「祈ってれば大丈夫」で済まされない人々にとって教会って何なの

2015年3月19日木曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 あるシアワセ系クリスチャンのメルマガを、それとわからないように要約してみる。

ハレルヤ! 今日も主に感謝し主と共に歩みましょう。
(しばらく聖書の変な解説が続く)
 という訳で、私たちは主にあって苦しみを通るのです。
(また変な聖書解釈)
 しかしこのように苦しみは、私たちがきよめられ、義とされるのに必要なのです。
(さらにいろいろ御託を並べたうえで)
 今日もあなたのうえに、主の祝福が豊かにありますように。

 みたいな感じ。
 べつにこの内容がどうこうということはない。
 というか、この手の話はよく聞くなぁと思う。
 なんだかすごくポジティブで、神様に信頼していれば万事OK、苦しくっても悲しくっても祈ってれば大丈夫、みたいな雰囲気。

 べつに間違っている訳ではないと思うし、これで励まされる人もいるだろうと思う。自分も似たようなことを言ったことがある。繰り返すけれどこの手の雰囲気は聖霊派・福音派あたりにすごく多い。

 そういう教会は、いわば「超ポジティブシンキング型信仰」の集合体みたいなものだ。

 ポジティブそのものは悪いものではない。むしろ時として必要である。けれど何でもかんでもポジティブに捉えて生きられるほど人生単純じゃない。単純だと思うのはよっぽど恵まれた人か、苦労を知らない人か、何でもできるスーパーマンだ。

 たとえば上記の「苦しみは私たちがきよめられ、義とされるのに必要」というくだりは本当によく聞く話だし、その通りって部分もあるけれど、すべてのケースに当てはめることはできない。
 なぜならたとえば、DV被害に遭っている人にこんなことを言ったら、死ぬまで暴力に耐えなければならなくなるからだ。

 夫が妻に暴力を振るう、いわゆるDV夫婦はクリスチャンにもいる。そこには「共依存」という心理状態にキリスト教信仰が絡んでいるから相当複雑である。
 DVを受ける妻は「それでも自分が夫のそばにいなければ」という心情に加えて、「これも主からの試練。いつか主が解決して下さる」とケナゲに信じているから、どんなに暴力を振るわれても耐える以外の選択ができない。そこにあるDVという病理が、信仰というベールで被われてしまうのだ。

 つまり本来なら専門的な介入によって妻を助け出さなければならないのに、「信仰によって解決すべき」と教会が言ってしまう。妻からしたらチェックメイトである。十字架につけられたキリストよろしく、やられたい放題。

 そういう状況を考えると、冒頭の「ハレルヤ! 今日も主に感謝し主と共に歩みましょう!」がいかに軽薄かわかる。人の本当の苦しみがわかっていない。信仰とか「ハレルヤ」とかで解決できない問題は現にあり、超ポジティブシンキングではどうにもならない事態は存在するのだ。

 私は現在教会員であることを辞めている身だけれど、教会員だった頃より今の方が、人の本当の痛みを目にしている。「祈ってれば大丈夫」なんて言ってられない事態はすごく多い。そういうケースで「祈っていいですか」なんてどんなツラして言えるだろうか。少なくとも私には言えない。

 教会が、あるいはクリスチャンが「この世」にインパクトを与えていきたいなら、「祈ってれば大丈夫」で済まされない人々に目を向けるべきだ。それができないなら単なる「救世ゴッコ」に興じているに過ぎない。そんな教会もクリスチャンもいらない。と私は思う。

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