2015年3月31日火曜日

「模範的なクリスチャン」は本当に模範的なのか、という話

 いわゆる「模範的なクリスチャン」がいる。
 狂信的とか原理主義的とかいう意味ではない。マジメで、努力家で、ここで書いているような痛々しさがなく、割と常識的で、聖書が示すような愛と憐れみに満ちている、というような意味だ。

 彼らは非の打ちどころのない、パーフェクトなクリスチャンに見える。礼拝では神様を熱く賛美し、メッセージは熱心に「アーメン」しながらメモる。会堂掃除や椅子ならべ、トイレ掃除や洗い物といった裏方奉仕にも熱心かつ忠実。誰に対しても優しく、公平で、喜んで犠牲を払う。悩む人の話を聞き、泣く人と一緒に泣き、笑う人と一緒に笑う。

 そんなふうに聖書を地で行くような「いい人クリスチャン」は、どの教会にも一定数いるような気がする。私が知っている教会にもいた。彼を仮にFと呼ぶ。

 Fは上記の描写通りの人物で、誰が見ても「まさに現代の聖人・・・」と思わせる人だった。頼まれたことは何でもやるし、遅くまで黙々と働き続ける。誰に対しても愛想よく、腰が低く、丁寧。聖書知識も沢山ある。立派な祈りをし、礼拝の司会をソツなくこなし、賛美を歌うのも上手。近隣住民にも丁寧に挨拶するから好感を持たれている。悪い評判などまったくない。
 まさに「模範的」であった。

 そんなFだから当然皆から信頼され、責任の重い奉仕を次々と任された。そしてある時牧師の肩書を得て、いわゆる「協力牧師」みたいな立場になった。

 しかしFのアレッという姿が見えだしたのは、その頃からだった。

 たとえば「バイブルスタディ」の時間があって、Fが講師を務める。はじめに祈るかとか机の配置をどうするかとか、どういう時間配分にするかとか休憩を入れるかとか、そういう細々したことは、講師に委ねられるのが普通である。
 それでFがいろいろコーディネートするのだけれど、そこへたまたま主任牧師が通りがかる。主任牧師はしばらく様子を見てから、机の配置がどうとか雰囲気がどうとか、こうじゃなくてああすべきだとか、そういう訂正を加えてくる。するとFは二つ返事で、言われた通りに全部変えるのである。

「バイブルスタディ」における机の配置とか雰囲気とかに黄金則があるのかどうか知らないし、べつに主任牧師の好む配置だって何だっていいと思うけれど、そのFの「言いなり」感には違和感を覚えた。

 そしてその「言いなり」が一度気になると、そういう場面がやけに目についてくる。

 たとえば礼拝の司会をFがしていて、「今は日本の祝福の季節です」とか信仰っぽく言う。会衆から「アーメン」と声がかかる。けれど前列にいる主任牧師が「日本じゃなくて世界だろ」とかボソッと言うと、Fはすかさず訂正する。「あ、いえ・・・、日本というより、むしろ世界の祝福です!」

 主任牧師に従うのは当然でしょ、とか言われそうだけれど、ちょっとそういうレベルを逸脱しているように思う。従順というより、文字通り「言いなり」なのだから。

 まあしかしそういうのも含めて、Fはやっぱり「模範的」なのである。牧師に従順、奉仕に忠実、実務力もある、という訳で、教会内での立場はもうカタイのであった。
 そのまま行けばFはある意味幸せだったかもしれない。けれどその「言いなり」姿勢が問題となる出来事が起きた。

 あるとき主任牧師が大問題を起こした。教会としては裏切られた形である。問題をウヤムヤにしようとする主任牧師に対して、教会は対決を余儀なくされた。そこで教会の代表として選ばれたのが、Fであった。「模範的な」Fのことだから、きっと聖書的に正しいと思われる処理をするはずだ、と誰もが期待した。F自身も自分が適任だと認めた。
 けれど(詳しくは書かないけれど)結局のところ、Fは主任牧師に言いくるめられてしまった。そしてあろうことか、逆に教会を責める立場に回った。そのものすごい変わり身に、呆れたのなんのって。

 Fは確かに模範的なクリスチャンだったし、その普段の様子には何一つ責められる点がなかったけれど、いかんせん自分の頭でよく考えてみるという点が欠落していた。あるいは自分より権威ある者の顔色をうかがうばかりで、「これ」と信じる道を選ぶことができなかった。

 だからその行動や姿勢が模範的かどうかはもちろん大切だけれど、それだけでは測れない、人として大切な姿勢があるんだと思う。つまりクリスチャンとして模範的な人が、人間として模範的なわけではない。
 
 そしてその大切な姿勢というのは、たとえば奉仕をあからさまに嫌がるとか、教会の都合より自分の都合を優先するとか、そういうことが自然にできる人たちからこそ学べるような気がする。

2015年3月29日日曜日

これやったら痛々しい、というクリスチャンの行動・その2

その1」では、クリスチャンD氏の痛々しい行動の数々を紹介した。今回はD氏に限らず、イタイ系クリスチャンの行動を挙げてみる。

■クリスチャンの痛々しい行動
賛美チームに入りたがる」篇

 たぶん教会奉仕の花形は賛美だろう。舞台に立つし、カッコいいし、仕えている感がある。くわえてスキルが必要だから、なれる人は限られている。
 という条件が、イタ系クリスチャンをそそるのであろう。彼らの多くはなんとかして賛美チームに入ろうとする。そしてイロイロする訳だけれど、その努力がとってもイタイのでここに晒してみる。

・礼拝後の舞台で楽器を弾く
「自分、楽器できるんですよ」というアピールだと思うけれど、誰もいない舞台で気持ちよさそうに演奏する。あくまで個人的にちょっと練習してるだけですって顔しておいて、実は会衆の反応をチラチラうかがっている。
 ちなみにそのフレーズだけ、家で散々練習してきている。

・牧師に猛アピール
「自分、ギターできるんですよ」「あ、ドラムもちょっとかじってました」「それとベースもOKです」「あ、歌うのも好きです」
 結局舞台に立てれば何でもいいんでしょ?

・奏楽者が休むと代行を申し出る
 たとえばギター弾く人が風邪とかで休むと、すかさずでしゃばる。「あ、自分、ギター弾けますよ。この曲もできますよ。良かったらやりましょうか?」
 それで代行を頼まれると、「いやー、頼まれちゃったからさー」とかちょっと迷惑そう。でもすごい笑顔&ドヤ顔。

・祈って示されましたアピール
「このところずっと神様から、賛美をもって仕えるよう語られています」とか言ってくる。
 まあそう言われたら否定できないよね。真偽を確認できないし。
 あれ、でも掃除とか椅子並べとか、普段あんまりしてないよね? 本当に仕えたいって思ってる?

・オリジナル賛美を何気なくアピール
 オリジナルの賛美を作って自分でレコーディングとかしてきて、CDにして持ってくる。
「あの、オリジナル賛美作ってみました。神様に示されて。良かったら聴いてみて下さい」
 えっと・・・、それ聞かなきゃダメ?

■クリスチャンの痛々しい行動
「とにかく目立ちたい」篇

・代表の祈りがすごく長い
 代表の祈りに指名されると、キターッとばかりに延々と祈ってくれる。御言葉をふんだんに引用し、日本とか世界とか話を広げて、何に感謝かにに感謝、とにかく長い。あの、ちょっと寝てていいですか?

・どんな奉仕にも絡んでくる
 たとえばパソコンの話をしていると、「それは〇〇ですよ」とか上目線で絡んでくる。
 スキットに欠員がいると「自分がやりましょうか」とか絡んでくる。
 インテリアの配置を考えていると、「デザインの基本ではこういう場合・・・」とか言ってくる。

・証も長い
 マイクを持たせると延々としゃべる。もはやカラオケ状態。それを信仰的とか敬虔とか思っているからもう手に負えません。自分大好き&空気読めないの典型。

・ムリヤリ相談にのってくる
「最近どうですか」とか話しかけてきて、とにかく悩みを打ち明けさせようとする。いえいえ、必要ないから、少なくとも君には話さないから。
 でもしつこくて、しまいには「主があなたの悩みを聞くよう私を導かれたのです」とか言う始末。ウソつけ!

 以上からわかる通り、イタ系クリスチャンの特徴は、とにかく目立とうとすること。役立つことで自分の存在価値を示そうとすること。けれどそれは神様を愛することでも仕えることでもない。
 彼らの行動は一見信仰的・敬虔だけれど、実は自己中心・他人の気持ち無視である。

 そういう視点で教会内を見回してみると、あなたのまわりもイタ系クリスチャンがいるかもしれない。そういう時は是非あたたかい目で、「イタイな」と思いながらも見守っていただきたい。どうせ彼らには言ってもわからないから。

2015年3月28日土曜日

みんなニコニコ大歓迎にご用心

 村上密先生の最近の記事『カルト化教会は監視社会』を読んで。
 まさにその通りってケースを思い出したから、書いてみたい。

 もう10年ほど前になるけれど、ソウルへ行った。観光でなく、教会研修みたいなものである。何日かかけて市内の主要な教会を回った。その合間のある夜、偶然とある賛美集会があるのを知って、飛び入りで参加することになった。

 詳細は書かないけれど、ソウルでは名の知れた牧師がリードする賛美集会だった。専属の賛美チームがあって、それが教会という形態なのかどうかよくわからなかったけれど、すごくよく統率されていたのを覚えている。

 賛美集会としてのクオリティは相当高かった。演奏もタイミングも全体の流れも洗練されていて、日本ではまずお目にかかれないレベル。聖霊派の連中に言わせれば、「聖霊の圧倒的な臨在」に包まれた集会、ということになる。私も当時は感動と感嘆に言葉を失った。
 たぶん知ったかぶりの「霊的」クリスチャンがその会場に入ったら、すぐさま目を閉じて両手を挙げ、感動に打ち震えて涙を流すに違いない。「これぞ主の臨在。私にはすぐわかる」とか言いながら。

 けれど集会の後、私は感動とは違った意味で言葉を失った。

 集会が終わって、しばらくそれぞれ自由に過ごしていた。舞台から降りた賛美チームの面々は、皆意外と若かった。というより子供? おそらく大部分が十代。いってて二十代。
 そこへ牧師の号令がかかった。言葉は全然わからなかったけれど、おそらく「集合」みたいな意味だったはず。

  するとあちこちに散っていた賛美チームの面々が、一斉に牧師のもとに飛んできた。皆駆け足である。クモの子散らすの正反対。なにこれ集団行動?
 そして牧師が話しだすと、皆ウンウン頷きながら聞いている。近くにいた女の子のウットリしたような眼差しが忘れられない。牧師に心底心酔しているようだった。
 牧師もそれを知ってか知らぬか、自信満々、皆の衆にとうとうと話している。

 それで話が終わると、今度は牧師の号令とともに後片付けが始まった。これもよく統率された動きだった。ランダムに立っているメンバー1人1人が、まっすぐ自分の持ち場に向かう。そして若いのに誰も一言も口をきかず、黙々と自分の作業を進める。

 よく統率がとれている、よく訓練されている・・・というより、もはや怖いくらい完璧な「人間コントロール」に私には思えた。軍隊だってここまで統率できないだろう。とても生きた意志ある人間の行動とは思えない瞬間だった。
 何かに魅せられて、自分の意思など放棄してその言葉に従っている、と言ったらいいだろうか。

 私が見たのはほんの一部分だけれど、彼らの1日を追ったらどうなるのだろうか。もっとすごい光景を見ることになりそうだ。

 この光景はながらく忘れていたものだけれど、冒頭の村上密先生の記事がキッカケで思い出した。「同じカラーに染まっている」というのがまさに的を射ている。

 自由意思が尊重されているなら、集団内はそれぞれイロイロな色が混在することになる。混ざり合わない部分もある。それは人間の集まりである以上当然だ。
 けれどそれを「不一致」とか「和合してない」とか断罪して、全て同じカラーで染めようとする牧師なり教会なりがある。その行動は一見聖書的・信仰的に見えるかもしれないけれど、単なる権威主義でしかない。

 そういうキリスト教信仰と権威主義の、本来なら明確になっているはずの境界線が、なんとも曖昧になっている。それが昨今のキリスト教会に多く見られる現象ではないかと私は思う。
 またその「見事なまでの統率」を「すごい」とするか「こわい」とするか、そのあたりの感覚も命運を分けることになりそうだ。

 最後に今回の紹介記事を一部引用させていただき、終わりにしたいと思う。
「みんながにこにこして、歓迎してくれたら、要注意である」

 つまり、初めて行った教会で歓迎も挨拶もしてくれない人がいて、なんてひでー奴だよ本当にクリスチャンかよとか思うんだけれど、案外それが普通なのかも、って話。

2015年3月27日金曜日

口語訳? 新改訳? 新共同訳? いえいえカルト訳聖書ですが何か?

