たとえば牧師が、講壇からそういうアピールをするかもしれない。それは一つには、クリスチャンは見返りを求めず善行をすべきだと教える為かもしれない。しかし一方で、単なる自慢話かもしれない。そして自慢話であるなら、聖書が言う善行の精神からはズレている。アピールした時点で、それは見返りを求めない善行ではなくなるからだ。
有名なメッセンジャーらが、自分の経験した「リバイバル」について語ることがある。その手の話には、あるパターンがある。彼らが始めた最初の善行はとても小さな、些細なものだったけれど、それが爆発的に広がり、地域を巻き込む大きな活動になっていった、というパターンだ。
彼らはその最初の善行を「小さな愛の行動」とか表現する。公園に寝泊まりするホームレスの方を気の毒に思って足を洗ってあげたとか、どれも非常に感動的なエピソードである。
それらは確かに誰にも知られず、見られず、何の見返りもない善行だったはずだ。しかし聖書はそもそも、「愛」とはそういうものだと言っている。有名なメッセンジャーが言うまでもなく、牧師が講壇でさも奥深い真理を語るように言わなくても、ちゃんと聖書を読んでいるクリスチャンなら誰でも知っているはずだ。そして見返りを求めない愛が、人に話した時点でそうでなくなってしまうということにも、気づいているはずだ。
もちろん全ての善行を人に話すなということではない。人に話した方が良い場合もある。しかし聖書が言う善行とは、人に知られるかどうかとか、見返りがあるかどうかとか、そういう動機とはほど遠い心の部分から出てくる行動だと私は信じている。そしてだからこそ、神ご自身がその行動に報いて下さるのだ。
ユダヤ人精神科医であったV.E.フランクルも同じようなことを言っているので、最後に彼の言葉を引用したい。彼はナチスによって強制収容所に収監され、妻子をそこで失った。人間の醜悪さを、嫌という程見させられたのだろうと私は想像する。
「虚栄と誇りは違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。」(V.E.フランクル)
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