「霊の戦い」がもたらす際限のない恐怖

2014年2月22日土曜日

キリスト教信仰

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「霊の戦い」を強調し、実践する牧師や教会がある。地域を縛る悪霊や、罪別の悪霊(例えば姦淫の霊とか盗みの霊とか)がそれぞれ働いているから、クリスチャンはそれらと個別に戦わなければならない。イエス・キリストの御名によってそれらを打ち負かし、勝利しなければならない。戦わなかったり、そういう戦いを信じなかったりすることは不信仰、あるいは真理がわからない可哀想な信仰者である。そしてそれらの悪霊たちにいいように攻撃されてしまう…というのが彼らの主張だ。

「戦い」と聞いたら、誰でも構える。人によっては恐れを抱く。緊張したりひるんだりする。しかし牧師は言う。「大丈夫、この戦いは『主の戦い』だから、主ご自身が戦われる。私たちは恐れずに立ち、御名を宣言すればいい。私たちには既に圧倒的勝利が与えられているのだ」
そして、旧約聖書のイスラエルの数々の戦いの記録が引用され、補強される(やはり、彼らが根拠とするのは旧約聖書が多い)。

 だったら戦う必要があるのか、というツッコミもあるし、それはそもそも「戦い」とは呼ばない。ひとこと宣言するだけでいいのだから、時間もかからない。それに、一度宣言すればそれでいいはずだ。何も恐れる必要はない、ということになる。
 しかし実際の「霊の戦い」を見てみると、何度となく同じ戦いをしているし、そのたびに物凄い怒鳴り声で悪霊を叱りつける。まるで声が大きくないと勝てないみたいに。

 そういう「霊の戦い」の本当の問題点は、大きく2つあると私は考えている。

 1つは、イエス・キリストの十字架の贖いと勝利を無効にしている点だ。十字架だけでは不十分で、クリスチャンが戦わなければ、悪霊たちを打ち負かすことができない、つまり救いは不十分だ、という主張がこの背景にある。
 生涯をかけて罪と戦う、という点では、それは真実を含んでいる。しかし神様が「悪霊に勝利した」と言っているのに、「まだまだ戦わなければ終わらない」と言うのは、明らかに聖書に反している。

 もう1つは、次々と新手の悪霊たちが登場する点だ。毎週登場する仮面ライダーの敵よろしく、殺人の霊とか拒絶の霊とか、甘えの霊とか偽りの霊とか、この建物を縛る霊とかこの町内を縛る霊とか、そういう悪霊たちが再現なく登場する(牧師によって紹介される)。
 それを聞かされる信徒はどう思うだろうか。まだ自分の知らない悪霊が大勢いて、今もそれらの攻撃を知らず知らず受けてしまっている、という絶望的な恐怖に陥る。敵の全貌がわからなくて、戦いようがないからだ。そしてそこから救われるには、牧師の言う通りにするしかない。

 しかしその信仰生活は、もはやイエス・キリストも創造主も関係ない。悪霊博士になるくらい悪霊について勉強したり調べたりして、あらゆる種類の悪霊を見つけ出し(あるいは作り出し)、全ての敵に対して、自分で勝利を得なければならないからだ。誰がそんな信仰生活を送りたいと願うだろうか。

 この原理に支配された「霊の戦い」は、人に恐怖をもたらす。神の救いの対局に人を追いやる。それはもはやキリスト教でなく、キリスト教を語る新興宗教でしかない。

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