聖書的教育か、牧師の単なるエゴか

2014年2月21日金曜日

キリスト教信仰

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 信徒を積極的に教育しようとする牧師がいる。教育といっても聖書教理に関してではない。「一般常識」に関してだ。

 例えば誰かに何かしてもらったら、こういうお礼をしなさい、こういう態度でいなさい、こう感謝しなさい、という指導をする。そしてその信徒が実際にどうするかを見て、後からまた呼び出し、あれこれ注意する。
 あるいは、クリスチャンは威厳がなければならないから、人前では堂々としていなさい、強く雄々しくありなさい、弱いところを見せてはいけない、などと指導する。

 信徒からすると、「神の代理人」である牧師が言うのだから、聞かない訳にいかない。そしてクリスチャン教育とはこういうものだと認識してしまう。初めてだから疑問に思うことがない。そして自分が先輩になった時、後輩に対してまったく同じ指導をするようになる。

 しかしその「教育」は、牧師が理想とする人物像への「矯正」でしかない。多様な人間性と価値観を否定する行為でもある。その証拠に、それに従う信徒らは、一様で同質な没個性集団へと変質していく。

 通常、牧師は信徒に教える立場にあり、信徒は教えられる立場にある。両者ともそれぞれの立場に慣れていて、そのこと自体は疑問に思わない。そして何を教えるか、何を教えられるかという点も吟味されない。それは普通なら牧師が決めるからだ。そして上記のような牧師ほど、エペソ4章11~12節を盾にして自分の指導を正当化しようとする。「これは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためだ」と。

 だから牧師にどこまで踏み込ませるか、信徒自身が明確に線引きするのは難しい。何が聖書的な教育で、何が行き過ぎなのか、教えられる立場にある信徒にどうしてわかるだろうか。それは全て牧師の手の中にある。それに歯止めをかけるおそらく唯一の手段は、信徒個人の心が発する「違和感」みたいな感覚にあるだろうと思う。

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