神を「利用」する信仰と、神に「信頼」する信仰

2014年2月24日月曜日

キリスト教信仰

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 信仰には、神に「依存」するという側面がある。全能者に頼り、すがり、その御業がなされることを乞う姿勢には、一定の「依存」が含まれている。自分だけでは生きられない、何かに頼らなければ生きられない、という姿は一般的には「弱い人間」と思われるかもしれない。けれど人間は、もともと生物的にも社会的にも単独で生きるようには造られていない。その意味で、「依存」は人間の本質の一部とも言える。

 しかし同時に、この「依存」が行き過ぎることがある。日本人は特にそうかもしれない。日本のクリスチャンで言えば、牧師に対する過度な依存が見られることがある。そしてそれは、もはや利己主義でしかない。

 たとえば牧師を「神の代弁者」と信じている(信じさせられている)信徒は、何でも牧師の言うことを聞く。それは神の言葉であって、絶対に間違いなく、むしろ最善の選択肢であるからだ。たとえば「家にある仏壇を捨てれば祝福を得られる」と聞くと、すぐにそれを実行する。
 しかしこれは「従順」というより、思考停止に近い「依存」である。かつ「利己主義」が多分に含まれている。自分の利益のために従っているに過ぎないからだ。

 信仰が神への「依存」であるのは間違いないけれど、それが時として牧師個人への依存とか、有名なメッセンジャーへの依存とか、何かの信仰書への依存とかにすり替わっていることがある。しかもその目的は、自己の利益にしかない。それは信仰とは関係ないものだ。

 信仰とは本来、「依存」である前に「信頼」であると私は思う。前者には盲目的、他力本願的、思考停止的な姿勢が含まれているけれど、後者には積極的な選択が含まれている。自らの考えで神を選び取り、その愛に信頼し、多少の不利益があってもその言葉に従って生きる。そういう生き方は、「神への依存」というより、むしろ「神への自立的信頼」だ。

 また神に対する利己主義的な依存は、神を利用することでしかない。
 たとえば、あなたに対して好意的で、あなたの為なら何でも捧げる覚悟のある人がいるとする。あなたはその人の好意に甘え、その人から奪えるものは何でも奪い、すべてを吸い尽くすだろうか。
 そんなことはできない、という人が多いかもしれない。しかし神に対しては、案外平気でそういう態度を取っているのではないだろうか。

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