2014年2月28日金曜日

アピールされる善行、アピールされない善行

自分の善行をよくアピールするクリスチャンがいる。困っている人をこんな風に助けたとか、病人を見舞いに行ったとか、経済的援助が必要な人をこれだけ支えたとか。それはそれで素晴らしいことで、しないよりした方が良い。しかし、それを人前でアピールするのはどうなのだろうか。

たとえば牧師が、講壇からそういうアピールをするかもしれない。それは一つには、クリスチャンは見返りを求めず善行をすべきだと教える為かもしれない。しかし一方で、単なる自慢話かもしれない。そして自慢話であるなら、聖書が言う善行の精神からはズレている。アピールした時点で、それは見返りを求めない善行ではなくなるからだ。

有名なメッセンジャーらが、自分の経験した「リバイバル」について語ることがある。その手の話には、あるパターンがある。彼らが始めた最初の善行はとても小さな、些細なものだったけれど、それが爆発的に広がり、地域を巻き込む大きな活動になっていった、というパターンだ。
彼らはその最初の善行を「小さな愛の行動」とか表現する。公園に寝泊まりするホームレスの方を気の毒に思って足を洗ってあげたとか、どれも非常に感動的なエピソードである。

それらは確かに誰にも知られず、見られず、何の見返りもない善行だったはずだ。しかし聖書はそもそも、「愛」とはそういうものだと言っている。有名なメッセンジャーが言うまでもなく、牧師が講壇でさも奥深い真理を語るように言わなくても、ちゃんと聖書を読んでいるクリスチャンなら誰でも知っているはずだ。そして見返りを求めない愛が、人に話した時点でそうでなくなってしまうということにも、気づいているはずだ。

もちろん全ての善行を人に話すなということではない。人に話した方が良い場合もある。しかし聖書が言う善行とは、人に知られるかどうかとか、見返りがあるかどうかとか、そういう動機とはほど遠い心の部分から出てくる行動だと私は信じている。そしてだからこそ、神ご自身がその行動に報いて下さるのだ。

ユダヤ人精神科医であったV.E.フランクルも同じようなことを言っているので、最後に彼の言葉を引用したい。彼はナチスによって強制収容所に収監され、妻子をそこで失った。人間の醜悪さを、嫌という程見させられたのだろうと私は想像する。

虚栄と誇りは違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。」(V.E.フランクル)

2014年2月26日水曜日

仕事をするうえで重要なただ一つのこと

 もうすぐ年度末。この時期は進学や就職や転職で、環境が変わるという人も多い。特に就職は人生の転機だ。私も何度かの転職を経験したので、そういう転機にある人の心境が少しはわかる。月並みな言い方だけれど、期待と不安が混在しているのではないだろうか。

 ところで「就職はギャンブルみたいなものだ」という意見を聞いたことがある。私はそれに同意する。就職先の場所や条件や業務内容はもちろん事前にわかるけれど、その職場について面接ではわからないことが沢山ある。そして実際に働くうえで重要な情報というのは、面接の場では決してわからない。そしてその重要な情報の中心にあるのは、一にも二にも「人間関係」だ。一緒に働く人々を選べない、それが就職における最大のネックだと私は思う。
 そういう意味で、就職とはギャンブルみたいなものなのだ。

 もちろん、どこに行っても相性の合う合わないはある訳で、人間関係には一定の忍耐が必要になる。そういう忍耐を学ぶことも大切だ。それを通して人間の器が広がるという側面もある。そういう意味で、苦手な人と一緒に何かをするという経験は、決して無駄ではない。

 しかし同時に言えるのは、忍耐にも限度がある、ということだ。極端な例だけれど、入社した会社で連日酷いイジメに遭ったり、明らかに不当な扱いを受けたりするとしたら、それをただひたすら忍耐するべきではないだろう。精神衛生的にも良くない。

 そういうギャンブル的要素があるから、就職は簡単ではない。かと言って何らかの対策ができる訳でもない。おそらく最終的には「当たって砕けろ」的な心境で臨む以外にない。

 仕事のことでただ一つ、私が経験的に言えるとしたら、それは長期間同じことを続けられるのは一つの才能だ、ということだ。一つの職場で長くやっていくことは、案外難しい。いろいろ困難もあるし、不当に思えることもある。「もうやってられない」と強く思うこともある。しかしそういう酸いも甘いも全て受け入れ、長く同じスタンスで同じことを続けたからこそ、見えてくる風景もある。

 よく啓発本などで、いろいろな「成功法則」が紹介されている。それらの真偽はわからないけれど、私が単純に信じている成功法則は「継続すること」だ。どんな成功にも良い結果にも、その背後には地道で継続的な努力がある。楽して達成できるものには、さほど価値がないことが多い。

 日々の些細な出来事に一喜一憂するより、おおらかにじっくり構えて自分の仕事に集中するのが良い。どうしても耐え難いと思ったら無理する必要はないけれど、感情任せの急な判断はせず、とりあえず続けてみたらどうなるか、少し様子を見てみたらどうかと私は思う。

神に不可能はない。だからクリスチャンも「できない」とは言えない?

 おそらく全てのクリスチャンが、神は全能であると信じている。私もそう信じている。神は全能者、世界の創造者、時間も場所も超越し、不可能などないお方。
 そしてそれは、神が神である所以でもある。

 その「神が全能者である」というのは良いニュースだ。しかし、必ずしもそうではない。たとえば「神は全能だから、その神が味方するクリスチャンにも不可能はない」という話にされると、あるクリスチャンにとって悲劇となる。
 何故なら不可能はないのだから、「できません」とか「無理です」とか「失敗しました」とか言えなくなるからだ。

 この理屈を前面に押し出す牧師のもとにいると、信徒は非常に苦しむことになる。たとえば牧師から「○○をやってくれ」と命令され、それが時間的にか技術的にか無理だとしても、そうは言えない。もし言えば「はじめからできないと言うな」「やってもいないのに言うな」「とにかく祈ってやってみろ」等と、厳しく言われることになるからだ。
 そしてその主張を補強するために牧師が持ち出すのが、「神は全能者」だ。「神に不可能はない。だから私たちにも不可能はない。できないと言うのは不信仰だ」等と言われ、信徒は黙って不可能にぶち当たって行くことになる。

 ある信徒が、牧師に命じられ、ひとつの映像作品を作っていた。時間のかかる作業だった。しかしある集会で上映できるよう、期日は絶対に守らなければならなかった。
 その信徒は昼も夜も作業に徹し、幾晩も徹夜した。なんとか期日前に完成させた。しかしそれを牧師に見せると、あれこれと修正箇所が出てきた。その要求にも忠実に応えた。しかし修正箇所は次々と増え、結局、集会当日の朝まで、作業が続いた。
 集会の少し前、その信徒は、プロジェクターのセットや音響との打ち合わせに追われていた。どうもプロジェクターが不調だった。映像が映ったり映らなかったりした。しかし素人の彼には原因はわからなかった。牧師に恐る恐る報告すると、牧師は激怒した。「なぜチェックしておかなかった。上映できなきゃ意味がないだろう。これは神への奉仕なんだぞ。今からでもプロジェクターを買ってこい」

 その信徒は、そこまで完璧を求められるべきだっただろうか。決して失敗が許されない、それが神への奉仕なのだろうか。もしそうだとしたら、誰がクリスチャンなどやっていられるだろうか。

