文脈無視の都合のいい聖書解釈について

2014年2月19日水曜日

キリスト教信仰

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 聖霊派の教会の中には、日曜の礼拝を「セレブレーション」とか「祝宴」とか呼ぶところがある。それ自体は何ら問題ない。要は、礼拝は神様を讃える場であり、パーティみたいに神様を喜ぶ場だと認識しているのである。「生ける神に出会うエキサイティングな場」だとも言う。

 だから彼らにとって、礼拝は様々な現象が起こる時間である。突然喜びに満たされて笑い出したり、踊り出したり、「神様に触れられて」泣き出したりする。そしてそれらを「聖書に書いてあることだ」と言う。だから自分たちは間違っていない、むしろ正しいと主張する。

 しかし彼らが根拠として上げる聖書箇所は、必ずしもその現象を支持するものではない。例えば「突然笑い出すこと」を、マラキ4章2節の「あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる(新改訳)」の成就だと言う。しかしそれは、文脈を無視した解釈だ。何故なら「子牛のようにとびはねる」のは、「義の太陽がのぼる」からで、「いやされる」からだ。つまり何かの圧迫から明確に救われ、助けられたと認識するから、喜んで「とびはねる」のだ。礼拝中に脈絡なく「突然笑い出す」こととは違う。もっと言うと、「突然笑い出せる」のはそういう深刻な悩みや葛藤がない状態だからだ。食事もノドを通らない、夜も眠れないほどの重い精神的圧迫を受けている人が、嘆き苦しみながらも礼拝に来て、そこで突然楽しくなって笑い出すだろうか。

 そういう文脈無視の解釈は、都合のいい聖書解釈でしかない。何とでも解釈できてしまう。そして彼らが無視するのは文脈だけではない。人の心をも無視している。礼拝に来れば「いのちが与えられ」、「解放され」、「自由になれる」と言い、そうできない心の状態にある人を「不信仰だ」と断ずる。人には重荷を背負わせ、自分たちはそれに指一本触れようとしない。そういう人たちが聖書で何と呼ばれているか、彼らはよく知っているはずだけれど。

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