「全会一致」にこだわるリーダーに見える人格的欠陥

2014年2月6日木曜日

キリスト教信仰

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 何でも「全会一致」で決まらなければ気が済まない牧師や宣教師がいる。
 特に自分のアイディアであるなら、そこにいる全員が快く賛成しなければダメだ、と彼らは思っている。だから一人でも反対意見を出したり、反対とまでいかなくても難色を示したりしたら、彼らは全力でそれを「潰し」にかかる。

「潰し方」はいろいろある。反対者を呼びつけて延々と尋問めいたことをしたり、メールで執拗に攻撃したり、あらぬ噂を流して反対者の立場を悪くさせたり、もう何でもアリだ。
 しかも彼らは、たった一度だけ反対されたことを、何年たっても忘れない。「あなたはあの時反対した。だから・・・」と過去のアレコレをいつまでも蒸し返す。

 彼らは「全会一致」でなければ、聖書的「一致」ではないと考えている。「神の家族として一致していなければ平和はない」とか「皆が同じ心、同じ信仰でなければ教会は弱くなる」とか、もっともらしいことを言って自説を補強しようとする。しかし、新約聖書の時代の教会に激しい議論があったことには決して触れない。それよりは、旧約聖書の時代のイスラエルの不従順をよく問題視する。

 どうしてそうなのかよくわからないけれど、彼らは反対されることに慣れていないばかりか、それを極端に嫌っている。自分の意見が拒絶されることと、自分自身が拒絶されることとをうまく区別できないのかもしれない。そしてそうだとしたら、それはリーダーとして致命的な人格的欠陥である。彼らをリーダーにすること自体が間違いである。

 もちろん、人格的問題のないリーダーなどいない。その問題がどこまで許容されるべきか、という話である。しかし少なくとも、良かれと思って反対意見を出す者を敵対視し、全力で「潰し」にかかるような人間がリーダーとして不適格なのは言うまでもない。

 では聖書的「一致」について正しく学べばいいだろう、という話ではない。もちろん正しく学ぶのは必要だ。けれど人格的欠陥があるなら何を学んでも無駄になる。まずはその欠陥をどうにかすべきだ。リーダーとして立ちたいと願うならば、だけれど。

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