 神が全能者であるのは間違いない。けれどだからこそ、人間は不完全なのだ。もし人間が完全なら、神など必要ない。不完全で弱い人間だからこそ、神は憐れんで下さる。

 もちろん、だからと言って進んで失敗するべきではないし、怠けたりサボったりすべきではない。何事もバランスが必要だ。なんであれ極端に傾くのには、注意が必要だ。

2014年2月25日火曜日

「神様のために」の背後にひそむ「目立ちたい」願望

 キリスト教メディアは、牧師やクリスチャンのパフォーマンスをよく取り上げる。どこそこでどんな集会があって、どんな「大物」が来るとか、海外の有名クリスチャン・バンドが来日するとか、誰それが十字架行進をするとか、そういう耳目を集めそうな話題を大々的に取り上げる。

 もちろんキリスト教メディアもメディアなので、そういう姿勢になるのは至極当然なことだ。むしろ、そうあるべきかもしれない。しかし残念なことに、日本のキリスト教社会は非常に狭い。どんなネタも、なかなか話題にならない。一般向けにはなおさらならない。

 そういうキリスト教メディアの辛さはさて置くとして、メディアに取り上げられる牧師やクリスチャンらについて考えてみたい。

 彼らは「神様のために」賛美集会を開いたり、被災地支援をしたり、十字架を担いで歩いたりする。しかしその本当の動機は何なのだろうか。本当に神様のためだけだろうか。あるいは神様を必要としている人々のためだけだろうか。
 私もそういう経験があるからわかるけれど、そこには「何かがしたい」「これができるからしたい」「面白そうだからしたい」というような動機もある。そしてその背後には、「目立ちたい」とか、「自分たちのミニストリーをアピールしたい」とか、「有名になったらいいな」とかいう心理もある。そうでなければ、なぜ十字架を担いで歩くのだろうか。「イエス様の受けた苦しみを味わいたい」のなら、人前で担ぐ必要はない。それにそんなに長い距離を担ぐ必要もない。

 マザーテレサのインドでの活動は、世界的に注目された。それに倣う人も現れた。「私もマザーテレサのような働きがしたい」と言う人もいる。しかし本当にそうであるなら、今すぐ公園や川原に行って、ホームレスの方々に声をかけるべきだ。誰も見舞いに来ない入院患者を探して、尋ねるべきだ。今は忙しいとか、都合が悪いとか、そんなこと言っている場合ではない。

 マザーテレサが最初にインドの貧しい街角に立った時、彼女は有名になることを望んでいただろうか。何かのミニストリーを始めようと思っていただろうか。みんなから注目されたいと思っていただろうか。彼女はただ、目の前の路傍に横たわる弱った人を、介抱したいと願っただけだ。

 もちろん、メディアに大々的に取り上げられるような活動をして世間の注目を集めることも、決して悪いことではない。それでキリスト教が広がるなら、良いことでさえある。ただその動機に神様以外の不純物がいくらか混じっていることは、素直に認めた方が良い。それを隠して、綺麗事で塗り固めるよりは。

追記)
 要はクリスチャンの活動には、「神様のため」以外にも自己実現とか野望とかの「自分の都合」が幾らか含まれている、という話だ。しかしそれ自体は悪くない。人間とはそういうものだからだ。しかしその存在を認めず、あくまで綺麗事で固めようとするクリスチャンは、信頼に値しない。

2014年2月24日月曜日

神を「利用」する信仰と、神に「信頼」する信仰

 信仰には、神に「依存」するという側面がある。全能者に頼り、すがり、その御業がなされることを乞う姿勢には、一定の「依存」が含まれている。自分だけでは生きられない、何かに頼らなければ生きられない、という姿は一般的には「弱い人間」と思われるかもしれない。けれど人間は、もともと生物的にも社会的にも単独で生きるようには造られていない。その意味で、「依存」は人間の本質の一部とも言える。

 しかし同時に、この「依存」が行き過ぎることがある。日本人は特にそうかもしれない。日本のクリスチャンで言えば、牧師に対する過度な依存が見られることがある。そしてそれは、もはや利己主義でしかない。

 たとえば牧師を「神の代弁者」と信じている(信じさせられている)信徒は、何でも牧師の言うことを聞く。それは神の言葉であって、絶対に間違いなく、むしろ最善の選択肢であるからだ。たとえば「家にある仏壇を捨てれば祝福を得られる」と聞くと、すぐにそれを実行する。
 しかしこれは「従順」というより、思考停止に近い「依存」である。かつ「利己主義」が多分に含まれている。自分の利益のために従っているに過ぎないからだ。

 信仰が神への「依存」であるのは間違いないけれど、それが時として牧師個人への依存とか、有名なメッセンジャーへの依存とか、何かの信仰書への依存とかにすり替わっていることがある。しかもその目的は、自己の利益にしかない。それは信仰とは関係ないものだ。

 信仰とは本来、「依存」である前に「信頼」であると私は思う。前者には盲目的、他力本願的、思考停止的な姿勢が含まれているけれど、後者には積極的な選択が含まれている。自らの考えで神を選び取り、その愛に信頼し、多少の不利益があってもその言葉に従って生きる。そういう生き方は、「神への依存」というより、むしろ「神への自立的信頼」だ。

 また神に対する利己主義的な依存は、神を利用することでしかない。
 たとえば、あなたに対して好意的で、あなたの為なら何でも捧げる覚悟のある人がいるとする。あなたはその人の好意に甘え、その人から奪えるものは何でも奪い、すべてを吸い尽くすだろうか。
 そんなことはできない、という人が多いかもしれない。しかし神に対しては、案外平気でそういう態度を取っているのではないだろうか。

2014年2月23日日曜日

クリスチャンの「成長」と、そうでないもの

 信徒の「成長」を強調する教会は、だいたいが「訓練」を積極的にしている。どんな訓練かと言うと、教会の奉仕をさせることだ。会堂掃除や礼拝奉仕、教会事務や事業系の奉仕まで、その範囲は幅広い。
 それだけ広範な奉仕をさせれば、信徒はさぞかし「成長」するかもしれない。しかしその成長というのは、結局のところ職能スキルの上達でしかない。聖書が言うクリスチャン的成長・成熟とは違う。

 いやいやウチの教会は違う、ちゃんと「霊的訓練」をしている、と言うかもしれない。確かに「ディボーション」や聖書通読や聖句暗唱など指導しているかもしれない。しかし「霊的成長」を正しく測るのは非常に困難だ。たとえば「何事も主の御心を求め、しっかりと御声を聞いて判断しなければならない」という風潮の教会にいる場合、「何としても御声を聞かねばならない」というプレッシャーに無意識的にさらされていて、そのプレッシャーは容易に「御声の捏造」「導かれたという思い込み」につながるからだ。それは見せかけの霊的成長でしかない。
 そういう風潮でない教会だとしても、「御声をちゃんと聞いているように思われたい」という自己実現的発想から、霊的にふるまうクリスチャンもいる。

 だから「霊的成長」は測りづらい。それに比べて、冒頭に挙げた「職能スキル的成長」は測りやすい。週報作りとか礼拝の司会とかが以前に比べて上手にできるようになれば、成長したとわかるからだ。そして、その手の成長が「クリスチャンとしての成長」だと思われがちだ。