 日本語訳聖書は、口語訳とか新改訳とか新共同訳とか、リビングバイブルとか回復訳とかALIVE訳(←なんだそれ)とかいくつか種類がある。ちょっと亜種だけれど関西弁バージョンも以前話題になった。
 
 どうしてそんなイロイロな種類の訳があるのか、気になる人はどうぞググってみて下さい。ちなみに私はよく知りません。
 
 知らないついでにで言うと、意味が同じなら結局どれでも同じでしょ! というのが無知なりの主張である。けれど学術的・言語学的にこだわる人にはイロイロ主張があるかもしれない。いずれにせよ私にはどうでもいいことだけれど。
 
 ただしエホバとかモルモンとかが使う「聖書」は、ちょっと違うので注意を要する。
 
 というような小難しい話は抜きにして、どんな訳の聖書があったら面白いかな、とちょっと考えてみた。おふざけの完全妄想系だけれど、以下の通り。
 
・セカオワ訳聖書
 正式名称「セカイノオワリ訳聖書」。終末論強調しすぎ。黙示録が通常22章のところ、66章にまでボリュームアップ。その分、旧約や新約の書簡がちょいちょい省かれている。66ってのがまた意味深なところ。
 読む時は、ハリウッド系パニック映画を流しておくとより臨場感が増す。
 
・萌え訳聖書
 いわゆる萌え語で全編書かれている。
「ホラホラ、神の国がムニムニ近づいてるよ?」
「ブヒャッ、おめめが見えるようになっちゃった♪」
「サウロ・・・鬼畜だよ?」
 読みたくねえ・・・。
 
・村上春樹訳聖書
「キリストは渡される最後の夜、すでに冷めて硬くなったパンを銀のナイフで丁寧に切り分け、それから弟子たちの顔を順々に、ゆっくり時間をかけて見まわした。何かを確認するような、暗闇の底の落とし物をひたすら探すような眼差しだった。しかしあるいはそれは弟子たちの気のせいだったかもしれない。確かなことは今となってはもうわからない。いや、そもそも初めから正しいことが存在したのかどうかさえ僕にはわからなかった・・・」
 あああめんどくさい。
 
・893訳聖書
 文字通り、強面の人たちの口調で語られる聖書。たとえばマルコの福音書1章25節。
「イエスの親分はこの悪霊野郎をドヤしつけ、『おどりゃ! この堅気から出ていきやがれ!』とまくしたてた」
 ちなみにこの訳はミッションバ○バが監修しています(大ウソ)。
 
・カルト訳聖書
 全てが牧師中心、神=牧師という前提で書かれた訳。
 いくつか見てみよう。
 
(ヨハネの福音書1章1~2節)
「はじめに牧師がいた。牧師は神とともにいた。牧師は神であった。この牧師は初めに神とともにおられた」
 
(マタイの福音書28章18~19節)
「牧師は、天においても地においても、いっさいの権威を与えられた。それゆえ、あなたがたは行って、すべての人を牧師の弟子として弟子訓練プログラムに入れなさい」
 
(へブル人への手紙13章17節)
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、絶対に服従しなさい。逆らってはいけません」
 
(ヤコブの手紙3章10節)
「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。このようなことがあってはなりません。だから牧師批判など絶対してはなりません」
 
(ヨハネの手紙・第一・4章20節)
「神を愛すると言いながら牧師を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える牧師を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。だからあなたの牧師を心底愛しなさい」
 
※カルト訳聖書をお求めの方は、日本カルト訳聖書協会までお問い合わせ下さい(ウソです)

2015年3月25日水曜日

beかdoか、はたまたre-creationか、でも結局堂々巡りな気がする、という話

 少し前に「クリスチャンはbeかdoか」みたいな記事を書いた。
 クリスチャンの価値はその行動で決まるのか、でも行動じゃ測れない部分もあるよね、みたいな内容である。

 すると後日、それに関連した記事をみーちゃんはーちゃん氏も書いておられた(同氏とはSNSでお話させていただいている間柄)。大変光栄である。
 ちなみにリンクさせていただくと、

・日本のクリスチャンがまず"Do"に走るわけ

・Doing Being Becoming Creating そして Recreation
 
 そこで出た話が興味深かった。失礼ながらものすごくザックリまとめると、

「beかdoかってことよりも、becomingとかrecreationではないか」

 つまり存在(be)か行動(do)かでなく、「変容」とも「再創造」ともいう第三の視点(becomingやrecreation)を提示しておられる、ということ。

 なるほどね、と思う。考えてみればbeかdoかも単純な二元論であって、クリスチャンという存在について語るには、不十分なのかもしれない。聖書も「キリストの姿に変えられていく」みたいな表現をしているから、「変容」あるいは「再創造」という概念を支持しているのだと思う。

 それでこの「変容」について少し考えてみると、しかしこれがなかなか難しい。

 私はもともと学術的な話より実際的な話を好む。難しい話も時には必要だろうけれど、どんな高尚な話でも日常生活レベルで活用できないと意味がないと思うからだ。

 それでこの「変容」だけれど、何がどう変わるのか。

 私は教会やクリスチャンの残念なところを散々見てきたので最初から疑い目線で書くけれど、クリスチャン歴が長ければ長いほど、「善人ヅラ」のうまい人が増えていく(と思っている)。笑顔と優しさと親しみやすさ、そして「ハレルヤ」と「アーメン」と「祈ってます」が彼らの武器だ。牧師も同様である。

 逆に言うとそれさえできればクリスチャンとしてオッケーと見られる訳で、たぶんそういうのを「変容」と勘違いする人は多い。

 ある時、ある教会の礼拝に初めて参加した。私は自分がクリスチャンであると明言しなかった。
 礼拝後、そこの若い牧師が話しかけてきた。「ハレルヤ~。主は素晴らしいですね~」
 おいおい、初対面にいきなり専門用語使うなよ、と思いながらも私は笑顔。
 そして簡単な自己紹介。
 ちょっと意地悪したくなって、私はちょっと素性を話してみた。「実は通っていた教会が解散してしまって、どうしたらいいかわからないんです」
「ああ、それは大変でしたね~」と若牧師、まだ笑顔。
 おいおい、こういうのは真顔で聞けよ、と思いながらも私は黙っている。
 牧師も黙ってしまった。しばらく沈黙。
 若牧師、「あなたのために祈ってますね~」
 そして握手して去っていく。
 え、それで終わり?

 ちょっとデフォルメしたけれど、これ実話。
 彼は素晴らしいクリスチャンに「変容」しているように見えたけれど、私には何も伝わってこなかった。伝わったのは「優しいフリ」くらいである。
 それが聖書の言う「変容」なら、要らないと思う。

 また何十年と牧師を続け、教会を大きくしたり、沢山の教会を建てたり、多くの弟子牧師を排出したりした歴戦の「大牧師先生様」が、ひどい罪を犯して表舞台から姿を消すのを見ると、「変容」って何だろうって思ってしまう。

 そういうケースを見ると、結局何十年クリスチャンをやったって、どれだけ変化したように見えたって、根本的には何一つ変わっていないことに気づく。むしろ加齢に伴って人間本来の醜悪さが増しているようにさえ思う。

 まあそれはbeとかdoとかrecreationとかいう以前の問題かもしれないけれど。

 もう一つの考えるべき点は、何をもって「変容」とするかだ。
 人間誰だって時間とともに何かしら変化する訳で、それはクリスチャンとかノンクリスチャンとか関係ない。そしてその変化がキリスト教的「変容」なのか、あるいは人生イロイロの中で生じた「変化」なのか、いったいどうやって判別したらいいのだろうか。

 たとえばチャーチスクールで何年か過ごした子が、「この子はチャーチスクールだからこそここまで成長できたんだね」とか言われることがある。けれどそう言う根拠はどこにあるのだろうか。子供が単に本来の成長過程を通っただけかもしれないし、公立学校でも同様の成長を見せたかもしれない。学校に行かなくても成長したかもしれない。とにかくチャーチスクールだったからと断言することは誰にもできない。それは単なるチャーチスクール賛美でしかない。

 というようなことを考えると、実際的レベルにおいて、あるいは日常生活レベルにおいて、何をもって「変容」とするかはすごく難しい。

 また最後に考えるべき点は、その「変容」が本物だとしても、結局のところ「行動(do)」の部分が問題となるということだ。

 たとえば、ある人がものすごい聖人君主に「変容」したとして、でも結局何もしなかったら、その変容に意味はあったのだろうか。
 あるいは聖人でもなんでもない人、むしろ罪ばかり犯している人が、何かのキッカケですごい善行を(単発で)したとしても、その行動は「変容していない」がゆえに無駄になってしまうのだろうか。

 つまり「変容した人」は必ず正しい行いができて、「変容していない人」は正しい行いなど一つもできない、ということなのだろうか。

 そう考えると、やはり話は「beかdoか」に戻るような気がする。何をしたのか、あるいはしなかったのか、その行動をどう評価すべきなのか、というような話だ。

 なんだか結論のない話だけれど、そんなことを考えてみた。

2015年3月24日火曜日

感動譚にご用心

 また東日本大震災関連の話から始める。

 事の真偽はともかく、次のような「ケータイ遺書」が気仙沼で見つかった、という話がけっこう話題になった。

もうバッテリーがないよ
痛いと言わなくなったので
妹はさっき死んだみたいです(ToT)
埼玉はだいじょうぶですか?
またお父さんと一緒に
ディズニーランドに行きたかったです
お父さん 今までありがとう♡
だいすきな お父さんへ
本当にありが

享年 長女17
享年 次女14
父48

 瀧本光静氏が手書きした「作品群」の一つで、「気仙沼で発見された携帯に残された最後のメール」と題されている。
 繰り返すがこのメールの真偽はいろいろ言われていてわからない。
 けれど一部の教会では、このメールが感動譚として大いに利用された。

 メッセージの途中、ちょっと紹介したいエピソードがありますとか言って、牧師が上記の「ケータイ遺書」をゆっくり読み上げる。最後の方は涙声(←これ大事)。会衆にもさめざめと感動の涙が広がっていく・・・。
 というのが定番の流れ。

 でもよくよく考えてみると、なんでメッセージの途中でこれ読み上げる必要があったんだろう? どういう流れだったっけ? というのがちょっと思い出せない。当時はそういう「震災関連感動譚」が毎週のように語られていたから、耳がマヒしていたのかもしれない。

 いずれにせよ(メールの真偽は別として)、人の死を感動ネタとして利用するのは牧師としてどうかと思う。けれど聖霊派の牧師は「感動させてナンボ」みたいなところがあるから、仕方ないと言えば仕方ない。彼らには聖書より感動の方が大事なのである。その感動が聖書につながれば万々歳なのである。

 思い出せば礼拝メッセージは感動譚ばかりだった。山火事の中で奇跡的に生き延びた雛鳥とか、小児麻痺の息子を背負ってトライアスロンに挑む父親とか、中国で当局の弾圧を逃れる孤児施設とか、もうそんな話ばかりである。信徒は毎週聖書からメッセージされているような気になっているけれど、結局のところ聖書知識の蓄積なんかなくて、毎回うすっぺらい感動譚に感動しているだけだ。30分間笑い話に笑いっぱなし、なんてこともある。

 だから毎週礼拝を守るのが大事だ、なんて言うけれど、その礼拝がどんな内容かの方がよっぽど大切だと思う。30分間牧師の冗談に付き合って笑うのが礼拝だとしたら、そもそも礼拝って何だってところから考えた方がいい。「何十年欠かさず礼拝を守った」と言う人がいて、それはそれで尊敬するけれど、それって本当に礼拝だったんですか? と偏屈な私は思ってしまう。

 いずれにせよメッセージに感動譚を持ち出す牧師には要注意だと思う。単に感動したいだけならそれでいいだろうけれど。

2015年3月23日月曜日

陰謀論・終末論にご用心

『フリーメーソン陰謀論の心理』という記事を読んだ。

 人はなぜ陰謀論が好きなのか、陰謀論はどう危険なのか、ということが書かれている。陰謀論や終末論を利用するカルト宗教にも言及されていて興味深い。

 オウム真理教の麻原彰晃が国政選挙で大敗した後、「票が操作された」みたいな陰謀論を主張して武力闘争に向かった、というのはいかにもカルト宗教っぽいけれど、同様の傾向は聖霊派教会にもある。

 たとえば終末論や携挙を主張するおかしなクリスチャンは後を絶たない。もうすぐ地震が起こるとか噴火が起こるとか言って、どこそこに避難すべきとか主張する。そしてそれが外れると、「回避された」などと架空の「神の恵み」をでっちあげる。

 あるいは教会の計画がうまく進まないと、「悪霊の妨害がある」みたいな陰謀論を唱える。実際に見たケースを挙げると、大口の出資を得られなかったのを「フリーメーソンの暗躍のせいだ」とか言う牧師がいた(もはや牧師失格のレベル)。

 カルト教祖や宗教指導者にとって、陰謀論はたぶん利用しやすいんだと思う。不都合を処理する口実になるからだ。自分の野望がうまくいけば「神の恵み」、いかなければ「敵の陰謀」のせいにすればいい。すごく勝手で、当然ながら許されない。

 一方で、それを信じてしまう信徒の方の問題もあると思う。
 もちろん信徒は普段から牧師にそう教えられているから、それを疑ってかかるというのは実際には難しい。けれど聖書をちゃんと読めば矛盾していることに気づくだろうし、常識の問題あるいは良心の問題としても、違和感を感じることがあるはずだと思う。

 そういう自分の中のアラートをどう処理するかは、やはり個々の信徒に委ねられている。

 終末を強調するある教会があって、そこの信徒がこんなことを言っていた。
「どうせ終末なんだから、最長ローンで良いマンションを買うべきでしょう。どうせ返さなくていいんだから
 なんかさも信仰深い発言みたいな感じだったけど・・・、あの、それって要するに、借金踏み倒そうって話ですよね?

