2015年3月21日土曜日

どうにも救われない自分自身に気づけない、という話


 自由なようで自由でない、恵みの中にいるようでいない、そんな「教会スタッフ」あるいは「献身者」あるいは「働き人」(その他呼称多数)の葛藤について。

 前回書いた通り、彼らは常に過重な奉仕を課せられている。朝から晩まで働いて、さらに徹夜したって終わらない。なのに「感謝します」とか言って頑張っちゃう。それを信仰、あるいは神への従順と信じているから。

 そこが単なるブラック企業なら、ひたすら働けって話だろう。けれどキリスト教会の場合、そこに「信仰」という要素が絡むから厄介だ。

 彼らスタッフは2つの面で奉仕を要求される。すなわち「労働」と、「祈り」。
 ひたすら働き、ひたすら祈れ、だ。実際面と霊的面の両立、と言ってもいい。それも単に両立させるだけでなく、どちらも高水準でなければならない。と牧師から言われる。

 でもこの「働け」と「祈れ」は基本的に相反しているから、すごく混乱させられる。

 たとえば伝道集会で歌を歌うとする。素人なのに高水準を求められるから、ひたすら練習することになる。でも練習ばかりしていると、聖書を読んだり祈ったりする「霊的習慣」を疎かにすることになる。かと言って「霊的習慣」の時間をじっくり持つと、歌の練習ができない。結果、牧師が満足するレベルには達しない。
 じゃあどうしたらいいの? というのが信徒の本音であろう。

 ちなみにこの例の正解を書くと、素人が頑張って人前でカラオケを披露したって誰も喜ばない、ということ。もうひとつは、牧師が満足するかどうかで奉仕したって何にもならない、ということ。

 この例のように、クリスチャンは働けば働くほど祈れなくなるし、祈れば祈るほど働けなくなる。じゃあどうしたらいい?

「バランスよくやればいいじゃん」と言う人もいる。けれどこういう教会のスタッフの忙しさは、もうバランスがどうとかいうレベルではない。
「祈り心で働け」とか言う人もいるけれど、なんか禅問答みたいで要領を得ない。

 ちなみにこの「祈り心で働け」は、信仰の奥義っぽく聞こえるかもしれない。けれど要は「異言モドキ」をぶつぶつ呟きながら、あるいは心の中で念じながら働けって意味であることが多い。そして「異言モドキ」という前提の部分で、すでに間違っている。
 また「労働」と「祈り」という相反する概念をうまく融合したつもりかもしれないけれど、今日の聖霊派にみられる「インスタント信仰」の現れとしか私には思えない。

 ということはその場を離れ、冷静になって考えてみればわかるのだけれど、当事者にはわからない。人にもよるが、すごく真剣に考えてしまうことがある。
 今回はそれを猛烈に真剣に考えてしまったあるクリスチャンについて書きたい。仮に彼をEと呼ぶ。

・E兄弟の悲劇

 E兄弟は超マジメ人間で、奉仕も一生懸命、祈りも一生懸命、何事も妥協しない人だった。もともと能力もあって、パフォーマンスも素晴らしかった。

 ある時、出先の教会で奉仕した。遅くまでいろいろあって、深夜に就寝。皆疲れて早々に眠ったけれど、E兄弟だけは隅っこの方で聖書を読み、祈っていた。
 そして翌朝は誰より早く起きて、やっぱり祈っているのである。その日の奉仕だって妥協しない。

 E兄弟はそんな人である。

 あるとき牧師に言われた。「最も良いものを神様に捧げなさい」
 最も良いもの、イコール自分の最大限の努力、とE兄弟は考えた。だからE兄弟は奉仕にこれまで以上に力を注いだ。誰が見てもE兄弟は努力していたし、そのスキルもどんどん上がっていった。

 けれどそれに反比例するように、E兄弟の顔は暗くなった。話を聞くと、「最近十分に祈れない」「十分に聖書を読めない」「奉仕とのバランスがとれない」とのこと。つまり、上述の葛藤である。