 ところで私は「霊的成長」という言葉があまり好きでない。前述のようにどうにでも誤魔化せる種類の成長であるからだ。それより「人格的成長」こそクリスチャンに必要だと思う。真にキリストに従い、聖書に従うなら、職能スキルとか霊的云々とかいう以前に、そこが成長すべきだからだ。人の痛みを感じたり、自分の過ちを認めたり、素直に謝罪したり、誠実を尽くそうとしたりという、人間として根本的な資質が備わっていなければ、いったい何になるだろうか。クリスチャンとして耳目を集めるような活動ができたとして、それがいったい何になるだろうか。
 それに人格的成長は測りやすい。多少は誤魔化せるけれど、長期間に渡って誤魔化すのは無理だからだ。必ずどこかに破綻をきたす。

 何かができるクリスチャンは確かに素晴らしいだろう。流暢に祈るクリスチャンも素晴らしいだろう。しかし何ができなくても、誰に対しても誠実であろうとするクリスチャンほど素晴らしい存在はないと私は思う。

2014年2月22日土曜日

「霊の戦い」がもたらす際限のない恐怖

「霊の戦い」を強調し、実践する牧師や教会がある。地域を縛る悪霊や、罪別の悪霊(例えば姦淫の霊とか盗みの霊とか)がそれぞれ働いているから、クリスチャンはそれらと個別に戦わなければならない。イエス・キリストの御名によってそれらを打ち負かし、勝利しなければならない。戦わなかったり、そういう戦いを信じなかったりすることは不信仰、あるいは真理がわからない可哀想な信仰者である。そしてそれらの悪霊たちにいいように攻撃されてしまう…というのが彼らの主張だ。

「戦い」と聞いたら、誰でも構える。人によっては恐れを抱く。緊張したりひるんだりする。しかし牧師は言う。「大丈夫、この戦いは『主の戦い』だから、主ご自身が戦われる。私たちは恐れずに立ち、御名を宣言すればいい。私たちには既に圧倒的勝利が与えられているのだ」
そして、旧約聖書のイスラエルの数々の戦いの記録が引用され、補強される(やはり、彼らが根拠とするのは旧約聖書が多い)。

 だったら戦う必要があるのか、というツッコミもあるし、それはそもそも「戦い」とは呼ばない。ひとこと宣言するだけでいいのだから、時間もかからない。それに、一度宣言すればそれでいいはずだ。何も恐れる必要はない、ということになる。
 しかし実際の「霊の戦い」を見てみると、何度となく同じ戦いをしているし、そのたびに物凄い怒鳴り声で悪霊を叱りつける。まるで声が大きくないと勝てないみたいに。

 そういう「霊の戦い」の本当の問題点は、大きく2つあると私は考えている。

 1つは、イエス・キリストの十字架の贖いと勝利を無効にしている点だ。十字架だけでは不十分で、クリスチャンが戦わなければ、悪霊たちを打ち負かすことができない、つまり救いは不十分だ、という主張がこの背景にある。
 生涯をかけて罪と戦う、という点では、それは真実を含んでいる。しかし神様が「悪霊に勝利した」と言っているのに、「まだまだ戦わなければ終わらない」と言うのは、明らかに聖書に反している。

 もう1つは、次々と新手の悪霊たちが登場する点だ。毎週登場する仮面ライダーの敵よろしく、殺人の霊とか拒絶の霊とか、甘えの霊とか偽りの霊とか、この建物を縛る霊とかこの町内を縛る霊とか、そういう悪霊たちが再現なく登場する(牧師によって紹介される)。
 それを聞かされる信徒はどう思うだろうか。まだ自分の知らない悪霊が大勢いて、今もそれらの攻撃を知らず知らず受けてしまっている、という絶望的な恐怖に陥る。敵の全貌がわからなくて、戦いようがないからだ。そしてそこから救われるには、牧師の言う通りにするしかない。

 しかしその信仰生活は、もはやイエス・キリストも創造主も関係ない。悪霊博士になるくらい悪霊について勉強したり調べたりして、あらゆる種類の悪霊を見つけ出し(あるいは作り出し)、全ての敵に対して、自分で勝利を得なければならないからだ。誰がそんな信仰生活を送りたいと願うだろうか。

 この原理に支配された「霊の戦い」は、人に恐怖をもたらす。神の救いの対局に人を追いやる。それはもはやキリスト教でなく、キリスト教を語る新興宗教でしかない。

2014年2月21日金曜日

聖書的教育か、牧師の単なるエゴか

 信徒を積極的に教育しようとする牧師がいる。教育といっても聖書教理に関してではない。「一般常識」に関してだ。

 例えば誰かに何かしてもらったら、こういうお礼をしなさい、こういう態度でいなさい、こう感謝しなさい、という指導をする。そしてその信徒が実際にどうするかを見て、後からまた呼び出し、あれこれ注意する。
 あるいは、クリスチャンは威厳がなければならないから、人前では堂々としていなさい、強く雄々しくありなさい、弱いところを見せてはいけない、などと指導する。

 信徒からすると、「神の代理人」である牧師が言うのだから、聞かない訳にいかない。そしてクリスチャン教育とはこういうものだと認識してしまう。初めてだから疑問に思うことがない。そして自分が先輩になった時、後輩に対してまったく同じ指導をするようになる。

 しかしその「教育」は、牧師が理想とする人物像への「矯正」でしかない。多様な人間性と価値観を否定する行為でもある。その証拠に、それに従う信徒らは、一様で同質な没個性集団へと変質していく。

 通常、牧師は信徒に教える立場にあり、信徒は教えられる立場にある。両者ともそれぞれの立場に慣れていて、そのこと自体は疑問に思わない。そして何を教えるか、何を教えられるかという点も吟味されない。それは普通なら牧師が決めるからだ。そして上記のような牧師ほど、エペソ4章11~12節を盾にして自分の指導を正当化しようとする。「これは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためだ」と。

 だから牧師にどこまで踏み込ませるか、信徒自身が明確に線引きするのは難しい。何が聖書的な教育で、何が行き過ぎなのか、教えられる立場にある信徒にどうしてわかるだろうか。それは全て牧師の手の中にある。それに歯止めをかけるおそらく唯一の手段は、信徒個人の心が発する「違和感」みたいな感覚にあるだろうと思う。

2014年2月19日水曜日

文脈無視の都合のいい聖書解釈について

 聖霊派の教会の中には、日曜の礼拝を「セレブレーション」とか「祝宴」とか呼ぶところがある。それ自体は何ら問題ない。要は、礼拝は神様を讃える場であり、パーティみたいに神様を喜ぶ場だと認識しているのである。「生ける神に出会うエキサイティングな場」だとも言う。

 だから彼らにとって、礼拝は様々な現象が起こる時間である。突然喜びに満たされて笑い出したり、踊り出したり、「神様に触れられて」泣き出したりする。そしてそれらを「聖書に書いてあることだ」と言う。だから自分たちは間違っていない、むしろ正しいと主張する。