 陰謀論や終末論を主張する教会は、そんなふうに全体的にモラルが下がっているように思える。もちろん全員が全員という訳ではないだろうけれど、「赤信号みんなで渡っちゃえ」的な雰囲気があるのは否めない。

 引用記事にもある通り、聖書は終末だからこそ落ち着いた生活をするよう勧めている。何か特別なことが必要だとは言ってない。以前も書いたけれど、終末だからと何かを始めるのは、試験前夜に焦って猛勉強を始めるのに似ている。

 彼らは聖書より、牧師の話を聞くことに慣れてる。だから牧師が陰謀論や終末論をでっちあげれば全部鵜呑みにしてしまう。
 彼らは牧師にとって良い「羊」であろう。けれど彼らの羊飼いはキリストでなく、その行く先は、主の牧場のほとりでもない。
 そのことに早く気づかないと手遅れになるけれど、手遅れにならないと気付かないのもまた事実。ではどうしたらいいか? 私もその答えを知りたい。

2015年3月21日土曜日

どうにも救われない自分自身に気づけない、という話


 自由なようで自由でない、恵みの中にいるようでいない、そんな「教会スタッフ」あるいは「献身者」あるいは「働き人」(その他呼称多数)の葛藤について。

 前回書いた通り、彼らは常に過重な奉仕を課せられている。朝から晩まで働いて、さらに徹夜したって終わらない。なのに「感謝します」とか言って頑張っちゃう。それを信仰、あるいは神への従順と信じているから。

 そこが単なるブラック企業なら、ひたすら働けって話だろう。けれどキリスト教会の場合、そこに「信仰」という要素が絡むから厄介だ。

 彼らスタッフは2つの面で奉仕を要求される。すなわち「労働」と、「祈り」。
 ひたすら働き、ひたすら祈れ、だ。実際面と霊的面の両立、と言ってもいい。それも単に両立させるだけでなく、どちらも高水準でなければならない。と牧師から言われる。

 でもこの「働け」と「祈れ」は基本的に相反しているから、すごく混乱させられる。

 たとえば伝道集会で歌を歌うとする。素人なのに高水準を求められるから、ひたすら練習することになる。でも練習ばかりしていると、聖書を読んだり祈ったりする「霊的習慣」を疎かにすることになる。かと言って「霊的習慣」の時間をじっくり持つと、歌の練習ができない。結果、牧師が満足するレベルには達しない。
 じゃあどうしたらいいの? というのが信徒の本音であろう。

 ちなみにこの例の正解を書くと、素人が頑張って人前でカラオケを披露したって誰も喜ばない、ということ。もうひとつは、牧師が満足するかどうかで奉仕したって何にもならない、ということ。

 この例のように、クリスチャンは働けば働くほど祈れなくなるし、祈れば祈るほど働けなくなる。じゃあどうしたらいい?

「バランスよくやればいいじゃん」と言う人もいる。けれどこういう教会のスタッフの忙しさは、もうバランスがどうとかいうレベルではない。
「祈り心で働け」とか言う人もいるけれど、なんか禅問答みたいで要領を得ない。

 ちなみにこの「祈り心で働け」は、信仰の奥義っぽく聞こえるかもしれない。けれど要は「異言モドキ」をぶつぶつ呟きながら、あるいは心の中で念じながら働けって意味であることが多い。そして「異言モドキ」という前提の部分で、すでに間違っている。
 また「労働」と「祈り」という相反する概念をうまく融合したつもりかもしれないけれど、今日の聖霊派にみられる「インスタント信仰」の現れとしか私には思えない。

 ということはその場を離れ、冷静になって考えてみればわかるのだけれど、当事者にはわからない。人にもよるが、すごく真剣に考えてしまうことがある。
 今回はそれを猛烈に真剣に考えてしまったあるクリスチャンについて書きたい。仮に彼をEと呼ぶ。

・E兄弟の悲劇

 E兄弟は超マジメ人間で、奉仕も一生懸命、祈りも一生懸命、何事も妥協しない人だった。もともと能力もあって、パフォーマンスも素晴らしかった。

 ある時、出先の教会で奉仕した。遅くまでいろいろあって、深夜に就寝。皆疲れて早々に眠ったけれど、E兄弟だけは隅っこの方で聖書を読み、祈っていた。
 そして翌朝は誰より早く起きて、やっぱり祈っているのである。その日の奉仕だって妥協しない。

 E兄弟はそんな人である。

 あるとき牧師に言われた。「最も良いものを神様に捧げなさい」
 最も良いもの、イコール自分の最大限の努力、とE兄弟は考えた。だからE兄弟は奉仕にこれまで以上に力を注いだ。誰が見てもE兄弟は努力していたし、そのスキルもどんどん上がっていった。

 けれどそれに反比例するように、E兄弟の顔は暗くなった。話を聞くと、「最近十分に祈れない」「十分に聖書を読めない」「奉仕とのバランスがとれない」とのこと。つまり、上述の葛藤である。

 そんなに頑張らなくてもいいのでは、というのが全うな意見だと思うけれど、E兄弟には通用しない。神様の為には妥協できない、自分の全部を捧げなければならない、というのが彼の揺るがない信条だったからだ。

 それでどうしたかと言うと、E兄弟は睡眠時間を捧げるようになった。自分の睡眠時間を例の「霊的習慣」に当てたのだ。涙ぐましすぎる姿である。というか笑えない。

 あえてその結果を書くけれど、E兄弟は体調を崩した。そして奉仕も祈りも十分できなくなった。時折おかしな発言をするようになった。牧師は「霊の戦いと癒しが必要だ」とか言ってE兄弟のために祈ったけれど、当然ながら何の改善も見られなかった。

 そんな状態になってもE兄弟が思うのは、「自分の信仰が足りないからだ」「自分の何かが間違っているから神様が働かれないんだ」みたいなことだった。

 長年牧師にそう教わってきたから、もはや訂正不能な状態だったのかもしれない。もともとのマジメさも災いしたと思う。

 たぶんE兄弟みたいな人は少なくないと思う。他にも何人か似たような人を知っているけれど、皆マジメで一生懸命だ。牧師にも忠実である。
 けれどおそらく彼らは、神様に対してえらく勘違いしている。「天の父」である神様が「子」である私たちに何を求めているか、たぶん勘違いしている。

 子を持つ親であればおそらく簡単にわかると思うけれど、自分の子供が夜も寝ないで働いたり祈ったりしていたら、止めるのが親というものだ。ちゃんと休みなさい、と言うのが親というものだ。

 だからE兄弟がイメージしていたのは、父なる神じゃなかったと思う。ものすごく怖い裁判官みたいなものをイメージしていたと思う。
 そしてその勘違いに気づけない以上、クリスチャンとしてものすごく不幸ではないかと私は思う。

 というわけで、前回は「救われなければならないのは自分だった」と気づいた話だったけれど、今回は「それにさえ気づけない自分」という話。

2015年3月19日木曜日

救われなきゃいけないのは自分の方だった、という話

 教会にて。

「今、聖霊様がここに力強く働いています!」
 と言われるので、両手を挙げて「アーメン!」
 うん、なんか包まれてる気がする。
 
「今日、長年の圧迫からあなたは自由になります!」
 と言われるので、両手を挙げて「私は自由だ!」
 うん、なんか自由になった気がする。何が自由なのかよくわかんないけど。
 
「今日、あなたの病は癒されます!」
 と言われるので、痛いところを触れて「私は癒されました!」
 うん、ちょっと治った気がする。
 
 そんな感じで勢いづけられ、何でもできるような気がしてくる。それにここは神の教会。全能の主が働いているから不可能はない(はず)。
 
 てことは自分らって最強?
 よし、じゃあちょっと「この世」の哀れなノンクリたちにこの恵みを分けてやろうか、どうせ霊的なことなんてわからないだろうけどね!
 そんな感じの上目線で「奉仕活動」が始まる。あいたたた。
 
 でも奉仕が始まるとイロイロ忙しくなる。

 教会にて。
 
「今、主がこの集会を開くことを願っておられる」
 と言われるので、毎日遅くまでその準備に追われる。
 うん、仕えてる気がする。
 
「今、主が〇〇へ宣教へ行くよう命じておられる」
 と言われるので、スーツケースに荷物を詰め込んでさあ出発。
 うん、寝る間も惜しむとはこのこと。
 
「今、主がこの事業を始めるよう導いておられる。どうしても始めなければならない」
 と言われるので、キャパ越えてるけど更に頑張る。
 うん、これぞ献身。見返りなんて求めません。
 
 他にもあれやこれやの奉仕があり、ミーティングに呼ばれ、祈り会に呼ばれ、家にいてもメールや電話がきて、プライベートって何ですか? って状態。
 
 そんなことが何年も続いて、ええ、私は主の僕ですから、「この世」の民とは違うんです、忙しいかって? これも神の民の特権ですよ~ って変なプライドを持つに至る。合掌。
 
 でもフとした時に、なんか忙しすぎると気付く。
 自由って言われても自由じゃない気がする。
 恵みって言われても恵みじゃない気がする。
 束縛と、強制と、恐怖・・・。あ、すみません、そんなこと考える自分が不信仰でした! サタンに騙されてました! 悔い改めます! 断食して祈ります!
 という訳で抜け出せず、更なる深みへと。またまた合掌。
 
 というのが、ある教会スタッフの「献身生活」。
 偶然か何かで抜け出して、教会と関係ない生活を送るようになって、はじめてその異常さに気づくのである。
 
 忙しさから解放され、ちょっと余裕ができて、風呂場の鏡で自分の顔をまじまじ見つめる。
 老けたな、やつれたな、と思う。
 あ、ヒゲ剃り残してる、って気づいてヒゲを剃る。
 ゆっくり泡立てて、丁寧に剃って、その時やっと気づく。
 あ、ゆっくりヒゲを剃る時間もなかったな、と。

 救われなきゃいけないのは自分の方だったな、と。

「祈ってれば大丈夫」で済まされない人々にとって教会って何なの

 あるシアワセ系クリスチャンのメルマガを、それとわからないように要約してみる。

ハレルヤ! 今日も主に感謝し主と共に歩みましょう。
(しばらく聖書の変な解説が続く)
 という訳で、私たちは主にあって苦しみを通るのです。
(また変な聖書解釈)
 しかしこのように苦しみは、私たちがきよめられ、義とされるのに必要なのです。
(さらにいろいろ御託を並べたうえで)
 今日もあなたのうえに、主の祝福が豊かにありますように。

 みたいな感じ。
 べつにこの内容がどうこうということはない。
 というか、この手の話はよく聞くなぁと思う。
 なんだかすごくポジティブで、神様に信頼していれば万事OK、苦しくっても悲しくっても祈ってれば大丈夫、みたいな雰囲気。

 べつに間違っている訳ではないと思うし、これで励まされる人もいるだろうと思う。自分も似たようなことを言ったことがある。繰り返すけれどこの手の雰囲気は聖霊派・福音派あたりにすごく多い。

 そういう教会は、いわば「超ポジティブシンキング型信仰」の集合体みたいなものだ。

 ポジティブそのものは悪いものではない。むしろ時として必要である。けれど何でもかんでもポジティブに捉えて生きられるほど人生単純じゃない。単純だと思うのはよっぽど恵まれた人か、苦労を知らない人か、何でもできるスーパーマンだ。

 たとえば上記の「苦しみは私たちがきよめられ、義とされるのに必要」というくだりは本当によく聞く話だし、その通りって部分もあるけれど、すべてのケースに当てはめることはできない。
 なぜならたとえば、DV被害に遭っている人にこんなことを言ったら、死ぬまで暴力に耐えなければならなくなるからだ。

 夫が妻に暴力を振るう、いわゆるDV夫婦はクリスチャンにもいる。そこには「共依存」という心理状態にキリスト教信仰が絡んでいるから相当複雑である。
 DVを受ける妻は「それでも自分が夫のそばにいなければ」という心情に加えて、「これも主からの試練。いつか主が解決して下さる」とケナゲに信じているから、どんなに暴力を振るわれても耐える以外の選択ができない。そこにあるDVという病理が、信仰というベールで被われてしまうのだ。

 つまり本来なら専門的な介入によって妻を助け出さなければならないのに、「信仰によって解決すべき」と教会が言ってしまう。妻からしたらチェックメイトである。十字架につけられたキリストよろしく、やられたい放題。

 そういう状況を考えると、冒頭の「ハレルヤ! 今日も主に感謝し主と共に歩みましょう!」がいかに軽薄かわかる。人の本当の苦しみがわかっていない。信仰とか「ハレルヤ」とかで解決できない問題は現にあり、超ポジティブシンキングではどうにもならない事態は存在するのだ。

 私は現在教会員であることを辞めている身だけれど、教会員だった頃より今の方が、人の本当の痛みを目にしている。「祈ってれば大丈夫」なんて言ってられない事態はすごく多い。そういうケースで「祈っていいですか」なんてどんなツラして言えるだろうか。少なくとも私には言えない。

 教会が、あるいはクリスチャンが「この世」にインパクトを与えていきたいなら、「祈ってれば大丈夫」で済まされない人々に目を向けるべきだ。それができないなら単なる「救世ゴッコ」に興じているに過ぎない。そんな教会もクリスチャンもいらない。と私は思う。

