その真偽はいずれわかるとして、その主張には疑問もある。
・恐怖にかられた選民意識・特別意識
彼らは「本当に聞きたい人だけに聞いてほしい」と強調する。そうやって真剣で熱心な人とそうでない人とを分けようとする。それ自体は悪くない。けれど、そう言われてかえって帰りづらくなる人はいる。真剣だと思われたい、熱心でないと思われたくないという人は、無理にでも残って聞こうとする。その心理の背景にあるのは、選ばれた者でありたい、特別な者でありたい、という願望だ。その結果、無理に努力して「適格」であろうとする。
また、彼らは「終末の大リバイバル」を生き残れるクリスチャン、生き残れないクリスチャンがいると強調する。両者を分けるのは、「神様としっかり繋がっているかどうか」にあると言う。これには警鐘の意味もあるだろうけれど、単に恐怖心を煽るだけにもなる。自分の今の信仰生活に自信がない人は、もっと祈らなきゃとか、もっと彼らの言う通りにしなきゃとか、実は神様とあまり関係ないことに熱心になってしまう。
・漠然とした預言と備え
彼らは「いまだかつてない大患難」を強調する。災害や飢饉や宗教的迫害がその内容だけれど、「特別な啓示」だと言う割には漠然としすぎている。その程度なら聖書にそのまま書いてある。
それに対する「備え」というのも、具体的に何をしたらいいかよくわからない。「ダディ(神様のこと)と親密に交わること」とか「御心をしっかり知ること」とかと言うけれど、結局は「ダビデの幕屋の回復」に繋がっていくようだ。そしてユダヤ歴やユダヤの祭りといった、イスラエル的な何かに傾倒していく(それ自体は悪くない)。例えば「角笛」とか「ハープ」とかを祈りの場に持ち込み、何か特別なこと、新しいことが始まっているように見せる。彼らにとって実際に新しいのだろうけれど、私に言わせると、その一連の流れは今までにもあったことだ。新しいことではない。「終末強調」→「ユダヤ傾倒」はセットで現れる。
一番の問題は、その終末強調の真偽が吟味されないことにある。そもそも吟味しようとする者は、その場にはいられない。「聞きたい人だけ残って聞いて」と言われて残った時点で、何を話されても、それが真実であることが大前提となる。
結果、その「終末」に向けて真剣に備えようとして、珍妙な行為の数々に走るクリスチャンたちが現れる。
そして今度こそ、本当の終末がくるかもしれない。しかしその時彼らが「生き残れる」かどうかは、まったく別問題である。一生懸命「備えて」きたのに生き残れないとしたら、そんな悲劇なことはない。
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