そしてそれは、神が神である所以でもある。
その「神が全能者である」というのは良いニュースだ。しかし、必ずしもそうではない。たとえば「神は全能だから、その神が味方するクリスチャンにも不可能はない」という話にされると、あるクリスチャンにとって悲劇となる。
何故なら不可能はないのだから、「できません」とか「無理です」とか「失敗しました」とか言えなくなるからだ。
この理屈を前面に押し出す牧師のもとにいると、信徒は非常に苦しむことになる。たとえば牧師から「○○をやってくれ」と命令され、それが時間的にか技術的にか無理だとしても、そうは言えない。もし言えば「はじめからできないと言うな」「やってもいないのに言うな」「とにかく祈ってやってみろ」等と、厳しく言われることになるからだ。
そしてその主張を補強するために牧師が持ち出すのが、「神は全能者」だ。「神に不可能はない。だから私たちにも不可能はない。できないと言うのは不信仰だ」等と言われ、信徒は黙って不可能にぶち当たって行くことになる。
ある信徒が、牧師に命じられ、ひとつの映像作品を作っていた。時間のかかる作業だった。しかしある集会で上映できるよう、期日は絶対に守らなければならなかった。
その信徒は昼も夜も作業に徹し、幾晩も徹夜した。なんとか期日前に完成させた。しかしそれを牧師に見せると、あれこれと修正箇所が出てきた。その要求にも忠実に応えた。しかし修正箇所は次々と増え、結局、集会当日の朝まで、作業が続いた。
集会の少し前、その信徒は、プロジェクターのセットや音響との打ち合わせに追われていた。どうもプロジェクターが不調だった。映像が映ったり映らなかったりした。しかし素人の彼には原因はわからなかった。牧師に恐る恐る報告すると、牧師は激怒した。「なぜチェックしておかなかった。上映できなきゃ意味がないだろう。これは神への奉仕なんだぞ。今からでもプロジェクターを買ってこい」
その信徒は、そこまで完璧を求められるべきだっただろうか。決して失敗が許されない、それが神への奉仕なのだろうか。もしそうだとしたら、誰がクリスチャンなどやっていられるだろうか。
神が全能者であるのは間違いない。けれどだからこそ、人間は不完全なのだ。もし人間が完全なら、神など必要ない。不完全で弱い人間だからこそ、神は憐れんで下さる。
もちろん、だからと言って進んで失敗するべきではないし、怠けたりサボったりすべきではない。何事もバランスが必要だ。なんであれ極端に傾くのには、注意が必要だ。
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