2015年3月17日火曜日

ブログほぼ毎日更新を2年やってわかったこと

 私事ですが、2013年3月から、当ブログの「ほぼ毎日更新」を続けてきました。今月で丸2年になります。

 振り返ってみるとイロイロありました。良いも悪いも含めて。何度も挫折しかかりましたが、不思議とここまで続いてきました(←不思議なのかよ)。

 2年も続いたのか、まだ2年なのか、よくわかりません。けれどたかが2年、されど2年。今回は、ブログを続けてみてわかったことを、ちょっと書いてみたいと思います。
 もちろんこれは私見であって、全ブロガーに共通することでもないと思います。

■とにかく続けることが大事

 更新が止まったブログは寂しいですね。いろいろ事情があるのでしょうが。
 特に告知なく更新が止まっているブログを見ると、ああ、飽きちゃったのかな、とか思います(必ずしもそうではないでしょうが)。
 そうすると、良い記事が書いてあっても求心力みたいなものが確実に低下してしまうような気がします。
 そういう意味で、やはりブログは続いていることが大事なのだと思います。べつに毎日更新である必要はありませんし、週1とか月1とかいうブログもあるでしょう。頻度の話はともかくとして、コンスタントに書き続ける姿勢はブログの命と言えます。

 それでこの2年間、私が「とにかく書き続ける」ためにしてきた「考え方」は、次のようなものです。

・質よりも量よりも、書いてあること

 記事は質が大事でしょうし、そのためにはある程度の量が必要になるかと思います。その意味で質量ともに大事と言えます。が、そういう記事を書くのは時間がかかりますし、時間がかかったから必ず書けるものでもありません。くわえてブログに割ける時間はかなり有限です。短時間で良い記事を書くのは簡単なことではありません。

 では書かないか? という話になるなら、はじめからブログはできません。そうでなく、どんなものでもいいからとにかく書いとけ、みたいな気持ちも必要だと思います。
 与えられた時間の中で書く、できるだけ最善を尽くす、それしかないかと。
 もちろん毎回どんな記事でもいい、何でもいい、という話ではありませんが。

・とにかく書き続ければ良いものが書けるかも

 ブログを書く機会は沢山あります。私の場合ほぼ毎日です。その機会を毎回毎回生かそうとすることが、上述の「とにかく書いとけ」の実践だろうと思います。
 たとえるなら毎日バッティングセンターに通い、なんでもいいからバットを振るような感じです。いつも空振りばかりでも、時にはゴロとか、ファウルとか、ヒットとかあります。もしかしたらホームランが出るかもしれません。
 そしてその打率は、(これは私が期待するところですが)書き続けることで上がっていくのではないかと思います。逆に言うと、書かずに打率が上がることはないのだと思います。

 そうやって書き続けるうちに、良いものを書けるように・・・なったらいいですね。

・同じことを何度書いてもいい

 同じような内容を書くとしつこい、くどい、と思うかもしれませんが、全文コピペでもしない限り、何度似たようなテーマで書いても大丈夫だと思います。

「これは大事だ」「これは伝える必要がある」と思うものを私はいつも書いています。けれど毎回、十分にできていません。言いたいことを十分に表現できなかったり、回りくどくなってしまったり、論旨が微妙にズレてしまったり、という不甲斐なさをだいたいいつも感じています。
 けれど書くことで、自分の考えがまとまるのも事実です。すると、「次はこう書こう」「こう書けばいいんだ」「あ、こういう視点もあった」と明確になります。

 それで再度書いてみると、先のものより良い記事になります(と思う)。だから同じ内容であっても、書くたびに洗練されていく訳で、それは読者に貢献することになるでしょう。またより多くの人に読んでいただく機会を得ることにもなります。

 だから同じようなことを書き続けていいのだと思います。

・最後は開き直る

 長く書いていると、いろいろな時があります。何時間もかけて書いたのに(自分で)ボツとか、15分でだいたい書き上がったとか、いくら頭をひねっても何も出てこないとか、シリーズ化できるくらいアイディアが湧きあがってくるとか、そういう調子の良い悪いが繰り返されます。

 そして時々、どうにも何も書けない時があります。時間ばかりが過ぎていくのです。そういう時は「ほぼ毎日更新」が呪わしくなります。そういうケースに対する、紆余曲折を経た現在の私の第一選択は、「書かない」です。

 もうやめた! 今日は書かない! という訳でキーボードをゴミ箱に放り込み、モニターなんか窓の外にブン投げて、川原に走りに行ったり、友達にメールしたり、食べに行ったり、映画を観たり、テレビを見て笑ったり、とにかくブログのことなんてキレイに忘れてしまうのです。(すみません、キーボードとモニターのくだりはウソです)

 あるいは反対に、「書きたいように書く」。
 結論のない話、どうでもいい話、誰も興味をもたないようなくだらない話、とにかく何でもいいから書いてしまって、アップして、見直しもしないで、そうしたら立ち上がってキーボードをゴミ箱に放り込み、モニターなんか窓の外にブン投げて・・・以下同文。

 要するに、自分のブログなんだから何書いたって自由でしょ? 何か問題でも? みたいな態度でいることもまた大事、という話。

 もう一方で自分の願望とかやり方とかを一旦脇に置いて、あるニーズに従って記事を書き、読者にコミットする、というのも同様に大事だと思いますが。

 以上、「とにかく続けることが大事」という点からブログについて書いてみました。
 今度また別の点からブログについて書きたいと思います。

追記)
 という訳で更新されない日があったら、「ああ書きあぐねてパソコンぶっ壊したんだな」と思って下さい。(笑)

2015年3月15日日曜日

クリスチャンが倍々で増えればいいってもんじゃないって話

「弟子訓練」を強調する教会が、いわゆる「伝道弟子訓練用テキスト」を独自に発行している。
 いつも伝道に失敗してしまう人、どうしたらいいかわからない人に、具体的伝道方法を指南するテキストだそうな。

 その内容は知らないけれど、「弟子訓練」という時点で方向性がズレているのは今までも書いてきた通り。だからどんなに素晴らしく効果的な「弟子作りの方法」が書かれているとしても、それはキリストが言った弟子とは何の関係もない。むしろ聖書に対立する考え方である。

 ということは先に書いておく。

 そこの牧師が「弟子訓練」を推奨する理由の1つに、「毎年1人が1人を導く」というのがある。
 クリスチャンが毎年1人を(救いに)導けば、(理論上は)倍々と増えていって、ごく短期間で日本中がクリスチャン化する、という話。
 それを実証する簡単な計算表も作っていて、それによると初めが50人くらいでも、毎年1人が1人を導けば、20年ちょっとで日本人口に達する。あくまで理論上は。

 実はこの表、ずいぶん前にも見たことがある。その時も「毎年1人が1人を」と言っていたので、有言実行していたなら、今は何千人規模の教会になっているはずだ。
 そういう話は聞かないけれど。

 私が思うに、「毎年1人が1人を導く」は現実的でない。
 皆さんもご自身のこととして考えてみればすぐにわかると思う。初めて知り合った相手と、1年でどれくらい仲良くなれるだろうか。どれくらいの信頼関係が築けるだろうか。
 仮に初めからウマが合って良い関係を築けそうだとしても、深く信頼し合う師弟関係にまで持って行けるだろうか。
 また導かれる側で言えば、たった1年の付き合いで、自分の人生を相手に完全に預けることができるのだろうか。

 もちろん知り合って数か月で結婚するカップルがいるくらいだから、1年ですっかり師弟になれる人たちもいるかもしれない。けれどそれは万人に当てはまることではない。むしろ少数派であろう。
 人にもよるだろうけれど、人間関係における1年は、まだまだ始まりの始まりに過ぎない。

 この理論のもう1つの問題点は、たった1年で聖書をどれくらい教えられるのか、という点にある。
 神学校で何年もみっちり勉強したって十分とは言えないのだから、互いに仕事やら学校やらで忙しい人たちが時々集まって学んだって、1年で十分とは決してならない。むしろどれだけ不足しているかって話になる。いわゆる「福音メッセージ」なら話せるようになるだろうけれど、それで聖書を知ったと言うのは、単なる「知ったつもり」だ。

 そういう聖書「知ったつもり」が、昨今の聖霊派・福音派の逸脱の温床にもなっていると私は思う。

 だから人間関係においても聖書知識においても、「毎年1人が1人を導く」は無茶苦茶な話である。

 仮にその手法が奏功し、クリスチャン人口が倍々で増えていったとしたら、そっちの方が恐ろしいと私は思う。いったいどれだけの「聖書知ったつもりクリスチャン」が増殖し、実は薄弱な人間関係を「主にあるコネクション!」とか呼ぶケースが蔓延するだろうか。

 くわえて「弟子訓練」そのものが抱える問題もある。つまり教会の権威主義化、階層化だ。以前も書いたけれど「弟子訓練」は厳密な主従関係、上下関係をもたらす。そこでは「神の言葉」より「師の言葉」の方が絶対であり、逆らうことができない。そしてそれが聖書的でないことに気づけない。なぜなら聖書を「知ったつもり」だから。

 この「毎年1人が1人を導く」が何年たっても進んでいない現状を、私は幸いに思う。
 この理論がもたらす未来は、「日本人みんなクリスチャンでハッピーな社会」ではない。知ったつもりクリスチャンが知ったつもりクリスチャンを量産する世界、全然聖書的でない上下関係と権威に支配された世界、である。いわゆる中世的封建社会、理不尽な暴力がまかり通る社会への逆行と言ってもいいかもしれない。

 いったい誰がそんな世界を望むだろうか。

これをやったら痛々しい、というクリスチャンの行動

 教会を転々としているクリスチャンの知り合いがいた。知り合いと言っても顔を名前を知っているくらいで、何度か挨拶しただけの間柄だけれど。

 その知り合いをDと呼ぶ。Dが信仰熱心だったのかどうかイマイチわからないけれど、いわゆる「クリスチャンっぽい活動」には熱心だった。そしてその活動がすごく痛々しく見えたので、私はよく覚えている。

 今回はDの活動を羅列することで、こういうのは痛々しいですよ、というのを紹介したいと思う。反面教師として読んでもらえたら幸いである。

■クリスチャンDの痛々しい行動

・「自分通信」を作って、いろいろな教会で配って回る

 B4用紙に自分の近況、証、お知らせ、祈りのリクエストなどを書いてまとめたものを「〇〇通信」と名付け、たくさんコピーして、あちこちの教会に配って回っていた。
 Dは基本、毎週同じ教会には通わなかった。たぶん週ごとにいくつかの教会を巡回していた。そして行った先の礼拝前とか後とかに「〇〇通信」を配って回っていた。
 渡された方は「何これ」である。先週自分に何があったとか、最近どんなことを考えたかとか、今自分にこういう必要があるから祈って下さいとか、とにかく自分アピール満載である。しかも牧師に無許可だった。

 私はもらった瞬間ドン引きであった。もちろん笑顔で受け取ったけれど。

・気が向くと踊り狂って賛美する

「今日はこの教会で賛美するよう神様に導かれました」ということで、Dが礼拝にやってきた。はい、どうぞ。
「だから最前列で最高の賛美を捧げます」と言う。はい、どうぞ。
 言葉通り最前列の中央に陣取り、初めから両手を振ったり足を振り上げたり、飛び跳ねたり「ハレルヤ」を連呼したり、とにかくものすごいハッスル加減である。みんな思わず神様でなくDに注目してしまう。
 そして礼拝後。
「いや~、これが本当の賛美礼拝です。ダビデが踊り狂って神を賛美したと書いてあるでしょう? 私はそれを体現したのです。だって神様がそう言うから」
 はい、そうですか。

・勝手に按手の祈りをはじめる

 またDが礼拝にやってきた。久しぶりの登場である。
 おもむろに賛美チームが準備しているところにやってくる。「今日の賛美リードは誰ですか」
 手を挙げた賛美リードの頭に手を置いて、祈り出す。困惑する賛美リード。でも邪険にもできない。しばらくすると祈りが終わる。Dが一言。「さ、これで今日の賛美礼拝も油注がれます」
 そして礼拝後。
 賛美リードのもとにやってくるD。「賛美、良かったですよ」
 何その上目線?

・突然の意気消沈

 またDがやってきたけれど、今度は元気がない。口数も少ない。
 愛深い信徒が話を聞いてあげると、「神様に取り扱われました・・・」と意味深なことを言うD。
 その日の賛美礼拝はおとなくしく、飛んだり跳ねたりもしなかった。一人涙を流している。

 あの、どうでもいいんですけど浮き沈み激しすぎません?