 しかし彼らが根拠として上げる聖書箇所は、必ずしもその現象を支持するものではない。例えば「突然笑い出すこと」を、マラキ4章2節の「あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる(新改訳)」の成就だと言う。しかしそれは、文脈を無視した解釈だ。何故なら「子牛のようにとびはねる」のは、「義の太陽がのぼる」からで、「いやされる」からだ。つまり何かの圧迫から明確に救われ、助けられたと認識するから、喜んで「とびはねる」のだ。礼拝中に脈絡なく「突然笑い出す」こととは違う。もっと言うと、「突然笑い出せる」のはそういう深刻な悩みや葛藤がない状態だからだ。食事もノドを通らない、夜も眠れないほどの重い精神的圧迫を受けている人が、嘆き苦しみながらも礼拝に来て、そこで突然楽しくなって笑い出すだろうか。

 そういう文脈無視の解釈は、都合のいい聖書解釈でしかない。何とでも解釈できてしまう。そして彼らが無視するのは文脈だけではない。人の心をも無視している。礼拝に来れば「いのちが与えられ」、「解放され」、「自由になれる」と言い、そうできない心の状態にある人を「不信仰だ」と断ずる。人には重荷を背負わせ、自分たちはそれに指一本触れようとしない。そういう人たちが聖書で何と呼ばれているか、彼らはよく知っているはずだけれど。

2014年2月17日月曜日

表面的に伝搬する「憐れみ深さ」

 他人のことを親身になって考え、まるで自分のことのように苦しみ、泣いて祈ってくれるクリスチャンの方々がいる。憐れみ深い人々だ。人間は本来自己中心的なはずだから、そういう人情に厚い人を見ると、私は本当に頭が下がる。自分もそうでありたいと思うけれど、なかなかなれない。

 そういう憐れみ深さは、天性の賜物かもしれないし、あるいは自らの苦悩の深さゆえ体得した人格かもしれない。いずれにせよ正真正銘の「憐れみ深い人」は存在するし、私はそれは本当に良いことだと思う。

 ただ、そういう憐れみ深さは、表面的に伝搬することがある。
 例えば教会で信徒が何人か集まって、互いのために祈るとする。憐れみ深い人は真剣に祈るから、やたら長かったり、激しかったりする。涙に濡れて祈れなくなることもある。するとその隣にいる、特に憐れみ深くもない普通の人が、「自分もこんな風に祈らなきゃ」と思うかもしれない。するとその人はあらん限りの感情を込め、多少の誇張表現もし、熱く祈ってみせる。さて、その隣の人も同じように思い、同じように祈ったらどうなるだろうか。そのグループの中で本当に憐れみ深い人はどれくらいいるだろうか。

 こういうことは祈りだけでなく、教会のあらゆる活動に見られる。熱心に賛美する人を見て、同じように賛美する人が現れる。メッセージ中に「アーメン」という声が上がるのを聞いて、同じように言う人が現れる。涙を流して祈る人を見て、同じように祈る人が現れる。

それは「人のふり見て我がふり直せ」ということかもしれない。クリスチャンになったばかりの人には教育的に必要なことかもしれない。しかしそれはあくまで「ふり」であって、その行動の裏に心があるかどうかは、別問題だ。

だから全てのクリスチャンを疑え、という話ではない。けれど、そういうことがあるのは間違いない。憐れみ深く見える人が、全て憐れみ深いのではない。

祈り会などで、牧師が「○○の為に祈りましょう」と言う。そして信徒らがそれぞれで祈りだす。声の大きい人もいれば、泣いて祈る人もいる。もがき苦しんで祈る人もいる。そういう「激しい祈り」を横目で見ながら、自分はそこまで気持ちを込められず、何となく祈ってやり過ごした、という人は決して少なくないと思う。そしてそれは正直な反応だ。

けれどそこを偽って、あえて大袈裟に祈ったり、感極まって見せたりすることがある。もしそこにいる全員がそういう演技的祈りをしているのだとしたら、これほど滑稽な風景はない。神様など完全に置いてけぼりである。

2014年2月16日日曜日

キリスト教的「許し」に関する雑感

 キリスト教の教えの中心には「許し」があると私は考えている。
 どんな罪を犯してしまっても、イエス・キリストを信じる者が真に悔い改めるなら、許される。もちろん何らかの償いが必要だろうし、人からは許されないかもしれない。しかし神の許しは受けている。

 だから教会や宣教団体のリーダーたちはよく「許し」のメッセージをする。「何度でもやり直せる」というのは希望に溢れた言葉だ。自分の罪の為にどんなに酷い状況に陥ったとしても、神にあって、(しかるべきプロセスを経て)もう一度立ち上がることができる。再出発できる。この希望は、キリスト教だけが提供できるものではないだろうか。

 しかしそんな「許し」が、ちょっとおかしく使われる場合がある。「十字架の上にあぐらをかく」という現象だ。極端に言うと、許されるんだから何をしてもいい、というような心理状態。当然だが、何をしてもいいということにはならない。

 また、「許し」を語りながら信徒を許さない牧師がいる。例えば信徒が奉仕で失敗すると、激怒して罵声を浴びせる。とても笑顔で「許し」を語る牧師と、同一人物とは思えない。牧師はそれを「訓練」と言うけれど、信徒は「絶対に失敗できない」という心理に追い込まれるだけだ。そこは失敗できない、許されない、叱られるという、ずいぶん殺伐とした教会となっている。

 教理に対する正しい学習と理解が、すべてのクリスチャンに必要だ。そしてそれは牧師にとって都合のいい解釈ではない。しかし多くの信徒が、牧師からほとんどの教理を学んでいる。だから上記のような「殺伐とした教会」をあり得ないと思う人はいるだろうけれど、そこの信徒にとって、それはあり得ないことではない。むしろ当然の結果である。

「終末の大リバイバル」考察

「終末の大リバイバル」がくると、声高に言うクリスチャンがいる。かつてないリバイバルが世界規模で起こり、同時に酷い災害や患難も起こる。クリスチャンにとって大いなる祝福であると同時に、大いなる試練でもある。だから今から備えが必要だ、と言う。

 その真偽はいずれわかるとして、その主張には疑問もある。

・恐怖にかられた選民意識・特別意識
 彼らは「本当に聞きたい人だけに聞いてほしい」と強調する。そうやって真剣で熱心な人とそうでない人とを分けようとする。それ自体は悪くない。けれど、そう言われてかえって帰りづらくなる人はいる。真剣だと思われたい、熱心でないと思われたくないという人は、無理にでも残って聞こうとする。その心理の背景にあるのは、選ばれた者でありたい、特別な者でありたい、という願望だ。その結果、無理に努力して「適格」であろうとする。
 また、彼らは「終末の大リバイバル」を生き残れるクリスチャン、生き残れないクリスチャンがいると強調する。両者を分けるのは、「神様としっかり繋がっているかどうか」にあると言う。これには警鐘の意味もあるだろうけれど、単に恐怖心を煽るだけにもなる。自分の今の信仰生活に自信がない人は、もっと祈らなきゃとか、もっと彼らの言う通りにしなきゃとか、実は神様とあまり関係ないことに熱心になってしまう。

