「神様のために」の背後にひそむ「目立ちたい」願望

2014年2月25日火曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教メディアは、牧師やクリスチャンのパフォーマンスをよく取り上げる。どこそこでどんな集会があって、どんな「大物」が来るとか、海外の有名クリスチャン・バンドが来日するとか、誰それが十字架行進をするとか、そういう耳目を集めそうな話題を大々的に取り上げる。

 もちろんキリスト教メディアもメディアなので、そういう姿勢になるのは至極当然なことだ。むしろ、そうあるべきかもしれない。しかし残念なことに、日本のキリスト教社会は非常に狭い。どんなネタも、なかなか話題にならない。一般向けにはなおさらならない。

 そういうキリスト教メディアの辛さはさて置くとして、メディアに取り上げられる牧師やクリスチャンらについて考えてみたい。

 彼らは「神様のために」賛美集会を開いたり、被災地支援をしたり、十字架を担いで歩いたりする。しかしその本当の動機は何なのだろうか。本当に神様のためだけだろうか。あるいは神様を必要としている人々のためだけだろうか。
 私もそういう経験があるからわかるけれど、そこには「何かがしたい」「これができるからしたい」「面白そうだからしたい」というような動機もある。そしてその背後には、「目立ちたい」とか、「自分たちのミニストリーをアピールしたい」とか、「有名になったらいいな」とかいう心理もある。そうでなければ、なぜ十字架を担いで歩くのだろうか。「イエス様の受けた苦しみを味わいたい」のなら、人前で担ぐ必要はない。それにそんなに長い距離を担ぐ必要もない。

 マザーテレサのインドでの活動は、世界的に注目された。それに倣う人も現れた。「私もマザーテレサのような働きがしたい」と言う人もいる。しかし本当にそうであるなら、今すぐ公園や川原に行って、ホームレスの方々に声をかけるべきだ。誰も見舞いに来ない入院患者を探して、尋ねるべきだ。今は忙しいとか、都合が悪いとか、そんなこと言っている場合ではない。

 マザーテレサが最初にインドの貧しい街角に立った時、彼女は有名になることを望んでいただろうか。何かのミニストリーを始めようと思っていただろうか。みんなから注目されたいと思っていただろうか。彼女はただ、目の前の路傍に横たわる弱った人を、介抱したいと願っただけだ。

 もちろん、メディアに大々的に取り上げられるような活動をして世間の注目を集めることも、決して悪いことではない。それでキリスト教が広がるなら、良いことでさえある。ただその動機に神様以外の不純物がいくらか混じっていることは、素直に認めた方が良い。それを隠して、綺麗事で塗り固めるよりは。

追記)
 要はクリスチャンの活動には、「神様のため」以外にも自己実現とか野望とかの「自分の都合」が幾らか含まれている、という話だ。しかしそれ自体は悪くない。人間とはそういうものだからだ。しかしその存在を認めず、あくまで綺麗事で固めようとするクリスチャンは、信頼に値しない。

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