・礼拝中に証をはじめる

 礼拝説教中、手を挙げるD。牧師が何ですかと聞くと、「証したいことがあります」とのこと。
 困惑する牧師。でも結局マイクを渡してみる。
 前に出たDが、とくとくと自分の証を語り出す。しかも説教内容とは無関係。
 たぶん信徒全員、「何これ」と思っていたはず。 

 以上、何か勘違いしているDの痛々しい行動についてまとめてみた。良い子のクリスチャンは決して真似してはいけません。

2015年3月13日金曜日

教会が掲げる「今年の目標」の残念さについて

 おそらく多くの教会が、「今年の目標」みたいなものを掲げていると思う。そして礼拝堂の目立つところに貼っているだろう。
 
 目標と言ってもイロイロで、たとえば「聖霊に導かれる教会」とか、「地域に出ていく教会」とか、「大いなる収穫の年」とか、文字通り教会の数だけあるだろう(ちなみにこの例は今パッと考えただけで深い意味はない)。
 
 とにかくその目標に沿って教会活動がなされ、1年が終わると、また新しい目標が掲げられる。そういうことが毎年繰り返されていく。
 
 だから年ごとの目標を見直してみると、その教会の歩みがなんとなく俯瞰できて、良いかもしれない。目標にはそういう効果もあるだろう。
 
 ある教会もこの例に漏れず、毎年たいそうな目標を掲げていた。ちょっとデフォルメして書くと、「魂の大収穫!(2013年)」
「祝福の大洪水!(2014年)」
「聖霊のハンパない傾注!(2015年)」(デフォルメしすぎた)
 まあ聖霊派にありがちな、大袈裟かつ感動主体の目標である。
 
 べつにそれはそれでいいし、一信徒の立場からすれば、教会の目標が何だろうとあまり関係ないのが現状だろう。「今年の目標って何だっけ」という信徒も多いような気がする(ちょっと調べてみたい)。
 一般企業なんかでも、大半の従業員は会社の「今年の目標」なんか気にもしていないだろう。目標があること自体知らないかもしれない。教会も基本的にそれと同じではないかと思う。
 
 けれどこの手の目標設定がどのようなプロセスでなされているのか、そして教会活動にどれだけ影響しているのか、信徒は気にかけておいた方が良いと私は思う。つまり「目標が何か」ということより、「なんでその目標なのか」を知っておくことの方が重要だ、という訳だ。
 
・問答無用の目標設定
 
 目標設定の仕方は教会によってそれぞれだろうけれど、完全に牧師の一存か、あるいは役員会とかがあっても事実上牧師の一存となっている教会は、注意を要する。なぜならその場合、目標設定の過程が完全にブラックボックス化しているからだ。
 
「来年のために祈っていたら、神に〇〇と語られた」
「これは神様が新しい年、この教会に願っていることだ」
 
 とか牧師に言われたら、それで話が終わってしまう。もはや議論の余地はない。
 そしてそれがたとえば「新会堂建設」に直結する目標だとしたら、信徒らは「なぜ今年新会堂が必要なのか」「どのような規模の新会堂が必要なのか」といった疑問を抱く間もなく、そこに向かわざるを得なくなる。そして「新会堂設立献金」とか、「新会堂設立委員会」とかが当然のように始まっていくだろう。
 そしてその一年は文字通り「新会堂設立」に染まることになる。けれど誰も、それが「なぜ」なのか知らない。
 そんな奇妙な現象が起こっているのである。
 
・確認不能な目標達成
 
 当然ながら「今年の目標」は、その年の終わりとともに終わる。新年には新年の目標が設定されるからだ。
 
 ここでよく見られるのが、目標が達成されたのか達成されなかったのか、何のフィードバックもない、というような状態だ。
 上記の「新会堂設立」みたいな目標だったら達成・非達成を判別できる。けれどたとえば「聖霊に導かれて前進する教会」みたいな曖昧な目標の場合、達成・非達成はどうにも判定できない。「霊的に大いに達成された」とか言えば聞こえは良いけれど、その台詞は何一つ証明していない。
 
 けれどそういう曖昧な形で1年を終え、結局あの目標は何だったのか、みたいな状態になっている教会がある。すると目標設定された理由もわからなければ、達成されたかどうかもわからない。四字熟語で言えばまさに「五里霧中」であろう。
 
 巷の諸々のプロジェクトを見ればわかるけれど、「期間終了時に明確に結果判定できる目標を設定する」のはもはや常識だ。つまり結果判定できないものは目標ではない。そういうのはただの精神論、根性論と言う。
 
 という訳で、あなたの教会に掲げられている「今年の目標」をもう一度じっくり読んでみることをお勧めする。その目標は今年の12月頃に、成否が明確に判定できるものだろうか。
 もしできないとしたら、その目標が何のか、もっと言うと必要なのか、今のうちに考えておいた方が良いと私は思う。余計なお世話なのはわかっているけれど。

2015年3月12日木曜日

復興支援をする教会から、復興支援に依存する教会へ

 昨日は3月11日。当然ながら東日本大震災の話題があちこちで見られた。
 当ブログも意識した訳ではないけれど、今月に入ってから震災関連の記事をいくつか書いている。震災そのものについてでなく、それに対するキリスト教会の反応についてだけれど。

 それで昨日は震災ついて何か書こうかと考えていた。けれど結局やめた。どうにも考えがまとまらなかった。

 テレビやSNSを見てみると、考えさせられる意見も多かった。311が「感動ショー」になっているとか、被災地のことを被災していない人間に語ってほしくないとか、被災はまだ現在進行形だから終わったみたいに言うなとか。うん確かに、と思うところもある。だからこそ不用意に書いてはいけないと思った。

 ただ一つ気になったのは、震災当時に実感として強まっていた人々の「助け合い」精神みたいなものが、今はほとんど見られなくなったのではないかな、ということだ。2011年は「絆」という言葉がよく取り上げられたけれど、今震災の話になると、むしろ「対立」が起きているように思う。それが悪いという話ではないけれど。

・震災による教会の変化

 復興支援に携わった教会もイロイロな変化を経験したと思う。良い変化も沢山あっただろう。けれど致命的に悪くなってしまった教会もあった。「ユレユレ詐欺」など論外だけれど、そこまで意図的でなかったにせよ結果的に詐欺まがいなことになった、という教会もある。

 たとえば「直接的に復興支援をしている教会」には、全国から(あるいは海外からも)義援金や物資が届いた。物資はたぶん捌ききれない量になったはずだ。けれど食品なんかは賞味期限があるから置きっぱなしにもできない。あるいは被災地の現状に合わない物資なんかは、持って行けないから教会に溜まっていく。そういう事情で「被災地で消費できなかった物資」は相当な量になっただろう。いわゆる横流し的な状況もあったと思う。

 義援金の扱いも不透明になりがちだった。そもそも義援金をどう使うかという明確なルールがない場合、そのうち、ボランティアの交通費とか食費とか宿泊費とかに使ってもいいよね? という話になり、それをキッカケに被災地で開催するイベントの費用とか、そこで使う機材の購入費とかに充てられるようになった。そうやってズルズルと、復興支援費と教会設備費の境界線が曖昧になっていったのである。もともと教会の与力が少なかったという事情もあっただろう。お金の誘惑も大いに働いたと思う。

 それが結果的に、復興支援のための義援金なのに教会が好き勝手に使った、という話になったケースもあっただろう。上記のような事情があったのはわかるけれど、だからと言って許されていいということでもない。

・震災に依存するようになった教会

 という訳で「復興支援」を掲げることは、震災当時ほどでないにしても、まだ教会にメリットをもたらしている。もしかしたらまだ義援金をもらっている教会があるかもしれない。
 また自分たちの復興支援活動をアピールすることが、教会の推進力ともなっている。そういう教会はもはや、「震災」から離れることができない。

 私が知っているケースでも、日曜礼拝のメッセージに毎週のように復興支援の話を絡める牧師がいる。自分たちがいかに苦労してボランティアをしたかとか、どれくらい被災地の役に立てたかとか。あるいは被災地の誰某からの手紙を紹介するとか、そういう人たちとの心温まるエピソードを紹介するとか。その流れは単純で、「被災地の感動→神様すごい」である。

 そういう感動によって教会を盛り上げ、いかにも社会に開かれた教会、社会に心がある教会みたいなイメージを発信する。

 けれど失礼ながらそういう教会は、「被災地に心がある教会」と言うより、「被災地との繋がりを頼りにした教会」である。そこに不幸な人たちがいなければ、教会としてアピールするものがなくなってしまう。

 だから「震災から4年たったけれど何も解決していない」という言葉を教会が発する時、それがどういう動機で語られているのか、注意しなければならないと思う。
 純粋に被災地のためなのか、実は自分たちのためなのか。

 そんなことを考えた311の夜であった。

2015年3月10日火曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(恋愛篇)

 教会内で見られるクリスチャンの恋愛がらみの「あるある」。クリスチャンの恋愛なんてけしからん、交際は結婚が前提でなければならん、みたいなツッコミはとりあえず無視。

・「純潔の誓い」をする

 私は結婚するまで純潔を守ります、という誓いを立てる儀式(?)がある。若者がこぞって参加して、「みんなで純潔を守ろう!」という感動のシーンとなる。けれど1年後、みんなそのこと覚えてますか~?(←てゆうかこの儀式、クリスチャン2世の集まりでないと成り立たない気がする)

・「神様が恋人です」

「神様が恋人です。だからリアルの恋人なんてまだ考えてません」みたいな台詞。
 敬虔に聞こえますが、一般的に言う「仕事が恋人」「趣味が恋人」なんかと同列では。

・理想の結婚相手リストを作る

 自分の結婚相手はこうでこうでこうで・・・という条件を羅列したノートを持っている。そして異性と知り合った時、そのリストと照らし合わせて相手を見てしまう。
 なんか人間関係の前提が間違ってる気がしますが。

・奉仕をさりげなく手伝う

 好意を寄せる相手の奉仕をさりげなく手伝う。椅子ならべとか食器ならべとか、イロイロ。でも「さりげなく」と思っているのは本人だけで、周囲にはバレバレ。

・恋バナはイケないよね、でも楽しいよね

 恋バナ、いわゆる恋愛話はクリスチャンとして慎むべきだよね、という空気が教会にはある。けれど個人レベルでは相当な盛り上がりようかと。

・交際のはじまりは「導かれた」から

「神様の不思議なお導きで、〇〇姉妹とお付き合いすることになりました」みたいな台詞。
 それって具体的には、〇〇姉妹をデートに誘いなさい、デートはどこへ行きなさい、プロポーズはこうしなさい、みたいに神様にお世話してもらったってことですか?
 まさにマザコンならぬ「神コン」。

・交際のはじまりは「そういう願いが与えられた」から

 たとえば「同じ賛美チームに導かれて、そこで活動するうち、互いの心に交際の願いが与えられました」みたいな台詞。
 なんか、好きでもない相手と交際するよう願わされた、みたいに聞こえますけど。正直に「好きになった」って言えないんですか?

・牧師と仲の良い信徒の恋愛はうまく運ぶ

 牧師が特に気にかける信徒ってやっぱりいる気がしますね。不公平と言えばそれまでですが。
 それで牧師に可愛がられていると、奉仕とか交際とか、何かとスムースに運ぶんですよね。

・恋愛相談(?)を得意とする先輩信徒に相談する

 さてその結果が吉と出るか、凶と出るか。

・「祝福された結婚」にこだわる

 そもそも「祝福された結婚」って何だろう。純潔を守り通したこと? 交際期間をみんなに見守ってもらえたこと? 手順を踏んでお披露目できたこと?
 それって単に自分たちの理想通りにできたかどうかって話では。逆に「祝福されない結婚」が何なのか知りたいですね。
 現に「できちゃった婚」のクリスチャン夫婦が10年後も円満で、理想的に見えた牧師夫婦がまさかの離婚、なんて話もありますけど、どっちが「祝福」なんでしょうか。

牧師の恐るべき自作自演と、その被害に遭う信徒の悲哀

 とある教会が福祉系の事業に着手した。
 詳細は書かないけれど壮大な構想を持っていた。当然ながら実現には多額のお金が必要である。けれどうまいツテがあって、出資してくれそうな海外企業に話を通してもらえた。
 あとはその企業との直接交渉のみとなり、なんとなく、「これイケるんじゃね?」みたいな雰囲気になった。

 ところでその教会に、年輩の男性信徒がいた。彼をCと呼ぶ。C兄弟はその福祉系事業に人並みならぬ情熱を持っていて、実現させる為なら何でもしそうな勢いであった。だから出資してくれそうな企業の話が出た時はたいそう喜んだ。

 で、その海外企業の代表者が来日し、交渉の日となった。
 メインのプレゼンは牧師がし、合間の接待はこのC兄弟がした。彼がどんな接待をしたのか知らないけれど、「良い関係を築けました」という彼の言葉から判断する限り、成功したようであった。

 これを聞いて、教会は大盛り上がりである。結果を見ぬうちから「これは実現できそうだ」とか「これを足掛かりにしてこの事業もあの事業も始めよう」とか、いわゆる「捕らぬ狸の皮算用」に走る始末。

 しかし結果はなかなか届かなかった。相手が海外だからというのも関係したかもしれない。けれど1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、さすがに遅いのではないかと誰もが思った。唯一の連絡窓口である牧師も、「まだ返事がない」「大企業とはいえ大金を動かすのは時間がかかるのだろう」とか言っていた。

 しかしさらに3ヶ月、4か月と過ぎた。その間にギリシャの金融危機が深刻化し、ヨーロッパ全体に影響が広まる事態となった。牧師いわく、「この金融危機のせいで相手企業もお金を動かせなくなっている。これは回復を待つ以外にない」とのこと。

 冷静になって考えてみれば、出資するかしないかの判断に3ヶ月も4か月もかかる訳がない。それに大金と言っても零細教会にとって大金なだけで、多国籍企業からしたらそうではない。仮にお金を動かせなくなったなら動かせなくなったで、連絡をくれればいいだけの話である。
 だからこれは何かおかしいと、気付くべきだったかもしれない。

 結局半年近くたってから、牧師が言った。「出資しないとの連絡が入った。もう頭の中が真っ白だ」
 そしてその理由というのが、こうである。「どうやら相手はC兄弟の接待に不満を持ったらしい

 そんな簡単な理由ならもっと早くにわかったでしょう? というのが普通のツッコミである。けれど当時は誰もそういう風に考えられなかった。牧師はこう続けた。
でも自分はC兄弟の接待に問題があったとは考えない。たしかにこの事業も大事だけれど、自分にはC兄弟の方がもっと大事だ。だから私はこの出資よりもC兄弟を守る方を選ぶ
 そしてお涙頂戴の感動ショーが始まる。BGMは「神の家族」。
 事業よりも、家族が大事だよね?
 お金よりも、神の家族が大事だよね?