・漠然とした預言と備え
 彼らは「いまだかつてない大患難」を強調する。災害や飢饉や宗教的迫害がその内容だけれど、「特別な啓示」だと言う割には漠然としすぎている。その程度なら聖書にそのまま書いてある。
 それに対する「備え」というのも、具体的に何をしたらいいかよくわからない。「ダディ(神様のこと)と親密に交わること」とか「御心をしっかり知ること」とかと言うけれど、結局は「ダビデの幕屋の回復」に繋がっていくようだ。そしてユダヤ歴やユダヤの祭りといった、イスラエル的な何かに傾倒していく(それ自体は悪くない)。例えば「角笛」とか「ハープ」とかを祈りの場に持ち込み、何か特別なこと、新しいことが始まっているように見せる。彼らにとって実際に新しいのだろうけれど、私に言わせると、その一連の流れは今までにもあったことだ。新しいことではない。「終末強調」→「ユダヤ傾倒」はセットで現れる。

 一番の問題は、その終末強調の真偽が吟味されないことにある。そもそも吟味しようとする者は、その場にはいられない。「聞きたい人だけ残って聞いて」と言われて残った時点で、何を話されても、それが真実であることが大前提となる。
 結果、その「終末」に向けて真剣に備えようとして、珍妙な行為の数々に走るクリスチャンたちが現れる。
 そして今度こそ、本当の終末がくるかもしれない。しかしその時彼らが「生き残れる」かどうかは、まったく別問題である。一生懸命「備えて」きたのに生き残れないとしたら、そんな悲劇なことはない。

2014年2月12日水曜日

「神の軍隊」の背景にあるファシズム思想

「神の軍隊」とか「神の兵士」とかいう表現がある。キリスト教会に集う信徒の中で、特に献身的に奉仕する「選ばれた」人々に、しばしば付けられる称号である。といっても明確な基準や資格がある訳でなく、入隊の儀式がある訳でもない。ただ牧師がそう呼んだからとか、本人がそう自覚しているからとか、そういうことで「神の兵士」かどうかが決まる。

彼らのモデルとなるのは、例えば旧約聖書のヨシュア記に登場する、イスラエルの軍隊である。神の導きにより、約束の地カナンを占領するため、彼らはそこの住民たちと戦った。その軍隊の特徴は非常に明確だった。すなわち神に従うなら勝利し、従わないなら敗北する。

だから今日の「神の軍隊」も、神のために何かと戦い続け、制圧しなければならない。そのために神に従順でなければならない。そして軍隊であるから、常に集団としての秩序を守り、その集団を第一にしなければならない。個人の好みとか自由とか、そういうものは「神に兵士」には必要ない。そう暗黙に考えられている。

その戦いが、真に神のためであるなら、問題ないかもしれない。しかし疑問はある。
例えば「神の軍隊」は何と戦うのか。それは多くの場合、牧師の一存で決まる。それは収入を得るための事業だったり、空を打つような「霊の戦い」だったり、反対者を排除するための決議だったりする。しかしそれらは本当に神のためなのだろうか。神は今日の教会にそのような戦いを願っているのだろうか。

また「神の兵士」に求められる「従順」にも疑問がある。勝利するため、彼らは神に完全服従しなければならない。しかしそれは結局のところ、牧師の主張を無条件に聞き、その通りに実行することである。それが本当に神からのものかどうかという吟味は、許されない。

それに、個人より「神の軍隊」という集団が最優先されるのも疑問である。「神のための戦いだから中途半端ではいけない」ということで、彼らには日常的に長時間の奉仕や礼拝行為が課せられる。個人の都合は二の次、三の次だ。もちろん本物の軍隊であれば、それくらいの集団意識は必要かもしれない。しかし十分な報酬もなく、生活の保障もないのに、一信徒がどこまで義務を負わなければならないのだろうか。

しかしどこまでが信仰で、どこからが行き過ぎかは判断が難しい。神に仕えるべきだけれど、どこまで犠牲を払うべきなのか。神が最大限の犠牲(十字架の死)を払って下さったから、人間もでき得る限りの犠牲を払い続けなければならないのか。
そういう意味で、「神の軍隊」は神への最大限の犠牲を払うことなのかもしれないけれど。

礼拝の最後、賛美や祈りが最高潮に盛り上がったところで、牧師が高らかに宣言する。「私たちは神の軍隊だ!」それに熱狂的な信徒たちの叫び声が続く。彼らはその響きに興奮し、更なる使命感に燃やされ、更なる個人無視・集団最優先の心理状態に入っていく。
しかしそれは、いわゆるファシズムとどう違うのだろうか。


2014年2月11日火曜日

もし「気のせい」だとしても、それは幸福な「気のせい」だ

 人間、生きていれば苦しいこともある。悩み苦しみ、それでもどうにもならなくて、しかし逃げられなくて、眠れない夜を幾晩も過ごすこともある。永遠に続くかと思われる程、苦痛が続く。

 そういう苦しみはできれば避けたいけれど、どうにも避けられないこともある。自分の弱さや不甲斐なさの故、そういう状況に陥ることもある(その場合は自分で自分を責めてしまうので、尚更苦しむ)。

 そういう時は、人の本性が最もよく現れる時でもある。普段隠れている様々な感情や行動が、自分でも驚く程、出てくる。しかしそれこそが、その人の究極的な姿なのだと思う。

 その苦しみの底で、神を呼び求める人がいる。その人は普段はあまり熱心なクリスチャンではないかもしれない。「困った時の神頼み」的な行動かもしれない。しかし極限状態で神に助けを乞うのは、やはりその人が心の底では神を信じ、神が働かれることにすがるしかないと信じているからだ。
 そして助けを乞う相手が心の中にいるのは、幸いなことだと私は思う。たとえ他者がそれを「気のせいだ」と断じても、本人にとって神は確かに存在し、自分の声にならない声を聞いてくれている。それだけでも、どれだけ救われることか。そしてその救いは、そういう存在を持たない人には得られない種類のものだ。

 百歩譲って神が存在しないとしても、信じる者にとって神は間違いなく存在している。そして神の言葉と規範(聖書)がある。その規範に従って一貫した生き方をすることは、決して不幸なことではない。かえって心に安定をもたらす。もしそれが本当は「気のせい」だとしても、何の指針もなく一生を過ごすより、よっぽど幸福な「気のせい」だと私は思う。


2014年2月10日月曜日

散々持ち上げられてから足元が崩壊する悲劇

「エコヒイキ牧師」の話でも書いたけれど、なんだかんだと理由をつけ、結果的に信徒を公平に扱わない牧師がいる。

 そこで酷い扱いを受ける信徒は、もちろん悲惨である。けれど、逆に厚待遇を受ける信徒も悲惨である。彼らはその能力や経済力や、牧師にとってメリットとなる何かのおかげで、褒められたりチヤホヤされたり、重要なポジションに付けられたりする。彼らは教会内で発言力や影響力を持つようになる。すると、どんどん錯覚に陥っていくことにもなる。

 例えば牧師から、預言されたり祈られたりして、「あなたは偉大なリーダーになる」とか「あなたは〇〇に遣わされて大きく用いられる」とか言われる。そんなメッセージを繰り返し聞かされると、本人も次第にその気になっていく。その言葉の信ぴょう性について考えない。そして根拠のない万能感を抱くことになる。