 そんなに頑張らなくてもいいのでは、というのが全うな意見だと思うけれど、E兄弟には通用しない。神様の為には妥協できない、自分の全部を捧げなければならない、というのが彼の揺るがない信条だったからだ。

 それでどうしたかと言うと、E兄弟は睡眠時間を捧げるようになった。自分の睡眠時間を例の「霊的習慣」に当てたのだ。涙ぐましすぎる姿である。というか笑えない。

 あえてその結果を書くけれど、E兄弟は体調を崩した。そして奉仕も祈りも十分できなくなった。時折おかしな発言をするようになった。牧師は「霊の戦いと癒しが必要だ」とか言ってE兄弟のために祈ったけれど、当然ながら何の改善も見られなかった。

 そんな状態になってもE兄弟が思うのは、「自分の信仰が足りないからだ」「自分の何かが間違っているから神様が働かれないんだ」みたいなことだった。

 長年牧師にそう教わってきたから、もはや訂正不能な状態だったのかもしれない。もともとのマジメさも災いしたと思う。

 たぶんE兄弟みたいな人は少なくないと思う。他にも何人か似たような人を知っているけれど、皆マジメで一生懸命だ。牧師にも忠実である。
 けれどおそらく彼らは、神様に対してえらく勘違いしている。「天の父」である神様が「子」である私たちに何を求めているか、たぶん勘違いしている。

 子を持つ親であればおそらく簡単にわかると思うけれど、自分の子供が夜も寝ないで働いたり祈ったりしていたら、止めるのが親というものだ。ちゃんと休みなさい、と言うのが親というものだ。

 だからE兄弟がイメージしていたのは、父なる神じゃなかったと思う。ものすごく怖い裁判官みたいなものをイメージしていたと思う。
 そしてその勘違いに気づけない以上、クリスチャンとしてものすごく不幸ではないかと私は思う。

 というわけで、前回は「救われなければならないのは自分だった」と気づいた話だったけれど、今回は「それにさえ気づけない自分」という話。

4 件のコメント:

  1. 聖霊派の多くの教会は、「霊的」という言葉に惑わされているというか、踊らされている気がします。その「霊的」というレベル?、言葉?のせいで、人を上下に見たり、競ったり、ノルマが出たりするんじゃないかな?と、思いました。
    笑顔も、聖霊派の人たちのは力の入った、競っているような笑顔に見えて、「霊的」を競わない福音派の人たちの、力の抜けた笑顔に、なんとなくホッとします。

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    1. |「霊的」を競わない福音派の人たちの、力の抜けた笑顔に、なんとなくホッとします。

      異議あり!

      「福音派の人たちの、力の抜けた笑顔」のマスクに隠された裏の顔を、どうか読み取ろうとしてみてくだされ。

      福音派といっても十人十色。
      仮面をひっぱがせば、聖霊派とたいして変わらないツラがあるやもしれません。

      無論、リベラルでも伝統教派でも同じコトが言えますがね藁藁藁

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    2. そっかぁ。
      今、親切にしてくれている福音派の人たちは、ほっといてくれるというか、押し付けてきたり、強要してくる事が一切なく、お客さんでいい・・という感じで、接してくれます。

      今、接している教会が良かったのでしょうね。
      確かに、以前に他の福音派を見た時に、聖霊派と変わらない、教会内に競争意識があって、怖かったですから。

      教会って、難しいですね。

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  2. ここでは兄弟って謳われていたけど、我らの教会では姉妹だったよ。睡眠時間を削り、いつも牧師先生にお供している。もうかれこれ、30年ぐらいそうしている。不幸なことにその教会体制に副牧師でもない彼女にもお伺いを立てる事が定着している。牧師が決断できなければ、彼女に決断を委ねる。そして、その姉妹は模範と謳われ信徒はそれを目指して奉仕に祈りと明け暮れている。彼女には家庭がない、独身者だ。家庭持ちがあれを目指せば、教会って何?信仰って何?となってくるであろう。それから、本物に気づくかもしれない。いや、気づいて欲しい。

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