 という訳でお金は一円も入らなかったけれど、代わりに教会の結束が強まった・・・ともならなかった。後日、その海外企業を紹介してくれた人から、こんな話を聞かされた。
 相手企業は出資を承諾したのに、牧師が提出書類を期限までに出さなかった。だから出資の話は流れてしまった、と。

 出資を受けたら会計報告をちゃんとしないといけないし、当然ながらお金はその福祉事業にしか使えない。自分の自由にならないお金なら面倒だから受け取りたくない、というのが牧師の発想だったと思われる。

 てことは、C兄弟に一方的に責任をなすりつけておいて、「でも許してあげます、愛します」みたいな話にしたってこと? つまり自作自演?
 もう呆れるとうか、絶句というか。

 哀れなのはC兄弟である。一生懸命仕えたのに、あらぬ汚名を着せられ、「感動劇場」に利用され、気の毒と言う他ない。

 神様のために教会に仕えるのは良いことだと思うけれど、単に一生懸命なだけだとこういう目に遭うこともあるから、気をつけましょうって話。

2015年3月8日日曜日

揺り動かされたのは教会の方だった、という話

 先日はいただいた体験談から、東日本大震災関連の記事を書いた。
 まとめると、
 
 震災後、多くのキリスト教会がボランティア活動を行い、その関連で義援金を募ったけれど、その一部はいわゆる「ユレユレ詐欺」だった。あるいは単なる自己満足だった。
 
 という話。
 今回は同じテーマで、私自身の経験から書く。
 
・震災を境に変化した教会
 
 震災直後、とある教会が被災地でボランティア活動を始めた。
 初めは純粋に「被災地の為に」という大義名分を掲げていた。けれどお金が集まると、いつの間にか本質からズレていた。義援金で教会の備品を揃えたり、関係ない活動に使ったりと、フタを開ければ牧師のやりたい放題であった。
 
 同時に終末思想が強まり、「世の終わりのために具体的に備えなければ」と言い出す始末。それで農業とかテレビ局とか芸能界進出とかの話が持ち上がったのは、以前の記事「幻の終末小説を巡るどうでもいい話」に書いた通りである(あれと同じ教会の話)。
 
 それで終末思想に染まった牧師が言い出した。
日本にもう一度『揺り動かし』がくる!
 つまり日本でもう一度大きな地震が起こる、ということだった。
 
 その根拠として牧師が挙げたのが、ヘブル12章26節。この「もう一度揺り動かす」という言葉が、牧師の胸に「強く迫ってきた」とのこと。勝手に迫られてろって話だけれど、信徒らは大面目に受け止めた。それで教会全体が「終末に向けた備え」に取り組むことになる。
 
 具体的には、毎晩「ダビデの幕屋」の礼拝でヒステリーみたいに盛り上がり、昼間は農業とかテレビ局作り(?)とか芸能界進出とかの事業に取り組む。
 それらが終末とどう繋がるのか全然わからないけれど、そういう教会でそんなことを聞くのはヤボである。
 
 また、次なる地震は東京で起こると牧師は言った。「都市直下型地震ッ」と言う牧師の得意そうな、恐怖を煽るような口調。ハリウッドお得意のB級パニック映画の予告編みたいである。
 
 それはともかくとして、じゃあ東京にはいられない、どこかに避難しないと、という話になった。それである地方に物件を探し、備蓄用の倉庫を準備した。

 え、そこに何を備蓄したかって? そりゃもちろん、被災地の為に寄せられた支援物資の数々ですよ。沢山余ってましたからね! あれ、でもそれって横流しってヤツじゃないですか?
 
 それに、「東京に大地震が起こるから事前に地方に避難しておこう」というのは理屈としてはわかりますけど、いささか手前勝手じゃありませんか? 東京都民はどうなるんですか? まるで自分たちを、方舟に乗ったノアみたいに思ってるみたいですけど?

・結局揺り動かされたのは教会の方だった、という話

 とにかくそんなこんなで、「揺り動かし」というのが教会のキャッチフレーズみたいになった。「もう一度揺り動かされる!」「終末が始まる!」という台詞が、信徒には妙にリアリティを持って迫ってきた。

 そしてついに大地震再来の日時指定までされ、「揺り動かし」のカウントダウンが始まった。けれどそのカウントがゼロになる前に、牧師がトンズラして教会も空中分解した。あっけない崩壊であった。
 そして何だかんだがあって後、冷静になって考えてみると、あ、揺り動かされたのは自分たちの方だったな、と気づいた訳である。もう一度揺れるぞと言いながら、揺れたのは自分たちの足元だけだった、という話。ジョークとしてはなかなか面白いと私は思う。かなりブラックだけれど。

 その教会はずっと、「神様が濃厚に働かれている教会」と評されてきた。けれど私が思うに、神様が濃厚に働かれたのはその最後の一撃だけである。つまり偽りの牧師が退場させられたことが、信徒にとって最大の神の恵みだった、という話。

 だから身の覚えのある教会あるいは牧師は、今のうちに方向転換することをお勧めする。と言っても、そういう教会や牧師が自ら非を認めるなんてなさそうだけれど。

・歴史は繰り返す

 また最近、ある自称クリスチャンが「2015年4月に東京で地震が起こるかも」とか言っている。
 この人は2014年10月にも「携挙が起こる」と言って見事に外したけれど、本人に言わせると「私そんなこと言ってませ~ん。私がそんなこと言ったですって? ウケる~」とか誤魔化している。

 たぶんそこで学習したのだろうけれど、今回は「起こるかも」とちょっと慎重になっている。
 けれど「起こるかも」だったら誰でも何でも言える。神様とは何の関係もない。

 上記の牧師のように自分自身の足元が大揺れしたら、この人もちょっとは反省するのかな、と考えてみた。いや、しないだろうな。

2015年3月7日土曜日

クリスチャンの「恋愛」に思う理想と現実

 先日はいただいた体験談から、クリスチャンの恋愛について書いた。

 とある教会の、信徒の恋愛に関するトンデモ過ぎるルールに関してだ。若い男女の縦列行進とか、デートプランの提出とか事後報告とか、真面目にやっている人が本当にいるのかと疑うほどのトンデモ加減で私も驚いた。けれど同時に、大真面目に従う人もいるんだろうなとも思った。そういうトンデモが当然のようにまかり通るのが、信仰的虐待の現場(=教会)だからだ。

 ところでコメントも沢山いただいて感謝。いろいろな意見があって興味深かった。

 その中で『聖書が教える恋愛講座』という書籍を紹介するものがあったけれど、まあクリスチャンの恋愛というテーマではよく引き合いに出される本である。私も読んだことがある。内容は簡単に言うと「キレイな正論」である。

 全ては覚えていないけれど、恋愛を神様に委ねること、相手を誠実に愛すること、純潔を守ることの素晴らしさ、みたいなことだったと思う。奔放な恋愛とその結果としての悲劇がほとんど常態化している現代日本においては、ある意味で必要なメッセージを含んでいるように思う。日本においては古典的結婚観への回帰、とも言えるかもしれない。

 けれど一つ気になるのはこの本の邦題で、「聖書が教える」というのはちょっと違う気がする。なぜなら聖書は恋愛について明確に教えていないと思うからだ。もちろん「人はその親を離れて・・・」に代表される、結婚の原則みたいなものは書かれているけれど。

 もちろんこれは邦題の問題で、原題は" I kissed dating goodbye "である。「デートにさよなら」みたいな意味であろう。

 さてこの本の内容は「キレイな正論」である。著者であるジョシュア・ハリスの失敗談も書かれているけれど、それはむしろ正論を際立たせる。
 もちろん正論は正論であって、何も問題ない。むしろ理想形であろう。万人がそういう生き方ができるなら、この世界はもっと良くなっているかもしれない。

 けれどもしそういう理想形を体現している人がいるとしたら(教会でもどこでも未だ見たことがないけれど)、私は逆に気持ち悪く感じると思う。なにか完璧すぎて、かえって近づけないと思う。まるで汚してはいけない部屋に入ってしまって、立つも座るもできない、みたいな感じだ。およそ人間らしくない。

 この本が示す理想形をキリストの受肉にたとえるなら、富裕層の暮らすキレイな住宅街の真ん中に、神々しい光を放ちながら完全武装の神が降り立った、みたいな感じだと思う。その目は人間のうしろめたさを全て見透かしている。私がもしその場にいたら逃げ出すだろう。

 けれど実際の受肉はその真逆であった。誰も顧みない宿屋の馬小屋で、最貧層の状態で、何もできな赤子の状態で、神がやって来られた。また大人になった神もやはり貧しい身なりをしていて、自らすすんで売春婦とか不正な役人とかを訪れた。
 でもだからこそ、そういう神だからこそ、私たちは神のもとに行けるのではないだろうか。

 人間弱いもので、なかなか理想通りにできない。むしろ理想を求めながらも多くの失敗をする。そこへ正論を突き付けられるのは、それが正しいだけにキツい。

 何が正しいか、あるいは間違っているか、案外みんなわかっている。たとえばこの本に書かれている「相手を尊重する」とか「時期を待つ」とか、そんなの当たり前な話だ。聖書から教えられるまでもない。問題はそれが正しいかどうかでなく、それを守れないのが人間だ、という前提が見過ごされている点にあると私は思う。

「でもクリスチャンは神にあって変えられていくのです。クリスチャンの人生は再創造の人生なのです」と主張する人もいるだろうけれど、それは結局のところ自分軸の話だ。神がどうかでなく、自分がどうかという視点しかない。
 一つ忠告しておくと、この「変えられていく」を「罪を犯さなくなる」と勘違いしてはいけない。それは自分自身の内面を見れば、すぐにわかるはず。

 むしろ私が思うクリスチャンの希望あるいは再創造は、どんなに罪を犯しても神のもとに出ることができる、それでも神は私を愛している、というシンプルな真実に気づくことである。

2015年3月6日金曜日

【体験談】「復興支援のため献金して下さい」にご用心

 いただいた体験談から。3回目。
 今回は2011年の東日本大震災から始まった、キリスト教会による「復興支援活動」の関連。

 復興支援活動をしていたK教会の牧師が、某教会にやって来た。そしてK教会が被災地で展開しているボランティア活動についてイロイロ語った。

 東日本大震災は未曾有の規模の震災であり、人々の関心も高かった。だからそこで献身的なボランティア活動を続けているというK教会に対して「ご苦労様です」「私たちの代わりに感謝です」みたいな好印象を持つのは当然であろう。けれどそこで牧師によって語られた「献金の要請」は、そういう印象に左右されず冷静に聞く必要があると思われる。
 以下、K教会の牧師による「献金の要請」。私の脳内質疑応答つき。

①復興支援のために・・・

・皆さん、私たちの教会は被災地であんな活動やこんな活動をボランティアでしています。被災地にはこんな必要やあんな必要があります。どうか被災地と被災者の為に献金して下さい。
・捧げて下さった献金は、私たちの教会が被災地までお届けします。
・皆さんは現地に行けませんよね? けれどここで献金することで、皆さんも復興支援に携われるのです!

質問「それは素晴らしいですね。ぜひ献金させていただきます」
回答「ありがとうございます。これで被災者が一人、いや二人、救われることでしょう」
質問「それは良かったです。ところで、活動費明細みたいなものは後日開示されるんでしょうか
回答「も、もちろんです。いただいた献金がいかに復興支援に役立ったか、しかるべき時にしっかりきっちり報告させていただきますね」

*そう言っておいて未だ(2015年現在)会計報告の「か」の字もしていない教会が複数ありますけど? あのお金、どこで何に使われたのでしょうか?

②復興支援のためにッ・・・

・いやいや感謝です。当教会の復興支援活動も主の恵みによって順調に進んでおります。
・それで今回、海外のゴスペルチームと共に復興支援活動を行うことになりました。ハレルヤ!
・つきまして、海外のゴスペルチームを呼ぶ為に飛行機代、宿泊代、コンサート施設代、その他諸々の経費がかかります。どうかその為に献金お願いします!
・繰り返しますが、皆さんは現地に行けませんよね? 私たちが代わりに犠牲を払って行くのですよ?

質問「あ、ああ・・・、そうですか。じゃあ献金、させていただきます(小声)」
回答「素晴らしい! これで被災地の悩める人々にゴスペルを届けることができます!」
質問「あの・・・。頑張って下さい・・・」

*渡航費やら宿泊費やら施設費やらで相当な費用になると思いますが、それって本当に優先的な活動なんですか? 寒さに耐える仮設住宅の人が大勢いるんですけど?
*自費で来て被災地で雑魚寝して、自費で帰った海外ボランティアも大勢いますけど?

③復興支援のためにッ、これだけは・・・

・ハレルヤ~。我々の復興支援活動も被災地で大いに用いられております。
・つきまして、私たちのミニストリーも拡大が急務となっております。より大規模な集会に耐えうる楽器や音響機材が必要です。しかしどれも高額です。どうぞ献金して下さい!
・繰り返しますが、これは被災地の復興支援の為です!

