そういう苦しみはできれば避けたいけれど、どうにも避けられないこともある。自分の弱さや不甲斐なさの故、そういう状況に陥ることもある(その場合は自分で自分を責めてしまうので、尚更苦しむ)。
そういう時は、人の本性が最もよく現れる時でもある。普段隠れている様々な感情や行動が、自分でも驚く程、出てくる。しかしそれこそが、その人の究極的な姿なのだと思う。
その苦しみの底で、神を呼び求める人がいる。その人は普段はあまり熱心なクリスチャンではないかもしれない。「困った時の神頼み」的な行動かもしれない。しかし極限状態で神に助けを乞うのは、やはりその人が心の底では神を信じ、神が働かれることにすがるしかないと信じているからだ。
そして助けを乞う相手が心の中にいるのは、幸いなことだと私は思う。たとえ他者がそれを「気のせいだ」と断じても、本人にとって神は確かに存在し、自分の声にならない声を聞いてくれている。それだけでも、どれだけ救われることか。そしてその救いは、そういう存在を持たない人には得られない種類のものだ。
百歩譲って神が存在しないとしても、信じる者にとって神は間違いなく存在している。そして神の言葉と規範(聖書)がある。その規範に従って一貫した生き方をすることは、決して不幸なことではない。かえって心に安定をもたらす。もしそれが本当は「気のせい」だとしても、何の指針もなく一生を過ごすより、よっぽど幸福な「気のせい」だと私は思う。
パスカルの「賭け」の論理に似ていますね。私も同感です。
返信削除