういう教会は「信徒が奉仕するのは当たり前」という風潮があるから、一度奉仕をしだすと、次々と委ねられて身動きができなくなってしまう。いわば「奉仕地獄」である。
 
 そうなってしまうと、クリスチャンの本来あるべき姿からどんどん離れていってしまう。奉仕が忙しくて礼拝どころでなく、聖書を読む暇もなく、祈る時間もなく、家族や友人に心を向ける余裕もない、という具合だ。一体何の為の教会だという話になる。
 
 だから通いはじめてすぐ奉仕の話が出る教会は、要注意である。
 
 しかしこれには、男性的な性質も絡んでいると思う。つまり責任を持ちたい、役に立ちたい、アテにされたい、という性質だ。承認欲求に通じるものもある。教会の中での自分の居場所・地位を、何か「すること」で確立しようとしてしまうのだ。もちろん個人差があるだろうし、女性でもそういう人がいるだろうけれど、要注意である。こういう人が上記のような教会で奉仕しだすと、いいように利用されてしまう
 
・「神は一人にしか語らない方ではない。牧師に何と言われても、最後は自分でちゃんと考えて決めなさい」
 神はあなたにとって重要な事柄を、あなたの牧師にだけ語り、あなたを含む他の誰にも語らない、ということはしない。そうだとしたら不公平である。それに一人にしか語られないとしたら、その真偽を確かめる方法がないから、本当に神からのものかどうかわからない。
 もちろん期日指定で「こうなる」と語られれば、その真偽はいずれ明らかになる。けれど昨今の「語られた」は、そのへんが曖昧なものばかりだ。
 
 たとえば「今が献身の時だ」と牧師経由で「語られた」とする。それに従って献身した結果、ひどい貧乏になってしまったとする。ではそれは間違いだったのか。しかし牧師は言う。「献身には困難と戦いが付きものだ。イエス様だって税金が払えないくらい困窮したのだから、私たちも同じところを通るのは当然ではないか」
 
 そういう訳で苦労していくのだけれど、それが本当に「主の導き」だったのかどうか、実はいつまでたってもわからない。良いことが起これば「やっぱり」となるし、悪いことが起これば「試練だ、戦え」となるからだ
 
 そしてまた、自分自身はいつまでたっても神様に直接語られない。いつも牧師経由で語られる。神様ってそんなに人見知りなのだろうか
 
・「以上、今はわからなくても、いずれわかる。だからちゃんと覚えておきなさい」
 熱心は人を盲目にする。何かに夢中になっている時、人は忠告に耳を貸さないものだ。特に必要な忠告には
 カルト化教会で酷い搾取を受けていても、その人からすれば正真正銘の「信仰の行い」なのである。だからそれにどんなに反対しても忠告しても、聞く耳を持ってくれない。
 だからそういう人には、可哀想だけれど、とことん苦しんでもらうしかない。そしていつか破綻した時のために、今のうちに忠告しておくのだ。そうすれば破綻した時に、「ああ、あの忠告は本当だった」とわかってもらえる(かもしれない)。
 
 以上、教会で失敗する前の自分自身に言いたいことを書いてみた。もちろんこれは不可能なのだけれど、最近教会に通い始めたばかりの方には、何かしらのアドバイスになるかもしれない(そうなればいいと思っている)。
 他にもこんなことが言いたい、あんなことが言いたい、ということがあれば、是非教えていただきたいと思う。

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