質問「そうですか。ではそれらの機材は被災地に寄付されるのですよね?」
回答「いえいえ、イロイロな地域を巡って継続的に活動しますから、実際的には私たちが管理することになりますね。でもこれは全て、被災地の為です」
質問「では復興支援活動が終わったら、それらの機材はどうなるのですか?」
回答「んん~。被災地の現状がおわかりでないようですね~。やっぱり現地に行っていないからでしょうね~。実は復興支援活動は、年単位でかかる作業なのですよ。そう簡単には終われません」
質問「では、今後も年単位で復興支援に携わるのですね?」
回答「そこは主の導きのままですよ。主の導きとあれば、他の活動を始めることにもなるでしょうね。そこは主の導きですから! 私には何とも!」
質問「そうですか・・・。ところで義援金の会計報告はどうなってますか?」
回答「おっと、もう時間なので今日はこのへんで。我々は主のために秒単位で働いていますから、あしからず!」

*復興支援の名目で集めた義援金を、結局自教会の施設のために使ったという教会が複数ありますけど、それってほとんど詐欺じゃないですか?

■補足
 これと似たような話はけっこうあって、一部で「ユレユレ詐欺」と呼ばれている。震災被害に乗じて大金を得た教会(というか牧師)が道を踏み外して悲惨な結末を辿ったという話もある。善意の教会も多数あると思うけれど、そうでない教会(というか牧師)も現に存在する。

 特にお金をきっちりオープンに管理しない教会にはご用心。「主のために働いていて忙しいから」とか、理由にならない。

■補足2
 今回までの計3回は、いただいた体験談を紹介させていただきました。
 ご投稿下さった「ぐれいす」様、改めてありがとうございました。

2015年3月5日木曜日

【体験談】とある教会のトンデモ賛美ルール

 前回に引き続き、いただいた体験談から。

 とある教会が、学生キャンプを開催した。教会の学生たちが参加した。ちなみに彼らには前回の「恋愛ルール」が適用されている。あ、そこの2人、並んで歩いちゃダメですよ。手をつなぎたくなっちゃいますからね。

 それはともかく学生キャンプを開催し、ゲストとして某クリスチャンミュージックプロダクションの牧師を呼んだ。彼を仮にM牧師と呼ぶ。

 キャンプ中、M牧師は賛美について一貫したメッセージを語った。それでその教会の賛美が変わった。その変化が良かったのかどうかはわからないけれど、とにかく変わった。

 以降、M牧師による賛美(というか音楽全般)に関するルールについて、解説形式で紹介させていただく(質疑応答つき)。

①はじめに

・この教会の賛美礼拝、ダメですね。
・何がダメかと言うと、まず賛美の質が悪い。それに演奏も悪い。賛美の霊性も悪い。もうダメダメですよ。

質問「す、すみません。ではどうしたら・・・?」
回答「そうですね、賛美の質と演奏と霊性を高めるのは簡単ではありませんが・・・」
質問「はい・・・」
回答「でもまあ、ウチのプロダクションの賛美を用いれば解決ですよ。ウチのチームの賛美はとにかく素晴らしいですからね。知っているでしょ?」

※ピアノを後ろ向きで弾くとかいうパフォーマンスなら見たことありますけど、あんまり素晴らしいとは思いませんでしたが。それに賛美って優劣の問題なんですか?

②某クリスチャンミュージックプロダクションの紹介

・これはウチの教会の賛美奉仕者たちで結成されたプロダクションです。
・「賛美の回復」を標榜しています。
・日本中のキリスト教会に知れ渡っています(エッヘン)。
・ウチの賛美を使えば賛美礼拝はバッチリです(更にエッヘン)。

質問「はい、じゃあ導入させていただきます」
回答「それは素晴らしいご決断を。ではウチのCDをキャンプの参加者全員に無償提供しましょう」
質問「本当ですか? ありがとうございます!」
回答「いえいえ、これでウチの賛美が広まれば・・・じゃなくて賛美が回復すれば本望です」

※本当は無償提供でなく、CD代が初めからキャンプ費用に含まれていたとのこと。それって強制的に買わせられたってことですよね?

③その後の教会の変化

・M牧師のプロダクションの賛美以外の曲は使用禁止。
・ロック、パンクといった悪魔的(?)音楽を聴いてはいけない(個人的にでも)。
・ポップスでもドラム音の大きいものは聴いてはいけない(個人的にでも)。
・でもクラシックは良い。

質問「あの、じゃあ初めドラムが入ってなくて、途中からドラムが入るっていう曲もダメですか?」
回答「だから、ドラム音が大きいものは禁止です」
質問「じゃあそういう曲の初めの部分だけなら聴いてもいいってことですよね?」
回答「わかってませんね。曲を支配する霊は一つですから、部分的にいいってことはありません」
質問「じゃあドラムの有無は関係ないじゃないですか」
回答「そういうのをヘリクツと言うんです。君、悔い改めなさい」
質問「・・・じゃ、じゃあ、ドラム音が小さいものならいいんですよね?」
回答「それはケースバイケースです」
質問「あの、クラシックでもドラム音が大きいのありますけど?」
回答「クラシックは良いのです」

※基準が全然わかりません。

④更にその後

・サタンや悪魔の「焼き払い」が必要です。自宅にあるワーシップ以外のCDを全部持ってきなさい。
・そして教会で自分たちで焼却処分しなさい。
・これはあなたがたを守るためです。

質問「あの、焼き払いって何ですか?」
回答「イエスの御名を唱えながらCDを焼くのです。そうしないと悪い霊が断ち切られないのです」
質問「焼き払いしないとどうなるんですか?」
回答「悪霊に呪われてしまいます。可能な限り早く、教会で焼却処分しなければなりません」

※そんな聖書教理はありません。
※いわゆる焚書と同じです。古くは中国が、最近ではナチスドイツがやったのと同じですが。

2015年3月4日水曜日

【体験談】とある教会のトンデモ恋愛ルール

 今回はいただいた体験談から。
 とある教会の信徒の恋愛ルール(トンデモ)を解説形式で紹介させていただく(質疑応答つき)。

①基本姿勢

・当教会内での恋愛は基本自由です。
・保護者(親)に報告する必要もありません。
・ただし交際を希望する場合、事前に牧師先生様と面談し、許可を取ってからにして下さい。

質問「あの、自由じゃないんですか?」
回答「自由ですよ。牧師先生様の許可を取れば」
質問「じゃ、じゃあ、面談すれば許可は取れるのですか?」
回答「神様と牧師が良しとすれば許可されます」
質問「あの、それはどういう基準なんでしょうか?」
回答「繰り返しますけど、牧師先生様と神様、じゃなくて神様と牧師先生様が許可するか否かが基準です」

※結局自由じゃないんですよねえ?

②交際開始

・当教会は男女のデートも基本的に自由です。
・保護者(親)に報告する必要もありません。
・ただしデートする場合はグループで行って下さい。それも男2人女2人とかの同数ではいけません。男2人女3人などの構成にして下さい。

質問「あの、必ずグループでなければいけないんですか?」
回答「いいえ、やむを得ない場合は2人きりでも構いません」
質問「そうですか! じゃあ2人きりでもいいんですね?」
回答「ただし、その場合は2人デートのルールが適用されます」
質問「2人デートのルール?」

③2人デートのルール

・2人きりでデートする場合、数日前までにデートプランを作成して牧師先生様に提出して下さい
・デートプランは牧師の校正が入ることがあります。校正に従ってプランを変更して下さい。
・デート中、2人並んで歩くのは禁止です。縦列で歩いて下さい(カルガモの親子のように)。
・車に乗る場合は運転席と後部座席に分かれて乗車して下さい(送迎車のように)。
・デートが終わったら、すみやかに牧師に報告して下さい。

質問「あの、何を報告するんですか?」
回答「もちろん、デートがどうだったかをです」
質問「それって個人的なことだと思うんですが、報告しないといけないのですか?」
回答「デートプランを提出しない場合、あるいは事後の報告がなかった場合、その不誠実なカップルには別れていただきます」
質問「え? 別れる?」
回答「これは若いカップルを守るためのルールです。たとえば2人きりでデートしているのを他の信徒が偶然見た場合、躓きを与えることになりかねません。けれど牧師がそれを把握していれば未然に防ぐことができます。だからこれは教会を守るためでもあるのです」
質問「・・・」

※そんなデートだったらしたくありませんが。

④補足ルール

・2人きりでデートする場合、物理的接触は一切禁止です。

質問「物理的接触とは?」
回答「たとえば手をつなぐ等です」
質問「なぜいけないのですか?」
回答「手をつなぐとハグしたくなります。ハグするとキスしたくなります。人間とは弱いものなのです」
質問「・・・」
回答「だから初めから横並びで歩くのを禁止しているのです。歩く場合は縦列です」

※広い道とか遊園地とか娯楽施設内とかで、若い男女が縦列で歩いてるのってすごく違和感あるんですけど。

⑤実績

・上記のルールを守れず、あるいは守っても結局のところ破局するカップルが多いですね。
・だから男女交際はそもそもロクなことではないのです。
・ルールを守れず、悪魔に魂を売ったカップルがいます。だからこのルールは教会を守るためにも必要なのです(エッヘン)。

※以上、こういう牧師管理の男女交際がしたい方はどうぞこちらの教会へ!

2015年3月3日火曜日

神様に笑顔で挨拶すれば朝からハッピー? というハッピーでない話

 ある教会でよく言われる台詞。
「毎朝起きたら、『神様、おはようございます』と言いましょう。そうすると朝から笑顔で元気に一日を始められますから」

 いくつかバリエーションがあって、イエス様おはようございますとか、聖霊様おはようとか、ハレルヤと叫んで飛び起きるとか、鏡に映る自分に向かって今日も○○! と言うとか、イロイロある。

 要は起きがけに神様を意識することで、ポジティブなメンタルで一日を始めよう、という自己啓発的発想である。べつにキリスト教とは直接関係ない。もちろん「祈り」の要素があるなら関係なくもないが。

 とにかくそういう「毎朝の掛け声」を信徒に奨励する牧師がいる。
「僕はこれをもう1年続けていますが、いやあ毎朝スガスガシイですよ~。前日イヤなことがあっても主にあってリセットされ、また新しい一日を気持ちよく始められますからね~」
 満面の笑みである。朝からこのテンションかと思うと逆に周りが疲れそうだけれど。

 そういう話を真面目に聞いて、よし明日からやろうと言う信徒が必ずいる。私もそうであった。それで3日くらい続けてみるのだけれど、やはり自分で自分を元気付けているだけの気がする。あるいは本心を偽って笑顔をつくっているだけの気がするのである。
 それに生きてればイロイロある訳で、余裕のない朝だってあるし、気分の悪い時だってある。仕事のこととか家族のこととか気になって、とても朝から笑顔になれない時だってある。

 そういう訳で私の「朝の掛け声」は全然続かなかったのだけれど、教会に行くと牧師から時々その話をされる。それで、ああ続かなかったな、自分はダメだな、もう一度やってみようかな、とか思う訳だ。
 けれど、やっぱりできない。そんな繰り返しである。同じような経験をした人はきっといるのではないか。

 ところが牧師は(きっと)それが毎朝できているはずだ、すごいな、やっぱり神の器なんだな、と私は尊敬の念をもって見ていた。
 そんなある朝のこと。

 ミーティングがあるので私は教会に向かって歩いていた。もう少しで教会というところで、向こうから一台の車が猛スピードで走ってきた。牧師の車だった。運転席には確かに牧師の顔。向こうは私に気づいていない。
 何気なく見ていると、牧師の車は交差点で急停止した。自転車が通ったからだ。そのとき牧師の顔が歪んだ。声は聞こえなかったけれど、推察するに「チッ」と舌打ちしたようである。そして自転車が通過すると、また急発進して右折した。そちらに教会があるからだ。

 何となく、見てはいけないものを見たような気がした。明らかに不機嫌な様子だった。講壇で「毎朝笑顔で一日を始めましょう~」と言っている人物とはちょっと思えなかった。

 その他にも、朝の時間帯に不機嫌そうな牧師を見ることが何度かあった。ドアを乱暴に閉めて出てくるところとか、ブツブツ文句を言いながら歩いているところとか。
 あれ、毎朝起きがけに神様に元気よく挨拶してるんじゃなかったけ? 朝からハッピーなんじゃなかったっけ?