 その言葉が教会内である程度実現していき、教会自体も存続していくなら、本人は幸せかもしれない。しかし何かのキッカケでその教会の基盤が崩れ、存続の危機に陥った時、彼らは悲惨である。教会内で信じてきた現実とはまったく違う現実を見せられ、自分が何者でもないことを知らされるからだ。
 それまでは、教会で発言すれば皆が感嘆し、「深い啓示だ」とか称賛されてきた。普通の信徒より一段も二段も高いところから物を見、御心を知ったと思ってきた。忙しく働く自分自身を見て、「神に大きく用いられている」と思ってきた。しかしそんな全てが泡のように一瞬で消え去り、何も残らない。多くのものを「持っている」と思っていたけれど、実は何も持っていない。そんな現実を突き付けられるのだ。

 その感覚は、もしかしたらバブル経済の恩恵と消滅を体験するのに似ているかもしれない。
 そしてその時、幸いなのは、不公平な扱いを受けてきた信徒の方かもしれない。それまで散々「不信仰だ」とか「信仰が弱い」とか貶されてきたけれど、自分は間違っていなかったと証明されるからだ。
 

 散々持ち上げられ、高められたところで、足元が一気に崩壊する。高ければ高いほど、その落下のダメージは大きい。そういうことかもしれない。そしてその現象に私は、「あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20章16節・新改訳)という聖書の言葉を思い出す。

2014年2月9日日曜日

「皆が信じること」=「事実」という脆さ

「事実」は変えようのないものに思える。けれど、実は脆い。
 自分がこの目で見、耳で聞いたことは間違いなく事実だ。けれどそれは、自分から見た側面でしかないことがある。そこには自分の知らない事情や理由が存在しえる。自分が直接知らない、人伝に聞いた話なら尚更だ。そこには話した人の主観が多分に入っているかもしれない。

 劇団四季のミュージカル「ウィキッド」は、その「事実の脆さ」をテーマに取り上げている。善良な魔法使いが貫く「正義」が、オズの国にあって「悪」に映る。多くの誤解がある。そして彼女は「悪の魔女」として生きることを余儀なくされる。彼女はそのとき悟る。

皆が信じれば、それが事実になる

 これは古くから実際に起こっている。私たちが知っている「歴史」もかなり脆い。自分が確実に「知っている」と思っていることも、誰が伝えるかによって大きく変わりえる。誤りが伝えられ、いくら正そうとしても、その誤りを信じる人が多ければ、それが事実となってしまう。

 キリスト教会にもそういうことは起こりえる。何年何月に何かが起こる、という「大予言」が教会で語られ、多くの信徒がアーメンとすると、それがどんなに滑稽であっても事実として受け入れられる。少なくともその教会内では事実となる。
 また、私が知っている教会が解散となった経緯についても、いろいろな人がいろいろなことを言っていた。相反する証言さえあった。何が事実かはさながら「藪の中」だ。

 だから場合によって、「事実」を知ることは至難の業だ。よく調べ、よく吟味し、よく考えなければならない。時間もかかる。それでも事実はわからないかもしれない。
 それより、皆が信じていることを単純に信じた方が楽だ。それは「思考停止」と言うけれど。

2014年2月8日土曜日

捏造される「しるし」の数々

「しるし」を求めるクリスチャンらがいる。彼らは「奇跡的な癒し」とか「よみがえり」とか、「金粉」とか「天使の羽」とか「天使の声」とかを熱心に求めている。そして何らかの事象や偶然に「符号的な啓示」を意味づけようとする。

 その全てを否定する気はない。「しるし」の解釈にもいろいろあるだろう。しかし少なくとも、たまたま見た時計の数字(12時30分なら1230とか)とか、泊まった部屋の番号とか、何かの集会の日付(2月8日なら28とか0208とか)とか、そういうのを聖書の章節番号に当てはめたり、自分たちが重要だと思っている日時と同じだと言い張ったりするのは、単なる「こじつけ」でしかない。「しるし」を勝手に作り出しているだけだ。「神様が特別に啓示している」とか自信満々に言うけれど、それが思い込みでないとどう証明できるのだろうか。

 さらに酷いケースになると、例えば利用した駅のホーム番号と、乗った電車の車両番号の数字を全部合計したら〇〇で、これには××という意味がある、などと数字を都合よく操作しだす。ここまでくると本気なのか、ふざけているのかが疑われるレベルだ。

 彼らは聖書を熱心に読み、「世界レベルのメッセンジャー」の話を聞きにあちこち旅し、何時間も異言モドキで祈り、真理を探究しようとしているかもしれない。しかし彼らが慕うイエス・キリスト本人が、「しるしは与えられません」(マタイ12章39節・新改訳)とシンプルに言っていることについて、吟味したことはないようだ。

 クリスチャンとして本当に求めるべき事柄と、そうでない事柄とがある。何でも熱心であればいいという訳ではない。でないと、熱心であったけれどまったくの無駄だった、ということにもなる。聖書はそういう人間を「愚かだ」と言っている。
 リーダーや「世界的な神の器」が言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考え、聖書が単純に言っていることをまっすぐ受け取る態度が、クリスチャンには必要だ。しかし教会の中でそういう態度を貫こうとすると、「不従順だ」とか「不信仰だ」とか「悪魔の影響を受けている」とかと言われて、辛い思いをすることもある。決して簡単なことではない。

2014年2月6日木曜日

「全会一致」にこだわるリーダーに見える人格的欠陥

 何でも「全会一致」で決まらなければ気が済まない牧師や宣教師がいる。
 特に自分のアイディアであるなら、そこにいる全員が快く賛成しなければダメだ、と彼らは思っている。だから一人でも反対意見を出したり、反対とまでいかなくても難色を示したりしたら、彼らは全力でそれを「潰し」にかかる。

「潰し方」はいろいろある。反対者を呼びつけて延々と尋問めいたことをしたり、メールで執拗に攻撃したり、あらぬ噂を流して反対者の立場を悪くさせたり、もう何でもアリだ。
 しかも彼らは、たった一度だけ反対されたことを、何年たっても忘れない。「あなたはあの時反対した。だから・・・」と過去のアレコレをいつまでも蒸し返す。

 彼らは「全会一致」でなければ、聖書的「一致」ではないと考えている。「神の家族として一致していなければ平和はない」とか「皆が同じ心、同じ信仰でなければ教会は弱くなる」とか、もっともらしいことを言って自説を補強しようとする。しかし、新約聖書の時代の教会に激しい議論があったことには決して触れない。それよりは、旧約聖書の時代のイスラエルの不従順をよく問題視する。

 どうしてそうなのかよくわからないけれど、彼らは反対されることに慣れていないばかりか、それを極端に嫌っている。自分の意見が拒絶されることと、自分自身が拒絶されることとをうまく区別できないのかもしれない。そしてそうだとしたら、それはリーダーとして致命的な人格的欠陥である。彼らをリーダーにすること自体が間違いである。

 もちろん、人格的問題のないリーダーなどいない。その問題がどこまで許容されるべきか、という話である。しかし少なくとも、良かれと思って反対意見を出す者を敵対視し、全力で「潰し」にかかるような人間がリーダーとして不適格なのは言うまでもない。

 では聖書的「一致」について正しく学べばいいだろう、という話ではない。もちろん正しく学ぶのは必要だ。けれど人格的欠陥があるなら何を学んでも無駄になる。まずはその欠陥をどうにかすべきだ。リーダーとして立ちたいと願うならば、だけれど。

