そういう憐れみ深さは、天性の賜物かもしれないし、あるいは自らの苦悩の深さゆえ体得した人格かもしれない。いずれにせよ正真正銘の「憐れみ深い人」は存在するし、私はそれは本当に良いことだと思う。
ただ、そういう憐れみ深さは、表面的に伝搬することがある。
例えば教会で信徒が何人か集まって、互いのために祈るとする。憐れみ深い人は真剣に祈るから、やたら長かったり、激しかったりする。涙に濡れて祈れなくなることもある。するとその隣にいる、特に憐れみ深くもない普通の人が、「自分もこんな風に祈らなきゃ」と思うかもしれない。するとその人はあらん限りの感情を込め、多少の誇張表現もし、熱く祈ってみせる。さて、その隣の人も同じように思い、同じように祈ったらどうなるだろうか。そのグループの中で本当に憐れみ深い人はどれくらいいるだろうか。
こういうことは祈りだけでなく、教会のあらゆる活動に見られる。熱心に賛美する人を見て、同じように賛美する人が現れる。メッセージ中に「アーメン」という声が上がるのを聞いて、同じように言う人が現れる。涙を流して祈る人を見て、同じように祈る人が現れる。
それは「人のふり見て我がふり直せ」ということかもしれない。クリスチャンになったばかりの人には教育的に必要なことかもしれない。しかしそれはあくまで「ふり」であって、その行動の裏に心があるかどうかは、別問題だ。
だから全てのクリスチャンを疑え、という話ではない。けれど、そういうことがあるのは間違いない。憐れみ深く見える人が、全て憐れみ深いのではない。
祈り会などで、牧師が「○○の為に祈りましょう」と言う。そして信徒らがそれぞれで祈りだす。声の大きい人もいれば、泣いて祈る人もいる。もがき苦しんで祈る人もいる。そういう「激しい祈り」を横目で見ながら、自分はそこまで気持ちを込められず、何となく祈ってやり過ごした、という人は決して少なくないと思う。そしてそれは正直な反応だ。
けれどそこを偽って、あえて大袈裟に祈ったり、感極まって見せたりすることがある。もしそこにいる全員がそういう演技的祈りをしているのだとしたら、これほど滑稽な風景はない。神様など完全に置いてけぼりである。
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