クリスチャンの「成長」と、そうでないもの

2014年2月23日日曜日

キリスト教信仰

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 信徒の「成長」を強調する教会は、だいたいが「訓練」を積極的にしている。どんな訓練かと言うと、教会の奉仕をさせることだ。会堂掃除や礼拝奉仕、教会事務や事業系の奉仕まで、その範囲は幅広い。
 それだけ広範な奉仕をさせれば、信徒はさぞかし「成長」するかもしれない。しかしその成長というのは、結局のところ職能スキルの上達でしかない。聖書が言うクリスチャン的成長・成熟とは違う。

 いやいやウチの教会は違う、ちゃんと「霊的訓練」をしている、と言うかもしれない。確かに「ディボーション」や聖書通読や聖句暗唱など指導しているかもしれない。しかし「霊的成長」を正しく測るのは非常に困難だ。たとえば「何事も主の御心を求め、しっかりと御声を聞いて判断しなければならない」という風潮の教会にいる場合、「何としても御声を聞かねばならない」というプレッシャーに無意識的にさらされていて、そのプレッシャーは容易に「御声の捏造」「導かれたという思い込み」につながるからだ。それは見せかけの霊的成長でしかない。
 そういう風潮でない教会だとしても、「御声をちゃんと聞いているように思われたい」という自己実現的発想から、霊的にふるまうクリスチャンもいる。

 だから「霊的成長」は測りづらい。それに比べて、冒頭に挙げた「職能スキル的成長」は測りやすい。週報作りとか礼拝の司会とかが以前に比べて上手にできるようになれば、成長したとわかるからだ。そして、その手の成長が「クリスチャンとしての成長」だと思われがちだ。

 ところで私は「霊的成長」という言葉があまり好きでない。前述のようにどうにでも誤魔化せる種類の成長であるからだ。それより「人格的成長」こそクリスチャンに必要だと思う。真にキリストに従い、聖書に従うなら、職能スキルとか霊的云々とかいう以前に、そこが成長すべきだからだ。人の痛みを感じたり、自分の過ちを認めたり、素直に謝罪したり、誠実を尽くそうとしたりという、人間として根本的な資質が備わっていなければ、いったい何になるだろうか。クリスチャンとして耳目を集めるような活動ができたとして、それがいったい何になるだろうか。
 それに人格的成長は測りやすい。多少は誤魔化せるけれど、長期間に渡って誤魔化すのは無理だからだ。必ずどこかに破綻をきたす。

 何かができるクリスチャンは確かに素晴らしいだろう。流暢に祈るクリスチャンも素晴らしいだろう。しかし何ができなくても、誰に対しても誠実であろうとするクリスチャンほど素晴らしい存在はないと私は思う。

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