クリスチャンと成長・その2

2014年7月16日水曜日

「クリスチャンと成長」の問題 教育

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 昨今、「弟子訓練」によって訓練されるクリスチャンが(一部で)増えている。けれど、その「訓練」によって得られる成長は、聖書が言う成長とは違う、ということを前回書いた。
 今回はホームスクール、チャーチスクールでの「成長」について書きたい。特に後者についてだ。

 チャーチスクール推進派牧師に言わせると、チャーチスクールは、子どもたちの「霊的成長」にとって重要な位置を占めている。幼いうちから、日曜は教会、平日は教会が運営するスクール、土曜は教会奉仕、という具合に「教会三昧」で過ごすなら、子どもは目覚ましい霊的成長を遂げる、という。そこに家庭の協力もあって、たとえば家での「ディボーション」とか、見るテレビ番組とかが監督されるなら、子どもはまさに24時間「主の教育」漬けという訳だ。

 そういう徹底教育の結果、子どもたちはダニエルのような優秀さを身に着け、「この世」に大きなインパクトを与えられるようになる、そして彼らの世代が日本を変えていくのだ、というのが牧師の「ヴィジョン」だ。

 その是非は別として、この構造は前回書いた「弟子訓練」と同じだ。もちろんスクールだから教師と生徒という関係だけれど、実情は師弟関係である。師匠が弟子をみっちり訓練する。それも平日も週末も関係なく付きっきりになるから、時間量で言えば、一般社会人が受ける「弟子訓練」より圧倒的に長い。そこまで徹底するなら、一定の成果も得られるというものだ。逆に得られなければおかしいだろう。

 そういう状況下、児童期から少年期、そして青年期にかけて、子どもが成長していく。牧師や教師らはそれを見て、「霊的成長」を実感する。しかし冷静に考えてみれば、子どもは小学校から高校にかけて、かなり大きく成長するものだ。身体はもちろん、思考力も判断力も一人前になっていく。そのあたりは公立学校かチャーチスクールかの差なんて、ほとんどないだろう。
 そして思春期に入ると、誰でも人目を気にするようになる。自分がどう見られているか、どう振る舞うべきかと考えるようになる。チャーチスクールの生徒で言えば、どういう言行が信仰的に見られるか、どうすれば教師や親を満足させられるか、と少なからず考えるようになる。だから教師や親から見た「霊的成長」が、本当にその子の「霊的成長」なのかどうか、わからないはずだ。

 子どもを霊的に敏感に育てたい、と張り切る親がいるけれど、それにも同じことが言える。成長した子どもが見せる「霊的敏感さ」に、作為が含まれていないとどうして言えるだろうか。

 もちろん、すべての子どもがウソをついていると言いたいのではない。純粋に信仰に生きたいという子もいるだろう。しかし子どもにしても大人にしても、人の心とは、単純に白か黒かに分かれるものではない。誰もが正しい部分と、そうでない部分とを持っている。信仰的な人にも真実でない部分があるし、普段不信仰と見られる人にも真実な部分がある。

 それは人として当たり前のことだ。しかし、日曜は教会、平日はチャーチスクール、土曜も教会、家に帰れば親が聖書の話、という徹底した状況下で暮らすとなると、多くの子は自分の暗部をさらけ出すことができなくなる。それをひた隠して、立派な信仰の持ち主であるように見せようとする。そうしなければ、生きられないのだ。

 その結果、キリスト教界で生きていく分には不足のない青年へと、成長していくかもしれない。しかしその「成長」が人間として健全なものなのかどうかは、議論の余地があるだろうと思う。

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