「しるし」を求めるクリスチャンらがいる。彼らは「奇跡的な癒し」とか「よみがえり」とか、「金粉」とか「天使の羽」とか「天使の声」とかを熱心に求めている。そして何らかの事象や偶然に「符号的な啓示」を意味づけようとする。
その全てを否定する気はない。「しるし」の解釈にもいろいろあるだろう。しかし少なくとも、たまたま見た時計の数字(12時30分なら1230とか)とか、泊まった部屋の番号とか、何かの集会の日付(2月8日なら28とか0208とか)とか、そういうのを聖書の章節番号に当てはめたり、自分たちが重要だと思っている日時と同じだと言い張ったりするのは、単なる「こじつけ」でしかない。「しるし」を勝手に作り出しているだけだ。「神様が特別に啓示している」とか自信満々に言うけれど、それが思い込みでないとどう証明できるのだろうか。
さらに酷いケースになると、例えば利用した駅のホーム番号と、乗った電車の車両番号の数字を全部合計したら〇〇で、これには××という意味がある、などと数字を都合よく操作しだす。ここまでくると本気なのか、ふざけているのかが疑われるレベルだ。
彼らは聖書を熱心に読み、「世界レベルのメッセンジャー」の話を聞きにあちこち旅し、何時間も異言モドキで祈り、真理を探究しようとしているかもしれない。しかし彼らが慕うイエス・キリスト本人が、「しるしは与えられません」(マタイ12章39節・新改訳)とシンプルに言っていることについて、吟味したことはないようだ。
クリスチャンとして本当に求めるべき事柄と、そうでない事柄とがある。何でも熱心であればいいという訳ではない。でないと、熱心であったけれどまったくの無駄だった、ということにもなる。聖書はそういう人間を「愚かだ」と言っている。
リーダーや「世界的な神の器」が言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考え、聖書が単純に言っていることをまっすぐ受け取る態度が、クリスチャンには必要だ。しかし教会の中でそういう態度を貫こうとすると、「不従順だ」とか「不信仰だ」とか「悪魔の影響を受けている」とかと言われて、辛い思いをすることもある。決して簡単なことではない。
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