キリスト教的「許し」に関する雑感

2014年2月16日日曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教の教えの中心には「許し」があると私は考えている。
 どんな罪を犯してしまっても、イエス・キリストを信じる者が真に悔い改めるなら、許される。もちろん何らかの償いが必要だろうし、人からは許されないかもしれない。しかし神の許しは受けている。

 だから教会や宣教団体のリーダーたちはよく「許し」のメッセージをする。「何度でもやり直せる」というのは希望に溢れた言葉だ。自分の罪の為にどんなに酷い状況に陥ったとしても、神にあって、(しかるべきプロセスを経て)もう一度立ち上がることができる。再出発できる。この希望は、キリスト教だけが提供できるものではないだろうか。

 しかしそんな「許し」が、ちょっとおかしく使われる場合がある。「十字架の上にあぐらをかく」という現象だ。極端に言うと、許されるんだから何をしてもいい、というような心理状態。当然だが、何をしてもいいということにはならない。

 また、「許し」を語りながら信徒を許さない牧師がいる。例えば信徒が奉仕で失敗すると、激怒して罵声を浴びせる。とても笑顔で「許し」を語る牧師と、同一人物とは思えない。牧師はそれを「訓練」と言うけれど、信徒は「絶対に失敗できない」という心理に追い込まれるだけだ。そこは失敗できない、許されない、叱られるという、ずいぶん殺伐とした教会となっている。

 教理に対する正しい学習と理解が、すべてのクリスチャンに必要だ。そしてそれは牧師にとって都合のいい解釈ではない。しかし多くの信徒が、牧師からほとんどの教理を学んでいる。だから上記のような「殺伐とした教会」をあり得ないと思う人はいるだろうけれど、そこの信徒にとって、それはあり得ないことではない。むしろ当然の結果である。

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