 ということで、牧師に対する尊敬の念が崩れ去ったのは言うまでもない。

・ちょっとした後日談

 教会で「弟子訓練」に関するセミナーが開かれた。講師はその牧師である。
 牧師いわく、
「師として、どうやって弟子を訓練するか? 肝心なのはこれです。自分にできないことは、弟子に押し付けない。弟子に言うなら自分もそれをしなければならない。当然ですよね?」
 うん、確かにその通り。アンタはできてないけどね。

奉仕は「適材適所」なのか「何でもやるべき」なのか、と悲しく考えさせられた瞬間

 ある教会のある姉妹。仮にBと呼ぶ。B姉妹は料理やお菓子作りが好きで、教会でも調理分野で仕えてきた。信仰熱心でもあり、礼拝以外の集会とかイベントとかにもよく参加しては、得意の料理やお菓子を(たぶん自前で)作ってきてくれていた。だから料理と言えばB姉妹、みたいなイメージが出来あがっていた。

 その教会が飲食業を始めた時、当然ながらB姉妹もそのスタッフの中にいた。そしてメニューの考案から厨房の管理から店内の装飾から、ほとんど彼女が関わっていた。それも強いられてでなく、自ら進んでしていた。B姉妹はどちらかと言うと地味で目立たないタイプだったけれど、神様に仕えたいという情熱は人一倍強かったのである。

 さて、その教会は良く言えば「活発」、正直に言えば「奉仕過多」なところだった。牧師が次々と「神に語られた」と言ってイベントを企画するものだから、信徒は休む暇がない。なんでこんなに忙しいんだろうと誰もが違和感を覚えながらも、神様が語るのだから仕方がないと誰もが諦めている、そんな教会であった。

 そしてある時、子供向けの大規模なイベントが企画された。一般の子供たちが多く集まるところで、いわゆる「クリスチャン祭」(?)みたいなことをしようという試みだった。フランクフルトとか焼きソバとかの屋台を出し、輪投げとか射的とかのゲーム広場を作り、将棋コーナーとか工作コーナーとかの小ブースをいくつか設け、定時になるとビンゴ大会とか演劇ショーとかを披露する、要するに縁日の出店の集合体みたいなものだった。

 それがキリスト教信仰とどう関係あるのかよくわからないけれど、奉仕者はみんな若者で、子供たちも割と集まって、それなりに楽しくて盛り上がった。

 そのイベントでもB姉妹は大活躍で、彼女は当然ながら屋台を担当した。食材や機材の調達やら調理やら販売やら(私は詳しくわからないけれど)、そういった諸々を一手に引き受けていたと思う。

 そこの牧師いわく、奉仕は「適材適所」が肝心で、個々の信徒の得手不得手を考慮して担当させるのが一番だとのこと。だからB姉妹は屋台担当になった訳で、それ自体は何ら問題ない。

 ところでその「クリスチャン祭」はそこそこの盛り上がりを見せ、定期的に開かれるようになった。けれど(よせばいいのに)他のイベントも同時進行で行うから、どうしても人手不足になる。「クリスチャン祭」に割ける人手も限られてくる。それでどうなるかと言うと、一人二役、いや三役四役である。

 それである時、「クリスチャン祭」の演劇ショーに出演する姉妹が、べつの奉仕に駆り出された。その穴は誰かが埋めなければならない。そこで白羽の矢が立ったのが、なんと屋台担当のB姉妹であった。
 牧師「Bちゃん、急だけど、演劇ショーのあの役、やってくんない? できるよね?」
 B姉妹「え・・・。それはちょっと・・・」(長い沈黙)
 牧師「なに、恥ずかしいとか思ってんの? みんな恥ずかしいのを我慢してやってんだよ? それくらい神様の為にできないわけ?
 B姉妹「でも・・・」
 牧師「なんだよそれ。神様の為なら何でもするのが信仰だろうが・・・。まったく・・・」(と不機嫌そうに溜息。あれ、でも得手不得手を考慮するんじゃなかったっけ?)

 いつも献身的でほとんどNoと言わないB姉妹が、はじめて見せた抵抗だった。それだけ演劇ショーの参加がイヤだったのだろう。気持ちはよくわかる。というか当然の反応である。たとえるなら小学校のクラスで一番おとなしい女の子が、学芸会でやる『シンデレラ』の主役に抜擢(というか強要)されたようなものだ。無理があるにも程がある。

 という訳でその時は精一杯の意思表示をして拒否したB姉妹だったけれど、結局「神様の為に」という言葉に逆らえなかったらしい。嫌々だったと思うけれど、あとから演劇ショーの奉仕を引き受けた。

 そして演劇ショーが始まり、恥じらいながらも精一杯演じようとするB姉妹。そんな事情なんか知らねーということでヤジを飛ばす子供たち。事情を知っていて直視できない私を含む何人か。そしてショーが予定通りできたからと満足する牧師。

 奉仕は適材適所かと思いきや、どんなにイヤでも神の為ならやらねばならない? てゆうかこれって本当に神様の為? そんな疑問がグルグル回る、「クリスチャン祭」の一コマであった。

2015年3月1日日曜日

幻の終末小説を巡るどうでもいい話

 ある教会で、「ダビデの幕屋の回復」運動が始まった。

 率先して導入したのはもちろん主任牧師。それまで知らなかったはずのその運動について、さも第一人者みたいに語りだす。「ダビデの幕屋というのはッ・・・、この終わりの時のッ、主の偉大なる御心だァ!!」(←ちょっとジョジョが入っている)

 それで教会の礼拝スタイルはガラリと変わる。姉妹たちは旗を振り、何人かの兄弟は輸入ものの角笛を吹き鳴らす。牧師はそれまで以上にウォーウォー叫ぶようになり、賛美チームは2時間ぶっ続けの演奏ができて「ほんとうに感謝です!」と泣き笑い。信徒らも「見張り番」とか「祈り手」とか役を割り振られ、深夜までその「礼拝」に付き合わされる。

 なぜそんな暴挙にガマンできるか? それは「世の終わりの主の特別な戦略だからッ!」(←やっぱりジョジョ)と言われて舞い上がっているから。自分たちを「特別に選ばれた群れ」と自負している次第。

 それで牧師は終末思想に憑りつかれていく。自分たちを「世の終わりをリードする先駆者ッ」と言って憚らない。
 そして先駆者として「この世」にインパクトを与えなければならない、ということで、患難時代に備えて今から農業を始めようとか、テレビ局をつくって世界中に発信しようとか、芸能界にも進出しようとか(←なんで?)、まあいろいろな事業プランを展開する(口で言うだけだけど)。

 そのプランの中の一つに、今回のタイトルにもある「終末小説」があった。
 牧師いわく、「自分には終末を駆け抜ける(自分たち)先駆者を題材にした小説のアイディアもある。もう構成は出来上がっている。残念ながら私に書く時間はないけどね」
 会衆の反応、「おおっ」
 さらに牧師、「その小説が出来上がったなら、映画化も視野に入るだろう。そうしたらハリウッドにも負けない大スペクタルになる」
 会衆の反応、「おおおっ」

 その「終末小説」の話を聞いて、大いに反応した一人の信徒がいた。彼を仮にAと呼ぶ。Aは30代の献身者。教会から薄給をもらい、ちょこちょこバイトもしながら、教会浸りの生活を送っている。食事はもっぱら近所の格安スーパーの総菜パンで、服はGUのセール品をごくたまに買うくらい。国民健康保険も年金も支払免除を受けている。本人に言わせると、清貧を絵に描いたような暮らしぶり。

 
 しかしAはかつて、作家になりたいと願っていた。学生時代にいろいろな新人賞に応募しては一次選考で落ちるという経験を持っていた(←つまりダメだったということ)。しかし教会で神に出会い、クリスチャンになって、以降は教会に全てを捧げて生きてきた。だから作家の夢もとうに諦めていた。

 そんな中で「大スペクタル終末小説」の話が持ち上がったのである。Aの作家魂に再び火が点いたのは言うまでもない。
「もしかしてこれ、『レフト・ビハインド』をも凌駕するインパクトを与えることになるかも?」と考えたかどうかわからないけれど、いつも控えめなAが牧師に猛アピールを始めた。
「先生、僕がその終末小説を書きます!」
「おお、そうか。じゃあさっそくやってみなさい」
「はい、では先生が作ったという構成を教えて下さい!」
「うむ。じゃあ今度時間を取ろう」
「はい!」

 Aの胸が珍しく夢で膨らんだ。いつも弟子訓練で牧師に怒鳴られてばかりだったけれど、ついに自分の能力(←新人賞の一次選考で落とされる程度の能力)を発揮できる時がきたからだ。「これぞ日本版『レフト・ビハインド』だ」とか、「恐るべき終末の啓示に満ちた小説」とか、そんなキャッチコピーが頭の中を駆け巡る。興奮して夜も眠れないくらいだった。

 で、牧師との約束の日時。沢山書けるようにノートとペンを用意した。牧師と対面。初めは世間話とか、最近牧師がどれくらい忙しいかとか、そういう話が続いた。そして待ちに待った瞬間が訪れた。
「じゃあ先生、終末小説の構成を教えて下さい」とA。
「うん、題名は『先駆者』にしようと思う。何か他にいいのある?」と牧師。
「いいえ、『先駆者』が一番いいと思います」
「うん、だろう? で、構成だけど・・・」
「はい」
 牧師は少し口ごもる。「ま、要はマタイ24章をなぞるってことなんだけどね
「はい」
 しばし沈黙。
 「先生、それでどのような構成で?」
ん、だから24章の流れだよ
「24章・・・」

 ハリウッド映画も凌駕する大スペクタクル終末小説『先駆者』の偉大なる構成の話は、そこで終わった。あとはどうでもいい世間話が続いた。Aは完全に茫然自失。

 Aは新人賞で予選落ちしか経験しなかったけれど、小説の基本はちゃんと学んでいた。「構成」が何なのか当然知っていた。だから牧師が「マタイ24章をなぞるってことだよ」と口ごもった時、Aは気づいた。
こいつ、構成なんて一つも考えてなかったな

 牧師に長年忠実に仕えてきたけれど、その時はじめて、Aは牧師の不誠実さに気づいた。皆を煽るためのデマカセを平気で口にしていることに気づいた。
 そして一つのウソに気づくと、後は雪だるま式にウソの数々を発見していくのだけれど、それはまた別の機会に紹介できればと思う。

 という訳で、超大作終末小説『先駆者』は幻の存在となった。以上はその顛末に関するどうでもいい話である。
 ちなみに多少の脚色はあるけれどほとんど実話である。そっちの方が終末的な話だったりして。(終わり)

「牧師に従っただけ」だとしても、間違いが間違いであることは変わらない、という話

 カルトか非カルトかにかかわらず、キリスト教信仰として「それっておかしいでしょ」という事柄がある。
 たとえば「異言」。
 聖書が示す「異言」の特徴は、「語る本人が全く知らない」「練習不要な」「完全に正しい外国語」である。けれどおかしな「異言使用者」のそれは、「先輩の真似から始まり」「徐々に種類が増え」「それでも単音の繰り返しでしかない奇声」となっている。明らかに聖書と矛盾している。

 その手の「おかしさ」は他にも沢山ある。ざっと挙げると「気分次第の預言」とか「超ポジティブシンキングによる癒し」とか「圧倒的臨在という名の集団ヒステリー」とか「架空の敵と架空の格闘をする霊的戦い」とか諸々だけれど、ここでは細かく書かない(書いてるだけでもバカらしくなってくる)。

 とにかく「それっておかしいでしょ」という事柄が蔓延している教会は少なからずある。そしてそういうことを大真面目に信じて行っている信徒も存在する。彼らはそれが純粋なキリスト教信仰だと思っていて、疑う余地がない。
 今回は、そういう彼らについて書いてみたい(それは過去の私自身のことでもある)。

 少し前に頂いたコメントから、複数の方が似たような経験をしていることがわかった。まとめると、次のようなことを言われたことがある、というもの。

たとえ間違っていたとしても、あなたは牧師に従っただけなのだから、何も問われることはない

 信仰的虐待に遭った人たちへの慰めの言葉だと思われる。実は私も同じことを言われたことがある。
 被害から回復する過程において、こういう言葉、すなわち「あなたは悪くない」と言われるのは大切だと思う。被害者はどうしても「自分が悪い」と思いやすいからだ。自分が悪いと思っていると、正しく回復していけない。

 また、確かにこれはその通りに思える。信徒の立場からすれば、牧師から教えられたことを従順に行っただけで、まさか「神の牧師様」が間違っているなんて思わないからだ。
「自分は純粋に従っただけ。まさか騙されていたなんて・・・」という心境かもしれない。
 そこが初めて行った教会なら尚更、疑うなどあり得ないだろう。

 しかし、被害者感情を重々承知した上で書くと、信徒の方に問題がなかったとも言えない。なぜなら聖書を読んで理解に努める責任は個々の信徒にあるのだし、良心の問題としても、また一般常識の問題としても、牧師の言葉を実行するかどうかは事前に吟味しなければならないからだ。

 たとえば(極端な例かもしれないけれど)、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教という組織について考えてみる。その計画を立案したのは教祖の麻原彰晃だけれど、実行したのは腹心の信者たちだった。では実行犯である信者たちに罪はないかと言うと、そんなことは全然ない。彼らがいくら「正しいと思った」「言われた通りにしただけ」「まさか間違っているなんて」と言っても通用しない。特にサリンで命を落とした方々の遺族からしたら、誰が立案したかとか実行したかとかいう役割分担はほとんど関係ない。

 もちろん、おかしな「異言」を教会内で1万時間語ったところで、外部の誰に迷惑がかかる訳でもない。単に人としてイタイだけだ。そういう意味で害はなく、オウム真理教のような刑事罰を受けることはないだろう。
 けれどそれが神様の前に正しいかどうかは聖書を見れば明らかな訳で、「間違っているとは思わなかった」「牧師に従っただけ」といくら言ったところで、それで正当とされることはない。

 だから「牧師に従っただけだから何も問われない」というのは違うと私は思う。「でもやったのはあんたでしょ」という話になるはずだ。もちろん「騙されていた」のも事実だから、そこには何らかの憐みが施されるはずだと私は信じているけれど。