「神の軍隊」の背景にあるファシズム思想

2014年2月12日水曜日

キリスト教信仰

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「神の軍隊」とか「神の兵士」とかいう表現がある。キリスト教会に集う信徒の中で、特に献身的に奉仕する「選ばれた」人々に、しばしば付けられる称号である。といっても明確な基準や資格がある訳でなく、入隊の儀式がある訳でもない。ただ牧師がそう呼んだからとか、本人がそう自覚しているからとか、そういうことで「神の兵士」かどうかが決まる。

彼らのモデルとなるのは、例えば旧約聖書のヨシュア記に登場する、イスラエルの軍隊である。神の導きにより、約束の地カナンを占領するため、彼らはそこの住民たちと戦った。その軍隊の特徴は非常に明確だった。すなわち神に従うなら勝利し、従わないなら敗北する。

だから今日の「神の軍隊」も、神のために何かと戦い続け、制圧しなければならない。そのために神に従順でなければならない。そして軍隊であるから、常に集団としての秩序を守り、その集団を第一にしなければならない。個人の好みとか自由とか、そういうものは「神に兵士」には必要ない。そう暗黙に考えられている。

その戦いが、真に神のためであるなら、問題ないかもしれない。しかし疑問はある。
例えば「神の軍隊」は何と戦うのか。それは多くの場合、牧師の一存で決まる。それは収入を得るための事業だったり、空を打つような「霊の戦い」だったり、反対者を排除するための決議だったりする。しかしそれらは本当に神のためなのだろうか。神は今日の教会にそのような戦いを願っているのだろうか。

また「神の兵士」に求められる「従順」にも疑問がある。勝利するため、彼らは神に完全服従しなければならない。しかしそれは結局のところ、牧師の主張を無条件に聞き、その通りに実行することである。それが本当に神からのものかどうかという吟味は、許されない。

それに、個人より「神の軍隊」という集団が最優先されるのも疑問である。「神のための戦いだから中途半端ではいけない」ということで、彼らには日常的に長時間の奉仕や礼拝行為が課せられる。個人の都合は二の次、三の次だ。もちろん本物の軍隊であれば、それくらいの集団意識は必要かもしれない。しかし十分な報酬もなく、生活の保障もないのに、一信徒がどこまで義務を負わなければならないのだろうか。

しかしどこまでが信仰で、どこからが行き過ぎかは判断が難しい。神に仕えるべきだけれど、どこまで犠牲を払うべきなのか。神が最大限の犠牲(十字架の死)を払って下さったから、人間もでき得る限りの犠牲を払い続けなければならないのか。
そういう意味で、「神の軍隊」は神への最大限の犠牲を払うことなのかもしれないけれど。

礼拝の最後、賛美や祈りが最高潮に盛り上がったところで、牧師が高らかに宣言する。「私たちは神の軍隊だ!」それに熱狂的な信徒たちの叫び声が続く。彼らはその響きに興奮し、更なる使命感に燃やされ、更なる個人無視・集団最優先の心理状態に入っていく。
しかしそれは、いわゆるファシズムとどう違うのだろうか。


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