2014年2月5日水曜日

それは神のペースか、誰かのペースか。牧師に虐待された「彼ら」へのメッセージ。

 かなりの時間を捧げてキリスト教会に仕え、牧師に仕える信徒がいる。
 彼らは日曜や水曜だけ教会にくるのでなく、フルタイムかそれに近い頻度で教会で働いている。彼らは「スタッフ」とか「献身者」とか、「インターン」とか「伝道師」とか、「神学生」とか呼ばれる。その勤め先は教会である。彼らは教会から幾らかの給料をもらったり、あるいは教会に養ってもらって生計を立てている。
 彼らは24時間365日、神様に仕えて生きていける「特権」を与えられている、と評されもする。そしてそれは基本的に間違いでない。しかし、大きく間違えてしまっているケースもある。牧師に信仰の名のもとに虐待されているケースである。

 私は彼らの気持ちが痛いほどわかる。だから今回は彼らに向けて書きたいと思う。
 ところで「彼ら」と言ってもその呼び名は、上記の通りいろいろである。だから何と言ったらいいかわからない。ここでは上記のような状況にある全ての人を、この「彼ら」に含めたいと思う。

・「彼ら」へ
 あなたは「神様の為に」という一心で仕えてきた。あなたが仕えてきたのは、あくまで神ご自身である。しかし見えるところは、牧師の言うことに従って働いてきた。牧師は教会のリーダーだし、あなたを導く人間だし、神の言葉を預かる人でもあるからだ。その牧師に逆らうことは、神に逆らうことに等しい(とあなたは信じている)。だから牧師の一言一言に、神からのメッセージを感じ取って、信じて、あなたはそれに従ってきた。
 その結果がどうであるかは、実はあまり重要ではなかった。あなたにとって最も重要で最もわかりやすいのは、神に仕えているかどうかの一点に尽きるからだ。

 あなたにとって人生とは訓練である。生涯をかけて、自分を捨てて神に従うことを学び、あらゆる不都合の中で「はい」と答えることを学ばなければならない。また失敗することは信仰の足りなさの現れである。だから失敗することで牧師に叱責され、罵倒されるのは当然のことだ。そしてそれを通して「成長」し、決して失敗しない「ダニエルのような優秀さ」を身に付けることが課題とされている。だからあなたがそのように「成長」できるよう、牧師は「心を鬼にして」「やむなく」あなたを叱責するのである(とあなたはは信じてきた)。

 例えばあなたは、牧師からいろいろな仕事を割り当てられてきた。それらを終わらせる為には、昼も夜も働かなければならなかった。しかも自分のペースで働けない。突然牧師に呼ばれ、ミーティングへの参加を強制されたり、別の仕事を最優先でしなければならなくなったりする。しかし当の牧師本人はミーティングに大幅に遅れたり、来なかったりする。あなたは頼まれた仕事は期限内に絶対に終わらせなければならない。けれど牧師は、どれだけ仕事が遅れても、すっぽかしても、誰からも責められない。

 しかし、それは仕方のないことなのだ。牧師は「神の御心」や、神からの「急な要請」を敏感にキャッチしているから、それ以前の仕事が終わっていなくても、新しいことに向かわなければならないからだ。牧師がやり残した仕事は、あなたがやるしかない。

 神は忙しい方なのだ。絶えず新しい何かを提案し、仕事を作り、愛する者(あなた)を忙しくさせる。しかしそれこそが、「神の愛」なのだ。あなたが「成長」できるよう、わざとあなたのペースを乱し、混乱させ、疲れさせ、途方に暮れさせる。

 しかし、そんな風にあなたが信じてきたことのほとんどは、残念ながら、まったくの間違いである。

・その間違いに気づいた「彼ら」へ
 大変な損失を被った、とあなたは思っているかもしれない。
 しかし、そのことに気づけただけでも大きな収穫である。

 おそらく何人かの心優しい人々は、あなたを慰め、励ましてくれる。
 しかしおそらく、あなたはそれを心から受け止められない。
「今までのことは無駄ではなかった」と言われても、あなたはそうは思えない。
「あなたは確かに神に仕えてきたのです」と言われても、あなたはそうは思えない。

 神なんかいない、とあなたは思うかもしれない。
 しかし、神がいるからあなたはそこから助け出された、とも言える。

 これからどうしたらいいかわからない、とあなたは思うかもしれない。
 しかし、それを決めるのはあなた自身である。

 誰にどう言われようと、「人生を無駄にした」とあなたは思うかもしれない。
 しかし、それを本当に無駄にするのはあなた自身である。

2014年2月4日火曜日

真の被害者は誰なのか。『明日、ママがいない』について思うこと

 日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』が物議をかもしている。舞台となる児童養護施設の描き方に問題があるとして、関係機関が抗議したのがその始まりだ。

 その後、世論の動きに合わせて、スポンサー企業も次々とCMの放映を中止させた。テレビ局側も、内容の改変を約束しているという。それに対して、「表現の自由が損なわれる」と危惧する声もある。まあ意見はいろいろあるだろう。

 私は児童養護施設の実態について何も知らないから、ドラマの内容について明確におかしいとか間違っているとか言えない。けれど、あえて悲惨な、センセーショナルな表現をすることで(いろいろな意味で)世間の注目を集め、結果的に視聴率を稼ごうというのは、テレビ局としては至極当然なスタンスではないかと思う(それが良いという意味ではない)。

 もちろん、その結果、身寄りのない子供たちが更なる被害を受けるという今回のケースで言えば、そのやり方は決して是認できないけれど。

 しかし私が一番気になるのは、同ドラマのに出演している子役の子供たちのことだ。
 ドラマの初回放送の前、出演する子供たちのインタビュー映像などが、盛んに流れていた。まだ10才前後の幼い子役たちが、非常に礼儀正しく、明るくインタビューに答えていた。おそらくその役を射止めるまで、大変なトレーニングを受け、いろいろなものを犠牲にしてきたのだと思う。だからこその喜びや意気込みみたいなものが、その子たちの中に見える気がした。
 しかしドラマが始まってみると、どうも世間の反応は、想像していたのと違った。多くの抗議が上がり、もしかしたらドラマは中止になるかもしれない、内容が大きく変わるかもしれない。そんな中、子役の子供たちには、どのようなフォローがあったのだろうか。私はそこが一番気になっている。

 結局大人の都合に子供たちが振り回され、傷つけられるとしたら、そのドラマが描く児童養護施設は、まさに現実のものとなっているのではないか。

 そのドラマの結末はまだわからない。ハッピーエンドかもしれない。しかしその子役の子供たちにとって、このドラマの終了はハッピーエンドとなるのだろうか。出演して良かったと思えるだろうか。そうであれば良いのだけれど。

2014年2月3日月曜日

無重力の恐怖、『ゼロ・グラビティ』

『ゼロ・グラビティ』を3D劇場鑑賞した。ネタバレなしの感想を書く。
 あらすじはこちらから(結末まで書かれているので注意)。

 とにかく、この作品は劇場で観るべきだと思う。大画面、大音響もさることながら、3Dの特性がよく生かされたシーンがところどころにあり、大変驚かされるからだ。文字通り「あるもの」が飛び出してきて、私は思わず何度か顔をよけてしまった。宇宙空間と地球の美しさも、大画面ならではだと思う。

