「韓国キリスト教界の地位を国際的に高めてきた牧師が有罪判決を受けたら、韓国キリスト教界が大きな被害を被ることになる(だから有罪にすべきでない)。」
だいぶ論点のズレた弁論に聞こえる。それにおそらく裁判沙汰になった時点で、すでに韓国キリスト教界は被害を被っている。
またその弁論から、同牧師が自分の「仕事」に対して何を求めていたかがわかる。
「地位を高めたかった」
神の為でなく、まして人々の為でなく、「キリスト教界」のイメージの為である。そしておそらく自分自身の地位名誉の為である。
同牧師は以前から「繁栄の神学」で有名だったけれど、要するにキリスト教を利用した繁栄にしか興味がなかったのだろう。だから「神」も「信仰」も「信徒」も、彼にとって金をもたらす道具に過ぎなかった。
上記の最終弁論も、それを証明している。もし彼が本当に神様や信徒らに気をかけていたのなら、「神の名を貶めてしまった」とか「信徒の皆さんに迷惑をかけてしまった」とかいう反省の弁が出てもおかしくないからだ。
「オレを有罪にして韓国のキリスト教界がどうにかなっても知らんぞ」というのは、見苦しい言い逃れであり、また脅迫である。神の器にふさわしい言い分ではない。
もう一昔前のことになるけれど、その牧師本人を日本で見たことがある。彼が大きな集会のゲストに招かれていたのだ。
メッセージの前、彼が控室から出てくるのに私はちょうど出くわした。大勢の取り巻きに囲まれていた。同じ廊下にいた私は、その行列が通り過ぎるまで、壁に引っ付いていなければならなかった。
その時は「神の器も大物になれば扱いが違うんだな」くらいにしか思わなかったけれど、今思うと、そういう扱いが聖書的な「神の器」にふさわしいのかどうか、疑問を覚える。
聖書はリーダーを「人に仕える者」と定義しているけれど、彼は何から何まで、「人に仕えられていた」からだ。