「事実」は変えようのないものに思える。けれど、実は脆い。
自分がこの目で見、耳で聞いたことは間違いなく事実だ。けれどそれは、自分から見た側面でしかないことがある。そこには自分の知らない事情や理由が存在しえる。自分が直接知らない、人伝に聞いた話なら尚更だ。そこには話した人の主観が多分に入っているかもしれない。
劇団四季のミュージカル「ウィキッド」は、その「事実の脆さ」をテーマに取り上げている。善良な魔法使いが貫く「正義」が、オズの国にあって「悪」に映る。多くの誤解がある。そして彼女は「悪の魔女」として生きることを余儀なくされる。彼女はそのとき悟る。
「皆が信じれば、それが事実になる」
これは古くから実際に起こっている。私たちが知っている「歴史」もかなり脆い。自分が確実に「知っている」と思っていることも、誰が伝えるかによって大きく変わりえる。誤りが伝えられ、いくら正そうとしても、その誤りを信じる人が多ければ、それが事実となってしまう。
キリスト教会にもそういうことは起こりえる。何年何月に何かが起こる、という「大予言」が教会で語られ、多くの信徒がアーメンとすると、それがどんなに滑稽であっても事実として受け入れられる。少なくともその教会内では事実となる。
また、私が知っている教会が解散となった経緯についても、いろいろな人がいろいろなことを言っていた。相反する証言さえあった。何が事実かはさながら「藪の中」だ。
だから場合によって、「事実」を知ることは至難の業だ。よく調べ、よく吟味し、よく考えなければならない。時間もかかる。それでも事実はわからないかもしれない。
それより、皆が信じていることを単純に信じた方が楽だ。それは「思考停止」と言うけれど。
0 件のコメント:
コメントを投稿