 また、非常にリアルな宇宙空間を疑似体験させられる。スタートレックみたいな映画が多い昨今、「宇宙空間そのものの恐怖」はあまり描かれていない。たとえば重力がないという現実。一度船外に投げ出されると、自力では戻ることができない。それどころか投げ出された時の身体の回転がいつまでも続く。酸素もみるみる減っていく。助けが来なければ、そのまま永遠に宇宙空間を漂流し、死ぬだけだ。
 主人公のストーン博士(サンドラ・ブロック)は、事故により突然船外に投げ出され、一気にこの恐怖に叩き落される。しかもグルグル回っていて自分の位置さえわからない。通信も途絶える。パニックになり、酸素をみるみる消費してしまう。

 私たちは約90分間、彼女の身に起こる様々な「宇宙の恐怖」に付き合わされる。死にもの狂いで宇宙船のどこかにしがみつき、酸素不足で意識が朦朧となり、船内火災に悩まされ、ガス欠に絶望する。まさに命運尽きたと思われたその時、ストーン博士は死を覚悟するのだけれど、観ている私も「もういいかな」と思わせられた。ここまで努力してダメだったんだからもうダメだろう、楽に死ねた方がいい、みたいな。
 その「もういいかな」を助長するのが、彼女の不幸な身の上にある。シングルマザーだったけれど4歳の一人娘を事故で亡くしており、今は一人きり。帰りを待つ人間もいない。ただ毎日仕事しているだけ、という抜け殻みたいな女性である。だから途中、彼女が諦めて娘のもとに行こうとするのは、必然的でさえある。

 ネタバレになるから書かないけれど、そこで奇跡的な現象が起こり、ストーン博士を再起させる。彼女は絶対諦めないと誓って再び動き出す。彼女は地球で失った「生」への執着を宇宙で取り戻し、それを胸に地球への帰還を目指すことになる

 この結末は是非劇場で観ていただきたい。DVDでこの迫力がどこまで通じるか疑問である。

追記)
 登場人物はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人だけだけれど、地球の管制センターの声役でエド・ハリスも出演している。観終わってから知ったのだけれど。

聖書の言うリーダーからだいぶ乖離したリーダーの姿

 韓国の大教会の牧師が、不正会計等で実刑判決を受けた。牧師側の最終弁論はこんなものだったらしい。
「韓国キリスト教界の地位を国際的に高めてきた牧師が有罪判決を受けたら、韓国キリスト教界が大きな被害を被ることになる(だから有罪にすべきでない)。」

 だいぶ論点のズレた弁論に聞こえる。それにおそらく裁判沙汰になった時点で、すでに韓国キリスト教界は被害を被っている。
 またその弁論から、同牧師が自分の「仕事」に対して何を求めていたかがわかる。
「地位を高めたかった」
 神の為でなく、まして人々の為でなく、「キリスト教界」のイメージの為である。そしておそらく自分自身の地位名誉の為である。

 同牧師は以前から「繁栄の神学」で有名だったけれど、要するにキリスト教を利用した繁栄にしか興味がなかったのだろう。だから「神」も「信仰」も「信徒」も、彼にとって金をもたらす道具に過ぎなかった。

 上記の最終弁論も、それを証明している。もし彼が本当に神様や信徒らに気をかけていたのなら、「神の名を貶めてしまった」とか「信徒の皆さんに迷惑をかけてしまった」とかいう反省の弁が出てもおかしくないからだ。
「オレを有罪にして韓国のキリスト教界がどうにかなっても知らんぞ」というのは、見苦しい言い逃れであり、また脅迫である。神の器にふさわしい言い分ではない。

 もう一昔前のことになるけれど、その牧師本人を日本で見たことがある。彼が大きな集会のゲストに招かれていたのだ。
 メッセージの前、彼が控室から出てくるのに私はちょうど出くわした。大勢の取り巻きに囲まれていた。同じ廊下にいた私は、その行列が通り過ぎるまで、壁に引っ付いていなければならなかった。
 その時は「神の器も大物になれば扱いが違うんだな」くらいにしか思わなかったけれど、今思うと、そういう扱いが聖書的な「神の器」にふさわしいのかどうか、疑問を覚える。
 聖書はリーダーを「人に仕える者」と定義しているけれど、彼は何から何まで、「人に仕えられていた」からだ。

2014年2月1日土曜日

ホームスクールの「労働対効果」について

ホームスクールの「労働対効果」について考えてみた。

クリスチャンがホームスクールを始めようとしたら、大きく二つのことを考えねばならない。第一に、子供に何をどう教えるか。第二に、教育委員会と公立学校にどう説明するか。第一の方は楽しく考えられるかもしれない。しかし第二の方はちょっと大変だ。それはホームスクーラーにとって通過儀礼みたいなものかもしれない。

最初に断っておくと、ホームスクールを否定するつもりはない。だが公立学校も私立学校も同じように否定するつもりはない。どちらも問題がない訳ではないし、どちらも子供の健全な成長を保障するものではない。

さて、ホームスクーラーは教育委員会と学校に、宣言なり説明なりをしなければならない。ウチはホームスクールをするから公立学校に子供を送りません、理由はこれこれです、と。
それに対する教育委員会や学校の回答は、いつも同じである。「それは違法です」「憲法違反です」「教育法違反です」などなど。

べつに彼ら個人個人が悪いのではない。そう言わなければならないのだ。チャーチスクール、ホームスクールは義務教育の定義からすると(現段階では)違憲とされている訳で、大規模な市民運動とか訴訟運動とかが起こって世論が動かない限り、今のところ変わりそうにないからだ。だから彼ら公僕の方々は、違憲なものは違憲と言わなければならない。

それに対するホームスクーラー側の言い分はある訳で、私はそちらの気持ちも理解できないではない。けれど公に違憲とされている以上、彼らに勝ち目はない。それに個々の教育委員会や学校といくら衝突しても、大勢に影響を与えることはない。どうせ衝突するなら、世論が動くようなやり方でなければ意味がない。

ホームスクールを支援する団体も、そのことは重々承知している。同団体は「教育委員会や公立学校にどう対応すべきか」みたいなガイドラインを会員向けに発行しているけれど、そこには明確に、「公立学校にホームスクールを認めてもらうことは目的ではない」と書いてある。つまり、認められないのが普通だということだ。それより同団体のスタンスは、「誰に認められなくても決心したならホームスクールを進めるべきだ」というようなものだ。

だからホームスクーラーが教育委員会なり公立学校なりに説明に行く時は、自分たちの言い分は言うにしても、それを盾に衝突すべきではない。互いに歩み寄れるように努めるべきだ。

ところでそういう労力を考えただけでも、ホームスクールは大変だろうなと思う。違法だ違反だと言われるのは、相当ストレスにもなる(そもそもクリスチャンとして、違反とされていることを選ぶのはどうなんだという議論はあるだろう)。それに加えて日々、子供に勉強や運動を教えなければならない。親に休みはあるのだろうか。
あるいは公立学校に子供を送り、必要な教育をプロに任せ、帰ってきた子供に最大限の愛情を注ぐ、という選択肢も、決して悪いものではないように私には思える。しかもそれは違憲だとか違法だとか言われる心配もない。

教育熱心なクリスチャンらが大変な労力を注いでホームスクールをし、子供を育て上げ、ついに成人した子供を見る。その時、もし彼らが失望するようなことがあったとしたら、それは大変な悲劇としか言いようがない。「労働対効果」で考えたら、一体どんなことになってしまうだろうか。